小鳥遊
「夢ちゃんは本当にいい子ね。うちの子とは大違い、口答えばかりで……」
「小鳥遊さん、今年も素晴らしい活躍でしたね。来年もその調子で、頑張ってくださいね」
「……小鳥遊って、ちょっと真面目すぎるんじゃない?」
小鳥遊 夢の耳には、昔からそんな形式的で中身のない褒め言葉ばかりが響いていた。
規則を破ったこともなければ、誰かに迷惑をかけた記憶もない。模範的な優等生、教師にとっては安心の存在。クラスの手本、生徒会の旗印。
「小鳥遊さんって、本当にいい人だと思う。でも正直、ちょっと退屈かな。一対一だと、何を話せばいいのか分からなくなるし、たぶん親友にはなれないと思う」
小学生や中学生の頃には、まだ何人かの女子が気さくに話しかけてくれた。
だが高校に上がると、生徒たちは徐々に「普通」からの逸脱を望むようになり、「自分らしさ」という名の奔放さを追い求め始めた。
そのなかで、規律という名の型で丁寧に整えられた夢のような存在は、もはや近づきたい対象ではなくなっていた。
それは誰のせいでもない。誰かが間違ったわけでも、意図的に彼女を避けたわけでもない。ただ、彼女がつまらなくて、堅すぎたというだけの話。
…
「“仲の良い異性の友達”……だって?」
「ええー? 渡辺、それ引いたの? 誰だ? 山田? 橘? それとも後藤?」
そのとき、夢の手を取ったのは、かつての隣人——渡辺だった。
小学生の頃はよく一緒に登下校していた。でもクラスは別々で、放課後もとくに接点はなかった。だからこそ、なぜ自分なのかと、頭の中は混乱でいっぱいだった。
ただ、足は彼に引かれるまま、一緒に走った。
誰にとっても取るに足らない出来事だったかもしれない。でも、夢にとっては、世界が一変するほどの衝撃だった。
「絆」なんて言葉は重すぎる。
けれど、夢はずっと、誰かとつながりたかった。
ひとりで過ごす毎日は、もう十分だった。毎日を、意味もなく繰り返す孤独な日常。それに終止符を打ちたかった。
昼休みにお弁当を見せ合って盛り上がる。
放課後、女子たちが輪になって笑い合う。
テスト前にファミレスで勉強会。
——夢だって、そんな時間が欲しかった。
そして、そのための方法も分かっていた。
「自分から動けばいい」
だが現実は、想像よりもずっと複雑だった。
骨の髄まで染みついた規範と躾が、彼女の一歩を阻んだ。
破ったことがないわけじゃない。スカートを短くしたこともあるし、夜に学校へ忍び込もうとしたこともある。ゲームセンターにも一度足を運んだ。
だが、そのすべてが、似合わなかった。
それは生まれ持った気質なのか、心のどこかで拒絶していたのか——
結果はいつも、空回りに終わった。
でも、今は違う。
彼に引かれて歩くその背中を見て、彼女は気づいた。
「私は誰かになりたいんじゃない。誰かに、必要とされたいんだ」
不満だったのは、自分の生き方じゃない。
ただ、孤独すぎた。
だからこそ、彼女は望んでしまったのだ。
——選ばれたい、と。
——必要とされたい、と。
…
そしてそれからも、小鳥遊 夢は相変わらず、目立たず、大人しく、不器用なままだった。
けれど、時折ふと微笑んだり、窓の外を見つめては物思いに耽ったりするようになった。
クラスメイトたちは「もしかして、恋愛してるのでは?」と噂を立て、教師たちはそんな彼女の変化に密かに安堵していた。
事実、運動会の後——渡辺は告白してきた。
夢は、断らなかった。でも、受け入れたわけでもない。
浅すぎる関係。彼を信じるには、まだ材料が足りなかった。
だから、まずは「友達」から始めることにした。
渡辺はときどき、日常の小ネタを送ってきた。とても笑えないような話も多かったが、それでも構わなかった。
なぜなら——それが「ふたりだけのもの」だったから。
彼の悩みにも耳を傾けた。勉強なら彼女が教え、人間関係なら黙って話を聞いた。
そして——一年が過ぎた頃、正式に付き合うことになった。
…
最初は、幸せだった。
誰かと喜びを共有し、悲しみも分け合える。
だけど、時間が経つにつれ、歯車が噛み合わない感覚が募っていった。
恋という名の仮面が、少しずつ剥がれていった。
もう飽きられたのか?
理想とは違ったのか?
彼女の言葉を遮り、話半ばで別の話題に飛ぶ渡辺。
——それでも、ようやく手に入れた「必要とされる関係」だった。
壊したくなかった。諦めたくなかった。
たとえ、もう自分らしくいられなくなっていたとしても。
でも、それでも——
その顔を見るたびに、心が冷えていく。
軽口を叩くその姿に、もはや愛情も好意も湧いてこない。
また、何か軽薄なことを言うのだろう。
——もう、やめよう。
その言葉が、口の中で確信に変わった。
「……別れよう」
男子の顔が凍りつき、言葉を失った。
不思議なことに——夢の心には、わずかな快感が走った。
復讐心?
それとも、解放された安堵?
だが、その快感も長くは続かず、すぐに後悔と混乱に取って代わられた。
「これから、どうすれば……」
そう思った瞬間、彼が夢の手を強く握った。
「……たぶん、俺たちには思い出が少なすぎたんだよ。どれだけ好きでも、やっぱり一緒に積み重ねたものがなきゃさ」
「……今回は、普通のデートってことでどうかな? 本当にダメだったら、そのときもう一度言ってくれていいから」
…
彼女は、うなずいてしまった。
それは、ただの情けだったのか。
それとも、彼の瞳の奥に燃えていた、あの妙に熱い火に当てられたせいだったのか。
だから放課後、彼の後についてしまったのか。
だから、この場所へ連れて来られてしまったのか。
——欲望という名の檻の中へ。
濃い酒と甘ったるい香りが空気を満たし、耳に届くのは嬌声と喘ぎの入り混じったざわめき。
頭上のライトはせわしなく明滅し、まるでこの狂宴に拍子をつけているみたいだった。
酔客は折り重なるように倒れ、酒が飛び、言葉は呂律のない音の塊に変わっている。
光はときに眩しく、ときに沈み、そこに浮かぶ顔はどれも輪郭を失って歪んで見えた。
夢は、この場でひどく浮いていた。
影の奥から無数の視線が突き刺さってくる気がした。
——見物人の目?
それとも、獲物を選ぶ捕食者の目?
……逃げなきゃ。
深夜の冷たい風が肌を刺した。
だけど室内よりずっと、息がしやすかった。
心臓が跳ねる。
彼女は唇を噛み、記憶を頼りに出口を探した。
そのとき——
混沌の騒音の中、はっきりとした叫び声が耳に飛び込んできた。
酒場の扉から、柄の悪い男女の一団がどっと溢れ出す。
その真ん中には、服が乱れ、意識も朦朧とした若い女の子たち。
そして、赤ら顔で脂ぎった笑みを張りつけたその男——
渡辺。
夢の、恋人。
怒りが、胸の奥から一気に噴き上がった。
普段は穏やかな彼女ですら、抑えきれないほどの熱だった。
夢は足早に近づき、声をかけようとした。
けれど——言葉は喉の奥で、凍りついた。
見えてしまったのだ。
今にも倒れそうな女の子たちの、ほとんど昏睡に近い顔を。
足が止まり、呼吸さえ止まる。
ほっとしかけた、その瞬間。
ひとりの少女がふいに顔を上げ、夢と目を合わせた。
虚ろだった瞳に、刹那、光が宿る。
助けを求めて口を開きかけ——
すぐに俯き、唇を噛みしめた。
隣の「何か」に気づかれるのを恐れて。
視線の先に救いがあると悟られたくなくて。
光はすぐ消え、代わりに、頬を伝ったのは絶望の涙だった。
——そのとき、怒鳴り声が夜を裂いた。
「やめてください!」
自分の声だ、と夢は遅れて気づいた。
震えていたのに、不思議なくらい真っ直ぐ響いた。
彼女は一歩、また一歩と前に出る。
否応なく、彼らの視界の中心へ歩み入っていく。
まるで、蛾が自ら蜘蛛の巣へ飛び込むみたいに。
無数の視線に絡め取られ、裁かれ、逃げ場を失っていく感覚。
「……その子たち、私の友だちなんです。帰らせてください。私が連れて帰ります」
自分でもわかるほど、薄っぺらい嘘だった。
一瞬で見抜かれて当然の、穴だらけの言い訳。
「はははっ!」
「お? お嬢ちゃんも一緒に遊びたいのか? いいじゃねえか!」
夢は息を呑み、伸びてくる手を必死にかわしながら、群れの中で黙っている男を見た。
——なんだ、この目は。
貪欲。狂熱。嗜欲。
まるで獣が獲物を前にしたときの瞳だ。
その奥に燃える火が、背筋を冷やした。
次の瞬間、手首を鉄の鉗子みたいな力で掴まれる。
乱暴に引き寄せられ、人前へ放り出される。
生贄に差し出される子羊みたいに。
——ああ、結局こうなるのか。
これは、自分の選択への嘲笑なのか。
それでも——
せめて。
せめて、あの子たちだけでも。
「誰か……誰かいませんか!? 助けて……助けてください――!」
「——私が、いる。」




