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扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
13/20

錯悟

「キンコンカンコーン――」


最後の授業を告げるチャイムが鳴り響き、静まり返っていた教室が再び賑やかになった。


「今日はここまで。さっきの間違えやすいポイント、忘れないように」


「はーい!」


生徒たちは笑い合いながら席を立ち、部活動へ急ぐ者もいれば、鞄をまとめて家路につく者もいる。


「じゃあね!」


西山明が手を振りながら駆け出し、その姿は軽やかに廊下の奥へと消えていった。気づけば教室には、窓際に寄りかかる太一だけが残されていた。


窓の外には夕焼けが広がり、赤い光が机や壁を優しく染めている。少年の横顔は、どこか物思いに沈んでいた。


---


ふいに、夢のような光の波が周囲に広がる。

それは仏の威厳もなく、ただ柔らかく、どこか現世的な温かさを帯びて太一を包み込む。


温泉に浸かるような心地よさと同時に、太一の意識は朦朧としていった。


「東雲先生、今年の収益は期待以上ですね――」

店主たちが笑顔で取り囲み、次々と感謝を口にする。彼らの安泰は、太一の庇護の証だった。


「あなたのおかげですよ!龍胆さんがいなくても、私たちは安心です」

……自分は、本当にこの場所にふさわしいのだろうか。

この笑顔は、本当にみんなに安心を与えているのだろうか――


「そんなに急いで食べなくても誰も取らないよ」

母がやさしく窘める声、その言葉にも春風のような温もりがあった。


「太一……」

耳元でささやく、女性の柔らかな吐息と香り、ぬくもり。


――五欲が現れ、欲界が降臨する。


幻と現が交差し、太一はそのまま甘美な夢へと落ちていく。

血が七竅から流れ出しても、何も気づかない。生気は音もなく奪われていった。


「ふん!」


不意に、怒号のような一喝が轟いた。


明王像が目を見開き、金色の炎が燃え上がる。空間が震え、太一はハッと目を覚まし、その場に崩れ落ちる。呼吸は乱れ、意識は混濁していた。


如意宝珠が手元から零れ落ち、仏壺へと転がる。経文が風もないのにざわめき、宝珠は封印され、すべての幻が泡のように消えていく。


「げほっ……」


血混じりの霧が毛穴から噴き出し、太一は膝をついた。肌はひび割れ、眉間の花は枯れていく。

たった一度の幻で受けた傷は、昨夜の大魔との死闘すら凌駕していた。


なんとか立ち上がった時、窓の外にはすでに朝焼けが広がっていた。


太一は明王像を見上げる。怒りの表情は変わらず、しかし石像はさらに傷んでいる。

先ほどの一喝が、最後の神力を使い果たしたのは明らかだった。


「……これは父の遺骨? それとも何かの器?」


答えはない。あの像から噴き出す怒気は、何かを鎮めているのか、それとも守ろうとしているのか。


太一は黙って仏壺を元の場所へ戻し、静かに手を合わせて殿を出た。


---


「タッタッタッ――」


不意に響いた足音が、太一を現実へ引き戻した。

夕焼けを背に、一人の少女が教室に現れる。


光を浴びて、長い髪が頬をなぞる。その端正な顔立ちとすっと伸びた立ち姿は、誰にも媚びぬ強さをまとっている。


見覚えのない顔だったが、どこかで噂を聞いたことがあった。


「望月さん?」


「東雲くん、初めまして。こんな時間まで教室に残ってるなんて、何してたの?」


「こんにちは。まさか、こんな形で会うとは思いませんでした」

太一は穏やかに微笑んでみせる。「望月さんこそ、どうしてまだ学校に?」


望月影は髪をかき上げ、近くの机に腰掛ける。夕陽がその横顔を照らし、輪郭がまぶしいほどくっきりと浮かび上がる。


「卒業した先輩は多いし、新入生もまだ落ち着かないし。しかも開校間もないから、やることが山積みでさ」


「へえ~、忙しくて授業に出なくていいの?」


「授業はともかく、勉強はサボれないよ」


「それで、なんでここに?」


「ちょっと考え事してて。気づいたらこんな時間だった」


「ふーん?」望月影は好奇心を隠さず、さらに一歩踏み込んだ。「何をそんなに考えてたの?もし良ければ聞かせてよ。案外ヒントになるかもしれないし」


なぜだろう――彼女のその瞳に見つめられると、不思議と心の奥を話したくなる。


軽く咳払いし、窓の外に視線を向けて話し出す。


「最近、ちょっとした謎解きゲームにはまってて」


「へえ」


「展開は早いのに、謎はどんどん積み上がるばかりで……」


「ふふ」


「つまり――」

太一は肝心なことをぼかしつつ、自分のことを主人公になぞらえて話を続ける。


望月影はときどき相槌を打ち、話が盛り上がると目を輝かせてくれた。


夕陽が教室を金色に染める中、少年は語り、少女は静かに聴き続ける。


本当は、答えを求めているわけではない。


ただ、誰かに話し、心の重荷を吐き出したかった――

彼女は、偶然そこにいて、偶然それを受け止めてくれる人だった。


「……そういうわけで、この小説のヒントが本当に少なくてさ。難問だらけなんだ」


いつの間にか日はすっかり落ち、遠くのビルにはネオンが灯り始めていた。


「ごめんね、時間を取らせちゃって」

気づけば望月影は自分の席に戻り、両手で頬杖をついてこちらを見ていた。


「ううん、すごく面白い話だったよ。東雲くんの語りで聞けて、ちょっと得した気分」


一瞬だけ、彼女の唇に柔らかな微笑みが浮かぶ。


望月影の瞳が一瞬だけ鋭く光る。

立ち上がると、身を乗り出すように太一のそばへ近づいた。声は低く、それでいてどこか切実な熱を帯びている。


「でもね、私、どうしても引っかかるところがあるんだ」


「……どこ?」


「だって――主人公が最後、悟りに至っても《仁王経》を読み解けず、《降魔聖功》を完成させることができなかった。

 それなのに、逆流して《自在天功》を悟った――そう言ったよね?」


「うん、そうだけど」


「じゃあ――」

望月影は机に手をつき、ぐっと顔を近づける。肌が触れそうな距離、息遣いが感じられるほど。


「降三世明王の誓いは、あらゆる仏の心をもって、金剛の力で“貪・瞋・痴”の三毒を打ち砕くこと。

 相手は“自称・三界の主”――大自在天だよね?」


「そう……だけど?」


「だったら――なんで、君が最後に出会い、悟ったのは“欲界の主”、他化自在天だったの?」


彼女の声は、夕闇に溶けて静かに、しかし確かに響いていた――。

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