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扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
10/20

詩織

黄泉が静かに沈み、冥府の波もようやく収まる。

斗鬼の小さな影も、このとき初めてわずかに力を抜いた。

冷たい面差しが、ほんの一瞬、柔らかな微笑みにゆるむ。


だが、その刹那の安堵こそ、現世にとどめていた力を急速に失わせていく。


斗鬼の姿はふらりと揺らぎ、やがてその輪郭さえ薄れていき――

朝霧のように、静かに、風に溶けるように消え去った。


『斗鬼……?』


太一は胸を締めつけられるような思いで、その場へ駆け寄ろうとする。

だが次の瞬間、全身の力が一気に抜け落ちた。骨の髄まで冷え切るような痛みが、身体の隅々に広がっていく。

声すら出ない。


抱えきれなかった疲労と傷の痛みが、一斉に押し寄せてくる。


太一はついに踏みとどまることができず、視界が暗転し、その場に崩れ落ちた。


かすむ意識の奥で、誰かが必死に自分の名を呼ぶ――


「お兄ちゃん! お兄ちゃん!!」


世界は、闇の中へと沈んでいった。


---


無辺の暗夜――

どこからか囁きが流れ込んでくる。近づけば遠ざかり、遠ざかればまた耳元に戻る。

内容は聞き取れない。まるで夢の中の声、あるいは遠い記憶の残響のようだ。


光と影が交錯し、無数の断片が心に浮かび上がる。


誰かが風の中で抱きしめ合い、誰かが血の海で向き合い、誰かが火の中で肩を並べ、誰かが夜明け前に去っていく――


永遠を誓いあう者、火と血の中でともに戦い抜く者。

星降る夜には心を通わせ、万人の前では孤独に寄り添う。


差し伸べた手は触れることができず、呼んだ名は時に飲み込まれる。


星空、戦場、神社、火宅――

どの情景も次々と重なり、歪み、やがて崩れていく。


誰が笑い、誰が泣き、誰が待ち、誰が巡るのか。

名も顔もない存在たちが、黒い海の中でさざめく。


---


「……あっ!」


水の音が跳ね、少女の叫び声が台所に響いた。

驚いて水道を止め、慌てて飛び散った水滴を拭く。


続いてガスの火が灯り、フライパンとヘラが小さくぶつかる音。

卵が油の中でじゅっと音を立て、トーストが香ばしく焼き上がる。


太一は、そのすべてを夢の中で静かに聞いていた。

失われていたはずの日常――穏やかで、あたたかく、生活の匂いに満ちている。


そっと目を閉じて、身をゆだねる。

そこにあるのは、かけがえのない安らぎ。


静かにドアが開き、小さな影が覗き込む。

太一が目覚めていると知り、少女は少し安心したような表情になる。


「太一兄ちゃん、体調はどう?」


小さな手が額にそっと触れ、温もりが伝わる。


「大丈夫だ。心配かけたな。」


「心配して当然でしょ?何度電話しても出ないし!」


ぷいっとそっぽを向き、勢いよく太一の横に寝転がる詩織。


「……もしお兄ちゃんまでいなくなったら、私は――」


「大丈夫だ。絶対に、君を一人にはしない。」


少女は顔を背けたまま肩を震わせる。


「ほら、もう朝ごはんできてるよ。起きて身支度して、一緒に学校いこう!」


彼女の背を見送りながら、太一はようやく心に安堵の重みを感じるのだった。


---


「……我が私立聖徳堂学園の教育理念は……」

「……未来を見据え、生徒一人ひとりの可能性を最大限に……」

「生徒会は……」


「起きて、起きて!」


ぼんやりとした意識のまま、太一は目を開ける。

すぐ目の前、そばかす混じりの少年がのぞき込んでいた。


「ありがとう。」太一は素直に礼を言う。


『校長の話って、妖怪の呪いより効くんじゃないか……?』


「君、新入生だろ?俺、西山明。一年A組。君は?」


赤いバッジに、鳩と榊の校章――一年生の印だ。


「東雲太一。同じく一年A組。」


「おっ、ならなんでそっち座ってたの?」


「遅刻したからさ。前に行くのも目立つし……」


二人で講堂を出ると、校内は活気にあふれていた。


「陸上部新入部員募集中!走るの好きな人集まれ!」

「文学部も大歓迎、『青春物語』創刊号完成!」

「奇跡を目撃したい?運命を変えたい?麻雀部へ!」

「背筋伸ばして、リラックス……」

「ドレミファソラシド——」


春の陽射し、笑い声、部活動の勧誘。

誰もが新しい始まりに胸を躍らせている。


「東雲くん、ちょっと校内案内してくれない?俺、転校してきたばかりで……」

「ごめん、俺も今日からだ。君が初めて話す同級生。」


「……マジか……」


名門・聖徳堂学園――全国屈指の私立校。

推薦状、面接、家庭調査も当たり前。エリート、芸術家、御曹司たちが集うこの場所。


ただ、太一は違った。

推薦状がどこから届いたのかも知らないし、試験も受けていない。ただ一枚の面接案内状――それだけで、今ここにいる。


西山の愚痴を聞き流しつつ、太一の視線は遠くのブースに向けられていた。


そのとき、駆け足の音が近づく。


やわらかな体温が背中に重なり、ほのかな香りの手がそっと目を覆う。

身長差を埋めるため、誰かがつま先立ちで、太一の背にぴたりと寄り添った。


「だーれだ?」


太一は困ったように笑い、しゃがんでそのままその子の脚を持ち上げ、くるりと一回転。


「きゃっ!」

少女の笑い声が春風のように弾む。


降ろすと、彼女はほんのり顔を赤らめ、額に髪が張り付き、素顔が初春の朝陽のように輝く。


「太一兄ちゃん、やっと見つけた!」


「ごめん、説明会でうっかり寝ちゃってさ。」


「も〜、ほんとに心配したんだから!」


西山は完全に固まっている。


「No——!」と突然叫び、全員がぽかんとした。


「何なの?」と太一。

「お兄ちゃん、なんか変な人がいる!」と詩織も警戒。


「誤解だって!俺はただの同級生!」

必死に食い下がる西山を横目に、太一は妹の前に立ち塞がる。


西山は一息つくと、もみあげをいじりながら自己紹介した。

「西山明です、一年A組。音楽とゲーム好き。えっと、君のお名前は?」


「……こんにちは。」

少女は太一の後ろに隠れ、蚊の鳴くような声で答える。


「龍胆詩織です。」



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