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扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
14/20

百合子

他化自在天!?


その瞬間、万物が静止したかのような錯覚に陥った。


明らかに目の前にあった違和感――自分は、それを見ようともしなかった。ただ今、望月影の一言が、ここ最近の出来事のすべてを一気に紐解いていく。


雷池の神元を吞み、千手人面蜘蛛の残魂をも吸収し、如意宝珠に秘められた欲望すら己の内へ――

それらは、まさしく第六天魔王――他化自在天の象徴。


最初から、道を踏み外していたのかもしれない。


思い返せば、父は《仁王経》以外の教えを一切与えなかったし、母も仏教的な教養について語ろうとしなかった。むしろ、意図的に自分をこの世界から遠ざけていたのでは――そんな疑念すら湧いてくる。


だが、それでも、《大自在天》と《他化自在天》の違いに気付くべきだったはずだ。


仮に状況の切迫で目を逸らしたとしても――

なぜ斗鬼は「雷池こそ唯一の打開策」と断じた?

なぜ、自分が神元を取り込めることを、彼女は何の違和感も抱かなかった?


飛頭蛮も魂を吸収できるが、それはあくまで自身の特性ゆえで、もし簡単にできるなら、あれほど手間をかけて罠を仕掛ける必要もなかったはずだ。


「ふふっ……」


唐突な微笑みが現実へと引き戻す。

望月影はどこか満足げな表情で席を立ち、教室のドアへ向かう。


「東雲君、“日常部”っていう変わった部活があるの。こういう話に興味があるなら、覗いてみるといいよ」


「戸締り、よろしくね……」

廊下を遠ざかる足音と共に、静けさが残る。


太一は静かに息を吐き、思考をいったん心の奥底に沈める。

今の自分には情報が少なすぎる。意味もなく悩むより、一つひとつ行動して確かめるしかない。


荷物を片付け、窓やドアを閉め、制服を整えて校舎を後にした。


---


気持ちを整え終わるころ、電車はようやく目的地へ着いた。


改札を抜けた瞬間、他の町にはない独特の匂いが鼻をかすめる。

この街が人を呼ぶのか、それともこういう人間がこの街に集うのか――


駅を出ると、四方八方から騒がしい声、ネオンの海、欲望の奔流。

歌舞伎町――眠らない歓楽街。


客引きの声を巧みにかわし、不穏な誘いも軽やかに受け流し、人混みを抜けていく。

いつの間にか、学生の面影は夜の光に溶けて消えていた。


---


「ここに来れば、面白い人たちにたくさん出会えるよ〜!」


店員の声は、陽気さと誘惑、そして少しの悪意を含んでいた。


「うちの店、特別な遊びもあるから、絶対に楽しませてあげる!」


年齢も性別も関係ない。目の前に現れた者は、すべてが客候補であり、ちょっかいを出す対象。


「お、あそこに新顔が。なんか…『話しやすそう』じゃね?」


呼び込みをしていた若い店員の目が光り、隣の仲間に合図を送って前に出ようとした――


「バカ!」


先輩がすかさずその足を蹴り、襟首を掴んで無理やり後ろに引き戻した。


そして次の瞬間、黒いスーツをまとった男が、何の感情も見せずに通り過ぎていく。


その冷たい目が横目に彼らを一瞥しただけで、喧騒に包まれていた路地は一気に静まり返った。


呼び込みの声はかき消され、店員たちの会話も途切れ、街全体が息を潜める。


男の姿が角を曲がって消えていくまで、その異様な沈黙は続いた。


「せ、先輩……あの人、何者なんですか?」


言葉を選びながらも、若い男は喉を鳴らした。


乱闘、出血、修羅場。散々修羅場を見てきた彼でさえ、あの男の気配には震えを隠せなかった。


いや、いくら年を重ねようと、あの夜の光景を、彼は今でも忘れられなかった。


「あれが……」


「獅子堂の番犬――いや、凶獅」


「東雲太一」


太一は一切表情を変えず、淡々とそのまま馴染みの居酒屋「キテン」へと入っていった。


---


チリン……


木の扉が静かに開き、ぬくもりのある灯りが彼を迎える。


古びた木製のカウンター、タレと炭の香ばしい匂い、顔馴染みの客たち――


太一は軽く会釈しながら、まっすぐカウンター席に腰を下ろす。


座ったと同時に、目の前に湯気を立てたホットミルクが置かれた。


「いらっしゃい、太一くん。今日は寒かったでしょ?」


笑顔で言葉をかけてきたのは、いつもの店主、伊藤百合子。


客たちはニヤニヤとこちらを見ているが、太一はそれを無視して牛乳を一口――いや、一気に半分飲み干す。


「まったく……この店じゃ威厳も何もないな。今度来ないふりでもするか。」


ため息混じりに呟くと、周囲からクスクスと笑い声が漏れた。


「はいはい、またそうやって拗ねる。今日の鶏皮はパリッと仕上げたから、ちゃんと味わってね。」


百合子の微笑みとともに、香ばしい串焼きが出される。


外はパリパリ、中はジューシー、タレはしっかり控えめ――彼の好みにぴったり。


「ほんと、毎回よくこんなにピンポイントで当ててきますね……」


太一は半ば感心しつつ、もう一口かぶりつく。


伊藤百合子。この混沌の街の片隅で、静かに店を守る女性。


ここは太一にとって、ただの居酒屋ではなかった。居場所だった。


「最近、潤くんはどう?」


「相変わらずよ。学校で友達できてるのかどうかも、よく分からなくてね」


百合子が息をつく。

その顔には柔らかい笑みが浮かんでいるのに、眉のあたりだけがかすかに曇っていた。母親としての安堵と、不安が同居した表情だった。


「はは。潤くんなら、そのうち向こうから寄ってきますよ。ああいう子は、放っておいても誰かが気にし始めるから」


太一の言葉に、百合子は小さく笑う。

ほんの少し肩の力が抜けたみたいに見えた。


「……百合子さん。こっちの方、最近はどう?」


百合子は一瞬だけ店内を見回し、声を落とす。


「いつも通り、ってところね。大きな揉め事は聞いてない。

【西城】の連中が、たまに小さく探りを入れてくるくらい。でも……結局、まだ本気で手は出せないみたい」


太一はゆっくり頷いた。

驚きはない。むしろ、そうなるだろうと最初から思っていた。


――痛い目を見た連中ほど、時間が経てば忘れる。

あるいは、忘れたふりをする。

そして利益が目の前にぶら下がれば、人はまた同じ方向へ手を伸ばす。


「構わないさ。兵が来れば兵で受け止める。

水が来れば、土で塞ぐだけだ」


太一の声は淡々としていた。

だが、その淡々とした響きが、逆に冷たく鋭い。


「もし、あいつらが本当に忘れてるなら……俺がもう一度、思い出させてやればいい」


誓いなのか、宣告なのか。

言葉は静かに吐き出されたのに、店内の空気が一瞬だけ凍った。


何も知らない常連客は「なんで急に静かになった?」と首を傾げる。

だが事情を知る者たちは、誰も太一を見なかった。


――それが【西城】への警告だと理解しているから。


太一は自分の口調が強すぎたことに気づき、わずかに苦笑して百合子へ視線を戻した。


「……悪い。ちょっと熱くなった」


「いいのよ」

百合子はそう言って笑ったが、その目はどこか複雑だった。


太一は残りのホットミルクを飲み干し、口元を拭う。

それから息を整え、ようやく「仕事の顔」に戻る。


立ち上がろうとした瞬間、百合子がすでに彼のスーツを手に取っていた。


「ほら、太一くん。ちゃんと着なさい」


太一が腕を通す前に、百合子は慣れた手つきでスーツを肩に掛け、襟元を軽く整えた。

それはいつもと変わらない仕草なのに、どこか母親めいた優しさが混ざっている。


扉を開けた瞬間、外の喧噪が一気に流れ込んできた。

太一は軽く会釈し、夜の街へ踏み出す。


百合子は店先に立ったまま、彼の背中が闇に溶けていくまで見送っていた。


---


今夜の巡回は、獅子堂の縄張りにある九軒の店。

立地は近いが、雰囲気はどこも似たり寄ったり――この街の「夜」の裏側だ。


通りの両脇では、男女が肩を寄せて笑い、酔っぱらいが意味もなく大声を張り上げている。

誰かは泣きながら喚き、誰かは酔い潰れてゴミ袋の横で丸くなっている。

吐瀉物が散らばる地面。

酒と汗と、呼び込みの甘い香水、それに混じる生ゴミの臭気が、ねっとりと鼻腔に絡みついた。


太一はもう慣れている。

むしろ、初めてこの界隈に足を踏み入れた人間のほうが、こういう景色に言葉を失う。


太一は淡々と歩き、店をひとつひとつ見て回る。

酔客の揉め事を止めたり、店の人間に状況を聞いたり、忙しい場所では皿を運んだりもした。

仕事は「護衛」だけではない。

この街の秩序を保つための、細かい補修作業の積み重ねだ。


途中、街角の暗がりから黒スーツの男たちが静かに現れた。

視線は探照灯みたいに周囲を掃き、時に監視、時に威圧、足音も立てず、一定の距離を保って太一の後ろに付き従う。


太一は彼らを気にしない。

いや、気にする必要がないほど、この光景に馴染んでしまっていた。


九軒目を出たとき、時計の針はすでに午前二時を回っていた。


体力だけなら、まだ余裕がある。

彌生に至った今となっては、疲労そのものは大した問題じゃない。


けれど――


ネオンの光と、人の欲望の喧噪と、夜の濁った熱が、じわじわと精神を削っていく。

胸の奥が重くなる。

息が浅くなる。


「……さすがに、少し息苦しいな」


太一は店の最終確認を終えると、ふっと息を吐いた。

そして心の中で、自然とあの場所を思い浮かべる。


――「キテン」。

あそこに戻って、少しだけ静けさを取り戻そう。


雷鳴山は遠い。

山を登って降りて、それだけで時間も金も削られる。

百合子はもう、カウンターの裏に小さな折り畳みベッドを用意してくれている。

明日は早起きして、靴箱に入れてある制服に着替えればいい。


通りはさっきより静かになっていたが、それでも時折、店の扉が乱暴に開いて酔っぱらいがよろけ出てくる。

酒臭い笑い声。

名残惜しさと空虚さが混ざった、夜の終わりの音。


太一は道すがら、路上で暴れていた酒癖の悪い男を二人ほど軽く締め、静かに追い払った。


そして――

ようやく「キテン」の前に戻る。


植木鉢の陰に隠してある鍵へ手を伸ばした、その瞬間。


遠くの夜闇を裂くように、鋭い叫び声が飛び込んできた。


「誰か……誰かいませんか!? 助けて……助けてください――!」

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