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扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
18/20

禍体

濃縮された怨毒を纏い、「虎牙」が轟然と振り下ろされる。小鳥遊の身体が断ち切られる――そう確信した刹那。


醜悪に膨れ上がった魔獣が、突如として彼女の頭上に現れた。残骸と化したその肉体で、虚幻にして致命的な利牙を強引に受け止めたのだ。


衝撃に目を見開く彼女の肩を、節くれ立った力強い手が掴む。そのまま、飲み込まれる運命の淵から彼女を力任せに引き寄せた。


浮遊感、そして記憶にある体温。彼女は再び、あの少年の懐へと飛び込んでいた。


顔を上げれば、そこには青臭さの残る、けれど年齢にそぐわぬ落ち着きを湛えた横顔があった。深淵のように澄んだ瞳。先ほどまでの狂気は、まるで白昼夢だったかのように消えている。


地を足が踏みしめて初めて、彼女は自分が元の場所――あの男の背後、そして目覚めたばかりの女性の傍らへと連れ戻されたことに気づいた。


「痛い……痛いよぉ! 止めて、助けてくれ!!」

「許さねぇ……殺してやる、殺してやるぞぉ!!」


凍りつくような悲鳴が響き渡る。 虎牙に貫かれた魔獣の身体を、その悪毒な力は「身内」であることも厭わずに蹂躙し、毛骨悚然とする「咀嚼」を始めた。野獣の咆哮と渡辺の卑屈な命乞いが混ざり合い、骨の砕ける音と肉の裂ける音が鬼域の中で増幅され、人々の心に恐怖の杭を打ち込んでいく。


「小僧……いつ殺気の浸食を振り払った?」


重厚で、酒に酔い痴れたような残忍な声が空間を震わせた。


「三秒だ」


太一は冷淡に言い放つ。それは虚勢ではない。如意宝珠の試練を経験した彼にとって、この程度の殺意など準備運動にすらならない。先ほどまでの狂態は、黒幕を引きずり出すための「芝居」に過ぎなかったのだ。


ただ、その仮面を剥ぎ取ったのが、救ったはずの少女だったことだけが誤算だった。


「本体が割れたんだ。そろそろ姿を現したらどうだ? ――虎鬼」


「ハハハハハ!」


笑い声が雷鳴のごとく炸裂した。 持ち堪えている太一以外の二人の女性は、耳を劈く激痛に七竅から血を流し、地面に伏して悶絶する。


周囲の壁となっていた活屍たちが共鳴し、次々と崩壊していく。その肉体は消滅せず、蠢く無数の「肉虫」へと変じ、息絶え絶えの魔獣の残骸へと群がった。


同時に、バーで横たわっていた女性たちにも悲劇が訪れる。術の解除とともに、奪われていた「生機」の代償を突きつけられたのだ。


老化、衰退、腐敗。 一瞬のうちに、若々しかった少女たちは黒ずんだ汚物へと変わり果てる。肉体は滅びても、行き場を失った魂だけが、忘れ去られた残像のようにその場に立ち尽くしていた。


肉虫が魔獣を喰らい尽くし、互いに噛み合い、融合を始める。 笑い声が止んだとき、太一の前に、心臓を凍りつかせるほどの凶獣が姿を現した。


体長三メートル。人間のように直立し、黒と暗金の縞模様に覆われた巨躯。わずかに屈んだその筋肉には、山を崩さんばかりの剛力が宿っている。そこに居るだけで暁光を遮る絶望。緑色にぎらつく虎の目と、腥い血気を吐き出す血盆大口。先ほどの魔獣など、家猫も同然に見えるほどの威圧感。


「この時代の修行者は抑圧が過ぎるな。せっかく見つけた芽も、これほどまでに愚鈍とは」


虎鬼はすぐには攻めず、高価な食材を吟味するかのように太一を観察した。 「限られた神元で陰毒を排し、戦闘では正確無比に攻勢を相殺するか……」 「神元の貯蔵量は弥生に入りたてのようだが、運用の技術はすでに化境に達しているな」


「紛れもなき逸才よ」 虎鬼の目に貪欲な火が灯る。 「自ら馳せ参じたのであれば、吾が慈悲の心を持って食ろうてやろう!」


言葉が終わるより早く、虎鬼が残像を残して肉薄した。鋭爪が届くより先に、巻き起こった狂風が太一の肌を裂く。


太一の身体を包んでいた淡い金色の佛光が霧散し、百川が海へ還るが如く両手へと凝縮された。


「――ガキィンッ!」


両手に不可視の甲冑を纏わせたかのような一撃で、致命の爪を受け止める。 だが虎鬼はそれを予測していたかのように二の爪を放ち、太一の退路を封鎖した。太一は頭を逸らして鋒を避け、左脚を長鞭のようにしならせ、相手の関節を狙う。


しかし、虎鬼は避けない。太一の攻勢を肉で受けながら、カウンターを叩き込んできた。


太一の本能が狂ったように警鐘を鳴らす。


両手の神元を爆発させ、強引に虎爪を弾き飛ばすと、全神元を対峙する左脚へと注ぎ込んだ。


「――バキィッ!」


硬質な破壊音が響く。 神元の守りがあっても、相手の力は排山倒海の勢いだった。太一は反動を利用して後退するも、その左脚はあり得ない九十度の角度に折れ曲がり、鮮血が噴き出した。


悲鳴を上げる余裕すらない。地面に血の跡を刻みながら距離を取り、強引に立ち上がる。


「虎鬼でありながら、兎のごとき狡猾さか。最初の一撃すら、布石に過ぎなかったとはな」

「殺招と見せて、ただの試探。真の致命傷は、俺自身の反撃を利用して引き出されたものか」


太一の顔は、麻痺したかのように冷徹だった。彼は右手を伸ばし、捻じ曲がった左脚を掴むと――「ガクッ」と、表情一つ変えずに骨折を力任せに繋ぎ直した。神元を動かして修復を試みるが、濃密で陰冷な毒気が、いつの間にか傷口から経脈へと浸食していた。


侵食は速い。神元の巡りが滞り、左半身の感覚が消えていく。「虎毒」は丹田を目指して猛り狂い、そこを落とされれば、彼はまな板の上の鯉となる。


目的を達した虎鬼は、悠然と立ち止まった。長い舌で爪にこびりついた血を舐めとり、その味を深く噛み締める。縦に裂けた瞳が、愉快そうに太一を観察する。


「今の若者は狡猾すぎるゆえな……吾のような古株は、慎重にならねば足元を救われる」

「唐突な現れ方、殺気の即座の解除、そして神元の本能的な転換利用。これほど目を引く存在を、見逃すはずがなかろう?」


「だが――」 虎鬼は不敵に笑い、太一の抱える最大の違和感を指摘した。 「それらは『天賦の才』で片付くが、貴様のその『弥生』にあるまじき治癒の力……。それはどう説明する?」


虎毒が丹田の縁に触れたことを察知し、虎鬼はもはや待たなかった。泰山圧倒の勢いで跳躍し、腥風が太一を飲み込む。


蹴り、払い、突き、斬り。

それこそが、飢えた虎の撲殺術。


完全な死局。 太一が防御に徹すれば、虎毒が丹田を突き破る。毒を抑えれば、その肉体は粉砕される。


鋭爪が眼前に迫り、視界は虎鬼の巨躯に埋め尽くされた。神元は滞り、血流すらも死の圧力に凍りつく。


絶体絶命の、その瞬間。


截、封、蓋、架。

それこそが、自在極意の変。


全く異なる韻律が、太一から立ち昇った。


神元が狂風のごとく吹き荒れ、太一の周囲を激しく逆巻く!

彼は優雅でさえある怪奇な律動をもって、悪虎の連撃をことごとく捌ききった。同時に、折れた脚は瞬時に復元し、丹田を侵していた陰毒は、まるで大海に石を投じたかのように跡形もなく消え去った。


「やはり、そうか!」


殺招をすべて封じられ、逆に自身の神元を強引に剥ぎ取られる感覚。余裕を保っていた虎鬼の顔が、怒りと歪んだ驚愕に染まる。


「他人の神元を転換しているのか……。ゆえに、理外の回復力を得ている。……『懐風』か? いや、まだ足りぬ。功法を変えたか……」


「聖と魔、二つの功法を同時に修めているというのか?」 虎鬼の怒りは、やがて病的な興奮へと変わる。絶世の美味を前にした老饕のように。 「それとも、その聖なる功力を持ってしても抑えきれぬほどの『飢え』が、その身に宿っているのか?」


「――『禍体かたい』!!」

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