四月
西山明は一瞬きょとんとした。すぐに「ああ、そうか」と納得したように頷き、明るい笑顔で言った。
「詩織ちゃん、安心して!俺も転校したばかりだけど、お兄さんたちが絶対に守ってあげるから!」
詩織の表情が一気に冷たくなる。
声音は硬く、感情を隠そうともしない。
「太一兄、ここはちょっと空気が悪い。別の場所に行こう?」
「あ、あの……」
西山の笑顔が固まったまま、手持ち無沙汰に立ち尽くしている。
太一は妹の意図をすぐに理解し、何も言わずに軽く会釈した。
「それじゃ、僕たちはこれで。」
そう言って、詩織と並んでその場を離れた。
西山はそのまま取り残されて、乾いた笑い声だけが背中に残る。
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「さて、案内してもらっていい?」
「おう、せっかくだから先輩らしくキャンパスをぐるっと回ってあげるよ!」
「詩織、中学部は成績で入ったんだよね?」
「もちろん!」
詩織は少し誇らしげに顎を上げる。
「それに、入学組の中でも一番成績良かったんだから!」
「さすがだな。」
太一は優しく妹の髪をくしゃくしゃにする。
「もう、やめてよ……」
言葉では嫌がるが、その表情はうれしさを隠しきれない。
二人で校舎を一周し、主要な施設を紹介し終える頃には、辺りも静かになっていた。
ベンチに腰かけると、空気が穏やかに落ち着く。
詩織は、ふと真剣な表情になった。
「ねえ、太一兄。昨夜、何があったの? 二年前と同じようなこと?」
太一は言い訳しようとしたが、詩織のまっすぐな瞳を見て、観念して口を引き締めた。
「……似ている部分はある。どちらも説明できない“怪異”に遭遇した。
でも、司もあのとき詳しく話してくれなかっただろう。俺も全部は……言えないし、言いたくないんだ。」
「そっか……」
詩織の目が少し寂しげに揺れる。
「あれ以来、お兄ちゃんもいなくなっちゃったし……」
「仕方ないさ。あの事件は酷すぎた。
今、真相を知ってるのは、行方不明の司と、姿を消した“叔父さん”くらいだ。」
太一は優しく続ける。
「でも、気にしても仕方ない。司には司なりの考えがある。俺も、頼れる人に協力をお願いしてあるし。」
「……ありがとう、太一兄。」
詩織はそっと手を伸ばし、太一の右目尻をなぞる。
そこには、毒牙のようにも涙痕のようにも見える痕が刻まれていた。
「当たり前だろ。お礼を言われることじゃない。」
「それでも……ありがとう。
本当は、太一兄が無理しなくていいのに……」
「お礼を言うべきなのは、むしろ俺のほうさ。」
空気を変えるように、詩織はカバンから大きなお弁当箱を取り出した。
開けると、太一の好きなおかずがぎっしり詰まっている。
『朝ごはん作る前に、ちゃんと用意してたんだろ。
昨日、ろくに寝てないんじゃないか?』
何も言わず、太一は玉子焼きを箸で取る。チーズがとろけて、香りが鼻をくすぐる。
「久しぶりに詩織の手料理を食べたな。やっぱり、君の料理が一番だ。」
「またそれ? 毎回同じこと言うんだから……」
言いながら、顔はほんのり赤い。
「じゃあ、これから毎朝お弁当入れてあげる。
どうせパンとかでごまかしてるんでしょ?」
「そこまでしなくていいよ、無理するな。」
「もう、誰のためだと思ってるの?
ちゃんとしたもの食べないし、ジュース飲んで栄養摂った気になるし……」
太一は苦笑いしながら、ぽつりと言った。
「じゃあ、うちに引っ越してくるか? そのほうが何かと安心だし。」
詩織は首を振る。
「だめだよ。いつかお兄ちゃんが帰ってきたとき、一番にご飯作ってあげなきゃ。」
「……二年間、太一兄がいてくれて、家の中も少しは落ち着いたよ。」
言葉が途切れ、二人の間にしばし沈黙が流れる。
やがて、詩織がぽつりと尋ねた。
「ねえ、太一兄……
これからも、またこうやって一緒にご飯食べられるのかな?」
太一は一瞬間を置いてから、優しく、真剣に答える。
「必ず、また一緒に食べよう。約束する。」
太一の右目尻の痕が、陽の光の下でいっそう深く見えた。
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「きっつ……」
「ラッキー!」
…
教室では生徒たちの賑やかな声が飛び交っている。
「キーンコーンカーンコーン!」
チャイムが鳴り、生徒たちは席に戻った。
太一の席は、運良く窓際の最後列だった。
しばらくすると、規則正しい足音と共に、教室のドアが開く。
淡いクリーム色のスーツに丸メガネの若い女性教師が、ゆっくりと教壇に立つ。
「みなさん、はじめまして。芝野美咲です。」
字も発音も端正で、声には知性と柔らかさがあった。
「今年一年、担任と英語を受け持ちます。よろしくお願いします。」
短い挨拶と、その知的な雰囲気で、生徒たちの好感を一気に集めた。
「では、自己紹介をしましょう。藤岡くんからどうぞ。」
教室入り口の席から、男子が立ち上がる。
「藤岡祐一です。中学から聖徳堂です……」
壇上の元気な挨拶の裏で、ひそひそとささやき声が広がる。
太一は窓の外、青空と鳥の姿にぼんやり目をやりながら、
頭の中では昨晩の怪異の余韻が渦巻いていた。
『……飛頭蛮の言葉からすると、斗鬼もあいつも、数百年前の存在……。
そもそも斗鬼って、どんな“存在”なんだ?』
自己紹介が続く。
「西山明です!転校してきたばかりなので、よろしく!」
突然の大声に、太一は現実に引き戻される。
順番が回ってきた。自然に立ち上がり、控えめに微笑む。
だが、その声はどこか空虚だった。
「東雲太一。転校生です。よろしく。」
そのとき、“藤岡祐一”という名の生徒が、じっとこちらを見ているのに気づく。
「望くんは急用で欠席です。」
太一の後ろの席が空いている理由を、芝野先生が説明した。
何人かは慣れた様子で、あまり驚かない。
「みんな、これからは積極的に友達を作ってくださいね。」
「それと今後の授業予定と、クラス役員の選出についても説明します。」
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初日の今日は早めに下校。太一は校内をぶらつくことも、部活を見に行くこともせず、荷物をまとめて帰ることにした。
バイト先も学校から近いが、昨晩行ったばかりだし、用事もない。
明日まとめて調べよう、と決めて駅へ向かう。
電車が静かにホームを離れ、高層ビル群が少しずつ遠ざかる。
車輪の音が、心を落ち着かせてくれた。
窓の外、公園ではまだ学生たちが遊んでいる。
何気なく視線をそらすと――
ベンチに、どこか見覚えのある人影が腰掛けていた。
――西山明?




