錯悟
「キンコンカンコーン――」
最後の授業を告げるチャイムが鳴り響き、静まり返っていた教室が再び賑やかになった。
「今日はここまで。さっきの間違えやすいポイント、忘れないように」
「はーい!」
生徒たちは笑い合いながら席を立ち、部活動へ急ぐ者もいれば、鞄をまとめて家路につく者もいる。
「じゃあね!」
西山明が手を振りながら駆け出し、その姿は軽やかに廊下の奥へと消えていった。気づけば教室には、窓際に寄りかかる太一だけが残されていた。
窓の外には夕焼けが広がり、赤い光が机や壁を優しく染めている。少年の横顔は、どこか物思いに沈んでいた。
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ふいに、夢のような光の波が周囲に広がる。
それは仏の威厳もなく、ただ柔らかく、どこか現世的な温かさを帯びて太一を包み込む。
温泉に浸かるような心地よさと同時に、太一の意識は朦朧としていった。
「東雲先生、今年の収益は期待以上ですね――」
店主たちが笑顔で取り囲み、次々と感謝を口にする。彼らの安泰は、太一の庇護の証だった。
「あなたのおかげですよ!龍胆さんがいなくても、私たちは安心です」
……自分は、本当にこの場所にふさわしいのだろうか。
この笑顔は、本当にみんなに安心を与えているのだろうか――
「そんなに急いで食べなくても誰も取らないよ」
母がやさしく窘める声、その言葉にも春風のような温もりがあった。
「太一……」
耳元でささやく、女性の柔らかな吐息と香り、ぬくもり。
――五欲が現れ、欲界が降臨する。
幻と現が交差し、太一はそのまま甘美な夢へと落ちていく。
血が七竅から流れ出しても、何も気づかない。生気は音もなく奪われていった。
「ふん!」
不意に、怒号のような一喝が轟いた。
明王像が目を見開き、金色の炎が燃え上がる。空間が震え、太一はハッと目を覚まし、その場に崩れ落ちる。呼吸は乱れ、意識は混濁していた。
如意宝珠が手元から零れ落ち、仏壺へと転がる。経文が風もないのにざわめき、宝珠は封印され、すべての幻が泡のように消えていく。
「げほっ……」
血混じりの霧が毛穴から噴き出し、太一は膝をついた。肌はひび割れ、眉間の花は枯れていく。
たった一度の幻で受けた傷は、昨夜の大魔との死闘すら凌駕していた。
なんとか立ち上がった時、窓の外にはすでに朝焼けが広がっていた。
太一は明王像を見上げる。怒りの表情は変わらず、しかし石像はさらに傷んでいる。
先ほどの一喝が、最後の神力を使い果たしたのは明らかだった。
「……これは父の遺骨? それとも何かの器?」
答えはない。あの像から噴き出す怒気は、何かを鎮めているのか、それとも守ろうとしているのか。
太一は黙って仏壺を元の場所へ戻し、静かに手を合わせて殿を出た。
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「タッタッタッ――」
不意に響いた足音が、太一を現実へ引き戻した。
夕焼けを背に、一人の少女が教室に現れる。
光を浴びて、長い髪が頬をなぞる。その端正な顔立ちとすっと伸びた立ち姿は、誰にも媚びぬ強さをまとっている。
見覚えのない顔だったが、どこかで噂を聞いたことがあった。
「望月さん?」
「東雲くん、初めまして。こんな時間まで教室に残ってるなんて、何してたの?」
「こんにちは。まさか、こんな形で会うとは思いませんでした」
太一は穏やかに微笑んでみせる。「望月さんこそ、どうしてまだ学校に?」
望月影は髪をかき上げ、近くの机に腰掛ける。夕陽がその横顔を照らし、輪郭がまぶしいほどくっきりと浮かび上がる。
「卒業した先輩は多いし、新入生もまだ落ち着かないし。しかも開校間もないから、やることが山積みでさ」
「へえ~、忙しくて授業に出なくていいの?」
「授業はともかく、勉強はサボれないよ」
「それで、なんでここに?」
「ちょっと考え事してて。気づいたらこんな時間だった」
「ふーん?」望月影は好奇心を隠さず、さらに一歩踏み込んだ。「何をそんなに考えてたの?もし良ければ聞かせてよ。案外ヒントになるかもしれないし」
なぜだろう――彼女のその瞳に見つめられると、不思議と心の奥を話したくなる。
軽く咳払いし、窓の外に視線を向けて話し出す。
「最近、ちょっとした謎解きゲームにはまってて」
「へえ」
「展開は早いのに、謎はどんどん積み上がるばかりで……」
「ふふ」
「つまり――」
太一は肝心なことをぼかしつつ、自分のことを主人公になぞらえて話を続ける。
望月影はときどき相槌を打ち、話が盛り上がると目を輝かせてくれた。
夕陽が教室を金色に染める中、少年は語り、少女は静かに聴き続ける。
本当は、答えを求めているわけではない。
ただ、誰かに話し、心の重荷を吐き出したかった――
彼女は、偶然そこにいて、偶然それを受け止めてくれる人だった。
「……そういうわけで、この小説のヒントが本当に少なくてさ。難問だらけなんだ」
いつの間にか日はすっかり落ち、遠くのビルにはネオンが灯り始めていた。
「ごめんね、時間を取らせちゃって」
気づけば望月影は自分の席に戻り、両手で頬杖をついてこちらを見ていた。
「ううん、すごく面白い話だったよ。東雲くんの語りで聞けて、ちょっと得した気分」
一瞬だけ、彼女の唇に柔らかな微笑みが浮かぶ。
望月影の瞳が一瞬だけ鋭く光る。
立ち上がると、身を乗り出すように太一のそばへ近づいた。声は低く、それでいてどこか切実な熱を帯びている。
「でもね、私、どうしても引っかかるところがあるんだ」
「……どこ?」
「だって――主人公が最後、悟りに至っても《仁王経》を読み解けず、《降魔聖功》を完成させることができなかった。
それなのに、逆流して《自在天功》を悟った――そう言ったよね?」
「うん、そうだけど」
「じゃあ――」
望月影は机に手をつき、ぐっと顔を近づける。肌が触れそうな距離、息遣いが感じられるほど。
「降三世明王の誓いは、あらゆる仏の心をもって、金剛の力で“貪・瞋・痴”の三毒を打ち砕くこと。
相手は“自称・三界の主”――大自在天だよね?」
「そう……だけど?」
「だったら――なんで、君が最後に出会い、悟ったのは“欲界の主”、他化自在天だったの?」
彼女の声は、夕闇に溶けて静かに、しかし確かに響いていた――。




