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扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
19/20

紅塵涙劫

北海道、札幌。 都心から離れた一軒家の内側は、壁も床も、目を刺すような血色に塗り潰されていた。


ダイニングの中央。かつて食卓であった場所には、ひとりの少女が「大」の字に釘打たれ、冒涜的な祭壇の供物と化していた。切り開かれた腹部からは腸が引きずり出され、残骸のような肉体を囲むように、不吉な幾何学模様を描き出している。


少女は自らの脾臓と腎臟を両足で踏みつけ、両手には肝臓と肺を握りしめ、口内には、もはや鼓動を止めた心臓を咥えさせられていた。死してなお見開かれた瞳。そこにあるのは、筆舌に尽くしがたい衝撃――実の親によって「神」への生贄に捧げられたという、絶望的な拒絶であった。


一乗寺は、静かに三階への階段を上がった。


テラスでは、降りしきる雪の中、黒の正装に身を包んだ女が遠い夜空を凝視していた。寒風に長い黒髪をなびかせ、屋内の微かな光が、彼女の美しくも冷徹な輪郭を縁取っている。


「……新しい手がかりか? 一乗寺」


背後の視線に気づき、女はわずかに口角を上げた。一乗寺は短く咳払いし、言葉を選びながら頭を垂れる。普段は一帯に名を轟かせる「奉行随身」である彼も、この上司の前では敬謹な部下の一人に過ぎない。


「奉行、御推察の通りです。儀式は完了し、親夫婦は跡形もなく姿を消しました。今夜だけで五件目……函館の一件を除き、すべて生贄の捧揚に成功しています」


「大世、あるいは乱世。やはり、降臨するのだな……」 女は淡々と、しかし重く呟いた。 「『百鬼夜行』に我々の注意を逸らし、『規則書ルールブック』の制御が最も弱まる瞬間を突いて血祭を仕掛けてくるとはな」 「囮として『懐風』一人を差し出すとは……この儀式の権重は、それ以上に重要だということか。となれば――」


奉行の声が、唐突に途切れた。 不審に思った一乗寺が顔を上げると、そこには、北の大地を隻手で鎮めてきた「箱館奉行」にあるまじき、狼狽の色があった。


「……一乗寺、見ろ」


その言葉と同時に。 万丈の天幕を超えた、知られざる次元の深淵から、皎潔たる柔光を放つ巨大な星辰が、夜の帳を裂いて出現した。


「奉行! あれは――!」


「『蟾宮せんきゅう』だ」


二十余年前、突如として天象に現れ、そして隠れた伝説の星。北海道へ赴任して三年の間、一乗寺が先輩から噂で聞くだけだった「堕ちた星」が、今、その真容を現したのだ。


「特級事案です、奉行!」


しかし、奉行の顔から驚愕は消え、代わりに宿命を受け入れた安らぎが浮かんでいた。彼女の周囲の空間が、波紋のように歪み始める。


「一乗寺、すまないがここは任せる。私は潜在する『火種』を処理せねばならない……その後東京へ戻る。」


「――混乱が、始まるぞ」


···


――禍体!


その二文字が放たれた瞬間、太一は感じた。 無限の高み、運命の河の彼方。影の帷の向こう側から、無数の冷たい視線が次元の障壁を貫き、錐のように自分を射抜くのを。


同時に、抑え込んでいた「貪欲」が火山のごとく噴出した。外側からは魂を焼く熱波、内側からは血肉を溶かす空洞。太一の姿は明滅し、その生機は絶滅の淵へと追いやられる。


だが、崩壊と虚無への帰還、その寸前――。


太一の眉間に刻まれた「梅花」の烙印が紅蓮のごとく咲き誇り、純浄な生気が爆発した。それと呼応するように、天穹を覆う暗雲を裂き、皎潔たる柔光を放つ巨大な星辰――『蟾宮』がその姿を現した!


銀色の星輝が滝となって降り注ぎ、聖なる障壁を形成する。未知の視線を遮断し、運命の奔流を堰き止め、世界を滅ぼさんとする「貪欲」を力任せに鎮め込んだ。


死気に満ちた虎穴が、銀の光によって白昼のように照らし出される。その衝撃に、隙を伺っていた悪虎までもが数丈後退した。


「禍福は糾える縄の如し……それが禍体か」 虎鬼の顔が忌々しげに歪む。 「だが、寿命を数分延ばしたに過ぎん。神元は枯渇した。さあ、残る手段をすべて見せてみろ!」


「グルアアアッ!」 咆哮とともに、吊睛猛虎の法相が腥風を伴って肉薄する。 太一の神元は底を突き、意識は生と死の境界を漂う。もはや『自在天功』を強引に回すしかない――そう決意した瞬間、虎鬼に呼応した女たちの亡魂が、狂ったように太一へと殺到した。


亡霊が体内に侵入し、骨の髄まで凍りつくような絶望が魂を揺さぶる。その沈淪の闇に抗おうとした、その時――。


「――ドスッ!」


背後で響いた、肉を貫く鈍い音。


太一が驚愕に振り返ると、狂風の中に二人の女性が座り込んでいた。一人の顔は陰鬱に歪み、その痩せこけた右手が、あろうことか小鳥遊夢の胸を貫通していた。


小鳥遊は信じられないものを見るように、自分の胸から突き出した血塗れの手を見つめた。その掌の中で、彼女の心臓が、未だ微かに拍動を刻んでいる。言葉を紡ごうとする口からは、鮮紅の血沫が溢れ出した。


意識が途絶える最後の刹那。 彼女は何かを悟ったように太一を見つめ、残された力のすべてを振り絞って、決然と首を振った。


女子は、まるで悪夢から引きずり戻されたかのようだった。目の前に広がるのは、到底信じがたい、そして取り返しのつかない光景。


手のひらの中で、拍動が次第に弱まっていく。腕に伝わる熱は失われ、貫いた相手の体温が、刻一刻と氷のように冷え切っていく。


女子の身体は、止まらない戦慄に震えていた。漏れ出す咽び泣き。己の手を引き抜きたい、この冷めゆく心臟をもう一度胸の中に戻したい――そんな狂おしい衝動が彼女を支配する。


「違うの! 違うの、違うのよ……っ!」 顔中に涙を流し、恐怖に怯えるのか、あるいは後悔に苛まれているのか。


「死ね! 死ね! 死ね……ッ!!」 一転して、顔を醜く歪ませ、嫉妬と怨念を撒き散らす。


その貌は、刹那の間に無数の面容へと変じ続けた。一人でありながら、それはまるで無数の女たちの「集合体」であった。


その表情は、ある時は哀願し、ある時は怨嗟を吐く。 悪虎は、さながら優雅な観客のように、その丹念に編み上げられた惨劇を冷ややかに見下ろしていた。


吊睛猛虎がその巨躯を躍らせ、鼻腔を突く腥臭がすぐそこまで迫る。 体温は奪われ、亡魂は内側から蝕む。 小鳥遊夢の命は、今まさに潰えようとしていた。


正体不明の女子は笑い、そして泣き、狂乱の極致に堕ちていく。 百戦錬磨の太一ですら、この絶望的な状況に、一瞬の戸惑いを禁じ得なかった。


このまま『自在天功』を回し続ければ、今の身体では否応なくこれらの亡魂を呑み込むことになる。ようやく抑え込んだ「貪欲」が、瞬時に再点火されるのは目に見えている。かと言って、このまま手をこまねいていれば、さらなる犠牲者を生むだけだ。


だが、生き残るため、そして夢の命を繋ぐために、もはや猶予はなかった。太一は軟弱な男ではない。全員を救える道があるならばそれを選ぶが、致し方なき犠牲が必要な局面であれば、彼は決して断腸を躊躇わない。


天功が、まさに起動せんとしたその刹那。 夢が最後に見せた「首振り」が、雷鳴のごとく太一の思索を貫いた。


――『ダメ。ダメ……!』


ダメ? なぜだ? 俺が、まだ気づいていない何かが……?


迫りくる獣の腐臭。身体を食いちぎられる激痛が、脳を突き刺す。 その時、太一の瞳孔が急激に収縮した。 「生機」を装った出口。とっくに死んでいたはずの女たち。そして、この「絶望の循環」。


「――為虎作倀。そうか、そういうことか!」


これは単なる戦闘ではない。完成された『献祭』の儀式なのだ。


救わねば「傍観」の罪。見捨てれば「無情」の罪。亡魂を喰らえば「同族殺し」の罪。


どの道を選ぼうと、彼が「念」を動かし、その因果に足を踏み入れた瞬間に、彼はこの虎穴の祭壇の一部――すなわち、悪虎に仕える『倀鬼』へと成り下がるのだ。


「……フゥ、」


太一は、深く、長く、悲哀と怒りを込めた溜息を吐いた。


その明悟の瞬間、右の目尻に刻まれた、毒牙のごとき、あるいは涙痕のごとき烙印が、身を焼くほどの熱を帯びた。その刻印は亡魂たちの極限の「恨」と「慟哭」に共鳴し、ついに一滴の涙となって零れ落ちる。


涙は海へと融け、滔天の狂瀾を呼び覚ます。


太一の右手から、白磁のごとき、死者の怨念を宿した巨大な『復讐の牙』が、皮肉を突き破り、骨を軋ませて突き出した。


「ギチ……、ギチギチッ――」


耳障りな生長の音が響く。 牙は急激に拉伸され、刀でも剣でもない、血肉を凝縮した異形の利刃へと姿を変えた。牙齦が盛り上がった場所には、長い睫毛を湛えた「瞳」が次々と見開き、刃のごとき瞳孔が刀鐔となって世界を睨みつける。牙の根は引き締まり、剣柄となって太一の手に馴染んだ。


一閃。 弧を描く光が、迫りくる猛虎の法相を、いとも容易く粉砕した。


これは復讐の決議。 目には目を。歯には歯を。奪われた命には、その報いを。


太一は血肉の剣を横たえ、万載の氷河のごとき静謐な声で告げた。


「浮世は夢の如し、徒に涙の海に沈む」

「苦海は尽きず、紅塵は涙の劫なり」


「――悪虎。貴様の劫を、今ここで完納せよ」

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