獅子舞
冷酷な顔が見下ろし、魔の爪が天を覆うように振り下ろされる。
闇が視界を塞ぎ、次の瞬間には――人生が終わる。
そんな予感が、確かな重さをもって迫ってきた。
だが。
その遮天蔽日の魔爪は、彼女の目前――わずか寸前のところで、ぴたりと止まった。
進めない。
押し潰せない。
いつの間にか、ひとりの大柄な影が彼女の前に立ち塞がり、降りかかる悪意を、確かに掴み取っていた。
「——私が、いる。」
闇を裂くその声は、揺るぎなく、光のように夜を貫いた。
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「な、なんだお前は!?」
狼狽した叫びが、目の前の男の喉からこぼれ落ちる。
だが太一は応じない。
冷静な視線で周囲を一掃し、瞬時に状況を把握した。
バーの入口は、二十人近い集団に塞がれている。
多くの女たちは意識を失い、ある者は衣服が乱れ、ある者は身体に傷を負っていた。
露出した肌には、青紫の痣、注射痕、内出血が無秩序に重なっている。
『……薬物か? いや、それだけじゃない』
「てめぇ、誰だ!俺の邪魔をするたぁ、いい度胸じゃねぇか!」
渡辺が力任せに腕を引く。
だが、微動だにしない。まるで鋳鉄の万力に挟まれたかのようだった。
「ふん」
「人に指を突きつけるのは、躾のなってない証拠だ。覚えておけ」
太一の右手に、力が籠もる。
――バキリ。
乾いた音とともに、骨が折れた。
「ぐぁあああ!!」
渡辺の顔から血の気が失せ、脂汗が滝のように流れ落ちる。
「や、やれ!こいつを殺っちまえ!」
甲高い奇声――それは感情の昂ぶりからか、肉体の激痛からか判別できない――が上がり、その叫びと共に、他の連中も手元の「獲物」を捨て、一斉に太一に襲いかかった。
太一がまさに動き出そうとしたその瞬間――
柔らかく、震える重みが太一の背にぶつかる。
恐怖に耐えきれず、ついに膝を折った小鳥游だった。
「はっ……は……き、気をつけ……」
唸り声とともに、椅子が投げつけられる。
続いて、バタフライナイフを握った男たちが突進してくる。
太一は慌てない。
身体をしなやかに翻し、震える彼女の腕を掴むと、そのまま胸元へ引き寄せる。
椅子を紙一重でかわし、右脚を高く掲げ――落下する椅子を引っ掛ける。
完璧な円弧を描くように振り抜かれた椅子は、そのまま来た道を逆流し、数人をまとめて薙ぎ倒した。
たちまち数人が椅子に叩き潰され、苦痛の呻き声が響き渡った。
「かかれ!全員でやれ!」
仲間の呻き声が、かえって血の気を煽った。
男たちは狂気に染まった目で、再び迫る。
腕の中の少女は恐怖に震えながらも、叫び声を押し殺すように唇を噛み締めていた。
それに気づいた太一は、わずかに笑みを浮かべる。
「大丈夫だ」
声は、穏やかだった。
「……一緒に踊ろう」
「え……?」
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ふたりは、いつしかフロアの中央に立っているかのように見えた。
周囲を取り囲むのは、彼らの熱狂的な「ファン」たち。
ダンスが始まる。
荒々しいリズムの中で、彼らは優雅に舞う。
まるで、即興のワルツ。
少年に導かれ、少女は白鳥のように旋回する。
一歩ごと、一動作ごとが、息を呑むほどに美しい。
清らかで、穢れを拒む存在。
少年は導き手であり、伴走者でもあった。
彼女の輝きを鏡花水月のように広げ、汚濁を退ける。
音楽が終わり、ふたりが一礼したとき――
立っていたのは、片腕を抱えて転げ回る渡辺だけだった。
他は、すべて床に沈んでいる。
少女は息を整える間もなく、すぐに他の女性たちのもとへ駆け寄った。
太一は一歩一歩、渡辺の前に立つ。
見下ろしながら、静かに言った。
「奇妙だな」
「お前の気質が完全に変わっている」
「さっき接触したお前と、今のお前はまるで別人だ」
「教えてくれないか、どうしてこんなことになった?」
「て、てめぇ……!何を馬鹿なことをほざく……」
「俺の邪魔をしやがって!覚えとけよ!俺に――」
――ドンッ。
太一の脚が、容赦なく頭部を打ち抜いた。
途端に鮮血が飛び散り、数本の歯が血の泡と共に吐き出される。
男は苦痛にのたうち回り、悪意のこもった呪詛を唇の間から漏らすが、もはや聞き取ることは難しかった。
太一はそれ以上構わず、倒れている女性たちの容体を確認する。
『周囲の連中の年齢を考えれば、こいつに従う理由がない。
名家の坊ちゃんなら、俺が知らないはずもない……』
『それに、最初に出会った時のあの冷たい刺すような感覚、何かしら異変があるに違いない』
服をめくった瞬間、太一の目が凍る。
擦過傷でも、転倒でもない。
――引き裂かれた痕。
――噛みつかれた跡。
「……食ってる……」
かろうじて意識を取り戻した女性が、震える声で呟いた。
「……あの人たち……人を、食べてる……」
その言葉を合図に。
既に倒れていたはずのチンピラたちが、再びゆっくりと痙攣を始めた。まるで亡霊がその死体を再び掌握したかのように。
陰風が吹き荒れ、黒い靄がさっと立ち昇った。
鬼哭が響き、温度が急激に下がる。
バーは、瞬く間に鬼域と化した。
背後から、殺気。
太一は身を捻り、辛うじてかわす。
服が裂け、皮膚に血が滲む。
わずかな陰気が体内に入り込み、動きが鈍る。
その勢いを利用して後退し、距離を取ることで、ようやく自分を襲った正体を観察することができた。
先ほどまで地面に伏せ、顔中血まみれで罵詈雑言を吐いていた渡辺が、今や太一がいた場所に立っていた。彼は凶悪な光をその目に宿し、口元からは黒い靄が漏れ出ている。まるで魔王の顕現のようだった。
「待ってろと言っただろうが。聞こえなかったか――」
高く飛び上がり、太一に向かって真っ直ぐに飛びかかってくる。
無手無策の殴打。
だが、一撃一撃に、冷たい邪性の神元が宿っている。
『……この陰気、神元か』
動きが鈍る。
思考が凍る。
『こいつが弥生なのか?だからあいつら全員がこいつの命令を聞いていたのか?だが、こいつはあまりに愚かで、この小物然とした卑しい気配は演技ではない。それに、最初は弥生本来の能力を発揮せず、なぜ今になって突然変異した……』
さらに重い一撃が落ちる。太一は、気づかないうちに、自分が小鳥遊の近くまで追いつめられていることに気づいた。そして、既に倒れていたチンピラたちは、全員が目を白く剥き、おぞましい鬼気を立ち昇らせて、再び太一を取り囲んでいた。
彼は女性たちを背中に庇い、群衆の中からゆっくりと歩み寄ってくる渡辺を警戒した。
「夢、このクソ女。俺に見初められたのはお前の幸運だろうが、よくも俺に別れを切りやがったな」
「こいつがお前の新しい男か?こいつを半殺しにしてから、お前の目の前でじっくり味わってやるよ」
神元が湧き上がり、陰毒な気を体外へ押し出す。金色の佛光がうっすらと現れた。
降魔聖功。
「……なら」
太一は、低く告げた。
「――どっちが喰われるか、確かめようか」




