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扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
17/20

為虎作倀

號砲が鳴り響くが如く。言葉が終わるより早く、二つの影が同時に地を蹴った。


続いて訪れたのは、拳と肉がぶつかり合う、原始的で激しい交鋒。


太一の動きは鬼魅のように変幻自在で、その一撃は冷酷なまでに的確だ。首筋の要害への蹴り、腹腔を抜く重撃、さらには股間への容赦ない一打。打撃が落ちるたび、鈍い衝撃音が空気を震わせる。


だが、渡辺はとうに痛覚を捨て去っていた。

異変による再生能力を盾に、骨が砕けようとも退かず、すべての重撃を肉で受ける。死に物狂いの相打ちを狙い、力尽きる前に太一を食いちぎらんとする執念。


どろりとした陰気を纏う直突きが、空気を切り裂いて襲いかかる。その威力、例え弥生が受けたとしても重傷は免れない。


太一の瞳が鋭く細まる。

頭部を狙っていた拳を瞬時に下段へ叩きつけ、渡辺の右腕の関節を強引に弾き飛ばした。その勢いのまま身体をしなやかに翻し、左脚が鋭い弧を描く。泰山圧倒の勢いで、魔物の脳天を振り抜いた。


「――轟!」


予期せぬ変招に渡辺の体がよろめく。だが、彼は驚異的な反応で両腕を交差させ、間一髪で致命傷を防いだ。死には至らぬまでも、太一の巨力に膝が地面へとのめり込む。


「ハァ――ッ!」


獣じみた咆哮。両腕から噴き出す陰気が爆発し、太一の圧制を力任せに跳ね除けた。


太一は足先から伝わる反動を感じ、深追いを避けて一歩引く。しかし、引くと同時に右脚を毒蛇のように突き出し、追撃を試みた渡辺を再び突き放した。


「その程度か」

太一は静かに立ち尽くし、相手を微塵も眼中に置いていない。


「ガキが銃を拾ったところで、引き金を引く時分も分からんか。さっきの負け犬の遠吠え、聞かなかったことにしてやろう」


「この……野郎……!」


逆上した渡辺の周囲で、陰気が沸騰するようにのたうち回る。漆黒の鬼気が濃さを増し、その身を完全に飲み込んだ。


直後、その影の中から、耳を劈くような筋肉の断裂音と骨の砕ける音が響く。

人の肉体が内側から突き破られる不気味な音。怨嗟に満ちた叫びが重なる。


「運が良かっただけだ……。ぶち殺してやる……、なぶり殺しにしてやる!」


血霧が弾けた。


膝をついた男の身体が狂ったように震え、皮肉が蝋のように溶けては再構築される。

剥き出しの血肉、突出した眼球。裂けた口の両端からは鋭い牙が貫き、鮮血と黒気が混ざり合う。背は異様に盛り上がり、四肢の関節からは倒鉤のような骨棘が突き出していた。


もはや人ではない。煉獄から這い出た魔獣そのものだ。


太一は小さく嘆息し、その瞳に憐れみを浮かべた。

「愚か者が。その程度の力のために、人の一線を売り払ったか」


今の渡辺は、ただの憎悪の器。


「……で、暗がりに潜んでいる奴は、まだ出てこないのか? 用心深いことだ」


太一は表面上は軽んじながらも、五感を極限まで研ぎ澄ます。周囲の取り巻きどもは活屍のように囲むだけで動かない。本尊は弱っているのか、渡辺という「供物」を使ってこちらの底を探っている。


「――グルアアアッ!」


ガラスを震わせる咆哮とともに、魔獣が肉薄する。

吐き気を催すような腐臭。太一の瞳にも、妖異な鮮紅が灯り、暴虐の輝きが閃いた。


回避を捨て、彼は原始的な衝突を選んだ。


血花が舞う。


獣の鋭爪が太一の左腕を貫き、その指先は頬の寸前で止まる。

同時に、太一の右拳は重錘と化し、魔獣の剥き出しの腹部へと深々とめり込んだ。


互いに食らいつき、互いに穿ち合う、二頭の飢えた獣。

魔獣は心臓と喉を狙い、太一は相手の傷口を的確に粉砕する。

どちらが狩人で、どちらが獲物か。その境界は、血塗れの宴の中でとっくに崩れ去っていた。


---


常識を蹂躙する光景。


だが、小鳥遊夢がその凄惨な肉弾戦を目撃したとき、彼女の魂は戦慄に震えた。拳を固く握りしめ、喉元まで迫る悲鳴を必死に押し殺す。


周囲は完全な鬼域と化していた。

濃密な鬼霧が視界を遮り、虚ろな表情の男たちが「肉の壁」となって、彼女たちを円陣の中に閉じ込めている。


『……逃がさないためだけに、囲んでいるの?』


この地獄で唯一の希望は、血溜まりの中で戦うあの男。


けれど、本当に勝てるのだろうか? 痛みも疲れも知らぬ怪物に、人の身で。


呼びかけようとして、彼女は気づく。男の表情もまた、怪物に呼応するように獰猛に歪んでいくのを。まるで、彼の魂までもがこの暴虐な黒気に侵食されているかのように。


夢は深く息を吸い、凍てつく恐怖から無理やり思考を切り離した。

ただ救いを待つだけではいけない。自力で生き残る道を。


彼女は隣で震える女性を宥めながら、異様な「人壁」に視線を向けた。

勇気を振り絞り、震える手で最も近くにいる男の鼻孔に触れる。


――息はある。


消え入りそうなほど微かだが、確かに生きている。だが、その生命力は目に見える速さで「干からびて」いた。まるで、見えない管で中身を吸い上げられているかのように。


ふと、出口に目を向ける。あそこの空気だけは、この霧の中でも澄んでいるように見えた。


「今なら、逃げられるかもしれない」


毒草のように、逃走の念が脳内に広がる。男が魔獣を引きつけている今が、最大の好機だ。ここに残れば、彼が負けた瞬間に自分たちも道連れになる。


自由への扉が、すぐそこにある。


だが、右足がその境界線を踏み越えようとした瞬間。

稲妻のような悪寒が脊椎を走り、彼女の動きを凍りつかせた。


『……どうして? なぜ今、そんなことを考えたの?』

『これが、私の本性? こんなにも身勝手な……』


「違う、そうじゃない!」


本能が、かつてない極限の恐怖を叫んでいた。捕食者に狙われた小動物が発する、絶望的な拒絶反応。


『誰が……私の心を操っているの!?』


弾かれたように振り返り、戦う太一に警告を発しようとしたその時。

彼女は、見てしまった。


男たちは、ただ散らばって立っているのではなかった。

身長、体格、その配置。それらは幾何学的な「半月」の弧を描いている。


出口に近い者ほど顔色が良く、彼女たちがいる中心に近い者ほど、屍のように枯れ果てている。


これは脱出路などではない。

生きた人間の生命力で編み上げられた、巨大な「虎の口」なのだ。


男たちは並び立つ牙。出口の澄んだ空気は、獲物を誘う餌。

そして自分たちは今、喉奥へと送り込まれる「食糧」に過ぎない。


「虎――」


その言葉が漏れた瞬間。

陰湿な突風が巨大な「舌」となって夢の身体を巻き上げ、男たちが作る「牙」の列へと叩きつけた。


偽装が剥がれ落ちる。

足下の男たちは黒気を吐き出す巨大な顎を開き、頭上の霧の中には、禍々しい歯の幻影が凝縮された。


死の淵。


けれど、夢の心に浮かんだのは、恐怖でも後悔でもなかった。

十数年、死水のように淀んでいた人生が、この数時間で、かつてないほど鮮やかに燃え上がったという、脱皮のような解放感。


彼女は魂の最期を振り絞り、生涯で最も激しい、怒りの咆哮を上げた。


「――為虎作倀ッ!!」

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