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第四話 異国の家族


夜の倉庫の片隅。作業を終えたあと、ルカはサルヴァトーレのもとへ歩み寄った。


「なあ、サルヴァトーレ。ちょっと相談があるんだ」


サルヴァトーレは煙草に火をつけ、目だけで「言え」と促す。


「……母さんに、金を送りたい。少しだけど、貯まったし……」


サルヴァトーレは煙を吐き出し、しばらく黙った。


「シチリアか。どこだ」


「…田舎の村だよ」


「ふん。まあ、地図のどっかにはあるんだろうな」


ブルーノがやや驚いたように横目でルカを見る。


「……そんなに貯まってたっけか?」


「まだ少しだけど…」


サルヴァトーレは渋い顔で煙草をくわえ直す。


「坊主。正直にな、今のお前の手持ちじゃ手数料だけで半分吹っ飛ぶ。そういうもんだ」


ルカはうつむき、言い返せなかった。


「まとめて送れ。月に一度、移民会で受け付けてる。送りたきゃ、もっと貯めてからだ」


ルカは眉を寄せ、戸惑ったように聞いた。


「……移民会って何だ?」


サルヴァトーレは少しだけ笑みを浮かべ、ルカの顔を見つめた。


「坊主。お前、どうやってこの国に来た?」


ルカは小さく息を吐いて答える。


「船に……忍び込んだ」


その言葉に、サルヴァトーレは苦笑し、煙草の火を床にこすりつけた。


「だろうと思ったよ。じゃなきゃそのツラじゃ通れねえ」


ブルーノが吹き出しそうになるのを、なんとかこらえている。


サルヴァトーレは少し間を置いてから、ゆっくりと言った。


「……わかった。俺が口をきいてやる。ただし、金はもっと貯めてからだ」


そして、手のひらを開くように付け加えた。


「だが、“手紙”ならイタリアでもすぐ送れる。ポストに入れりゃいい。言葉は書けるか?」


ルカは少しだけ顔を上げて、うなずいた。


「書く物と切手なら用意してやる。あとはお前次第だ」


ブルーノがすかさず口を挟む。


「お前のあのくしゃくしゃの字、母ちゃん読めんのか?」


サルヴァトーレは煙草の残りを床で消しながら、低く言った。


「……金がまだでも、気持ちは先に届くこともある」


その言葉を、ルカは胸の奥で静かに反芻した。


その夜、古い机の前で、ルカはペンを握った。


インク瓶の匂い。ざらついた紙の手触り。書き慣れない文字が、少しずつ浮かび上がっていく。


「母さん、元気ですか。俺はちゃんと、生きてるよ──」


ブルーノはその様子を見ながら、毛布にくるまってあくびをした。


「……ま、字が読めなくても、気持ちってのは伝わるって言うしな」


「うるせえよ。寝てろ」


ルカは笑いながら、またペン先を走らせた。


しばらくしてブルーノが寝静まったころ、ルカは書き終えた手紙を持ち静かに家を出た。


小声でつぶやきながら、埃っぽい床をそっと歩く。扉を開ければ、夜の港の風が頬をかすめた。


街灯の明かりがぼんやりと石畳に映り、静かな通りの向こうに、小さな赤いポストが見えた。


ルカは手紙を胸に当て、一瞬だけ空を仰ぐ。


「ちゃんと届いてくれよ……」


ポストの投函口に、そっと手紙を差し入れる。金属がわずかに軋む音とともに、封筒は闇の奥へと吸い込まれていった。


数秒立ち尽くした後、ルカはゆっくりと踵を返した。


その夜の風は、ほんの少しだけ、あたたかかった。




―――翌朝、港の空はどんよりと曇り、波の音がひときわ荒く響いていた。

ルカとブルーノはいつものように倉庫へ足を運んだが、様子がどこか違った。


サルヴァトーレがタバコをくわえ、片足を木箱に乗せていた。

作業員たちもあまり動かず、海のほうを見ては肩をすくめている。


「おい坊主ども、今日は“荷”はない。船が着かねぇ。海が荒れてやがる」


そう言ってサルヴァトーレは煙を吐いた。


「休みってことか?」

ブルーノが眉を上げる。


「そうだ。たまには骨休めしろ。……リトルイタリーでも遊びに行ってこい」


「……リトル、イタリー?」


ルカが首をかしげた。


サルヴァトーレは面倒そうにこちらを見返し、笑った。


「お前ら、ほんと何にも知らねぇんだな。しゃあねえ、ついでだ、連れてってやるよ」


 


午前のうちに港を離れ、彼らは石畳を抜けて内陸へ向かった。

霧のかかった路地をいくつも抜けるうちに、街の色が変わっていった。


サルヴァトーレが指をさす。


「見ろ、あれが“リトルイタリー”。イタリアから流れ着いた連中が寄り集まってできた街だ。店も住む家も、全部あいつらのもんだ」


通りには香ばしいパンの香りと、オリーブオイルの匂いが立ちこめていた。

露店の男が大声で客を呼び、軒先では老婆たちが身振り手振りで喋っている。


「……なんか、イタリア語しか聞こえねぇな」


ブルーノがつぶやく。


「英語、話せないやつも多いさ。でもな、飯はうまいぞ」


そう言って、サルヴァトーレは慣れた足取りで小さな食堂の扉を押し開けた。


 


中では太った主人が笑顔で迎え、テーブルにはトマトとニンニクの香りが立ち込める皿が並んだ。

生まれた頃から馴染んだ味――記憶通りの優しい味がした。


「……うめえ」


ブルーノがつぶやき、ルカも無言でうなずいた。


食後、三人は街の中を歩いた。サルヴァトーレは顔見知りのようで、パン屋の主人や床屋の親父と立ち話をしては軽口を叩いていた。


「……あの人、どこにでも知り合いいるのか?」


「港だけじゃねぇんだな」

ルカとブルーノは、少し目を丸くしてその背中を見つめた。


その途中、サルヴァトーレが路地の先を指さす。


「あそこはナポリ出身の連中の店。こっちはシチリアのやつら。同じイタリア人でも派閥はある。ま、喧嘩してるわけじゃねえし協力はするがな」


小さな広場の角を曲がったとき、サルヴァトーレの足がぴたりと止まった。

 向こう側の通りに目を向け、低い声で言う。


 「いいか、お前ら。あの通りの先には行くな。向こうは、アイリッシュの縄張りだ」


 ルカが首をかしげる。


 「……アイリッシュ?」


 「アイルランド系の連中さ。この街じゃ、俺たちイタリア系と並んで多い移民だ。昔から水と油なんだよ」


 ブルーノが前を見ながらぽつりとつぶやく。


 「同じ移民なのに、仲悪いのか?」


 「だからこそだ。後から来たヤツらが邪魔なんだろう。」


 ルカがふと通りの先に目を凝らす。

 確かに、看板の文字も服装も、どこか雰囲気が違う。何より、笑い声すら乾いて聞こえた。


 「……知らない顔が歩いてたら、理由なんかなくても絡まれる。ここじゃ、それが“理由”になるんだよ」


 サルヴァトーレの言葉に、ふたりは黙ってうなずいた。



「……ま、今日は飯も食ったし、顔見せも済んだ。ちょっと用事がある。ここで待ってろ」


 サルヴァトーレが言って、煙草をくわえながら立ち上がる。


 「ここで?」


 ルカが聞き返すと、サルヴァトーレは小さくうなずいて続けた。


 「大丈夫だ、こっち側にいりゃ問題ねぇ。通りの向こうには行くなよ。いいな?」


 そう言い残して、サルヴァトーレは細い路地を曲がり、裏通りの奥へと姿を消していった。


 


 静かになった街角に、しばし沈黙が落ちる。


 ルカとブルーノは、壁にもたれながら石畳を見下ろしていた。


 「……こっち側、ってどこまでだ?」


 ブルーノがぼそりとつぶやく。


 「この道の真ん中に、見えない線でも引いてあるんだろ」


 ルカはそう言いながら、通りの向こう側をちらりと見た。


 さっきまでのリトル・イタリーの賑やかな空気とは、どこか違っていた。  店の看板には英語が並び、窓辺にはイタリアの旗もなければ、通りを歩く顔つきもどこかよそよそしい。  人の声はあっても、さっきまでのような明るさはなく、空気は少しだけ乾いていた。


 「なんか、向こう側はイタリアっぽくねえな。ほんとに国が違うみたいだ」


 ブルーノが言う。


 「こっち側もアメリカだけどな」


 ルカの言葉に、二人は少しだけ笑った。


 そのときだった。


 通りの向こう側から、三人の少年たちがこちらを見ていた。 年はルカたちとそう変わらない。だが、服装は少し小奇麗で、金髪の混じる髪に、よく通る英語の声が聞こえてくる。


 「……あれ、なんか見てきてねえか?」


 ブルーノが低く言った。


 ルカは肩をすくめる。


 「面倒くさそうな連中だな」


 リトル・イタリーの喧噪も、この瞬間ばかりは遠くに感じられた。


少年たちは、わざとらしくゆっくりと歩を揃え、石畳を鳴らしながらにじり寄ってきた。真ん中の背の高い少年が、ニヤついた笑みを浮かべながら口を開く。


 「おい、ネズミども。昼間っからチーズの匂いがすると思ったら……やっぱりイタ公かよ」


 ルカの目が細くなる。ブルーノも肩をすくめながらつぶやいた。


 「チーズ、好きなのはそっちだろ。鼻のきく犬みたいに擦り寄ってきやがって」


 金髪の少年は聞こえるように笑った。


 「はっ、言葉しゃべれんのかよ、こいつら。進歩したじゃねぇか。辞書貸してやろうか?」


 ブルーノが一歩前に出る。


 「犬と喋んのに辞書はいらねえだろ」


 ルカはその横で、ぐいと顎を上げた。


 「こっちはただ人を待ってるだけだ。絡んでくるなら、相手してやってもいいけどよ」


 アイルランド系の少年たちの空気が、少しだけ変わった。真ん中の金髪の少年が目を細めて、口角を上げる。


 「へえ……最近のイタ公は、口ばっかり達者になったもんだな」


 「口も手も、どっちも使えるけどな」


 そう言ったのはルカだった。目は逸らさず、微笑さえ浮かべていた。


 一瞬、張りつめた空気が生まれた。


 だがその時――


 「おいおい、待ってろって言ったのに何を始めてんだ、坊主ども」


 低く響く声が、路地の奥から返ってきた。


 サルヴァトーレが煙草をくわえながら現れた。ゆったりとした歩調で近づきながら、目だけで周囲を見渡す。その背後には、ほんのわずかに緊張が漂っていた。


 金髪の少年たちが振り返る。サルヴァトーレの顔を見て、一瞬だけ沈黙が流れる。


 「……なんだてめえは。ドブネズミの親玉か?」


真ん中の少年が吐き捨てるように言うが、サルヴァトーレはまったく動じない。煙をゆっくり吐き出しながら、無造作に言い返す。


 「チーズの匂いが嫌なら、嗅ぎに来るな。帰れ、坊主ども」


 「なんだと?」


 「言葉通りだ。ここは俺たちの通りだ。お前らがのこのこ出張ってくる場所じゃねえ」


 サルヴァトーレの目は細く笑っているが、その奥には鋼のような硬さがあった。少年たちも、どこか迷うような色を見せる。結局、真ん中の金髪が舌打ちをして言った。


 「ふん。まあいい。巣穴から出てくんじゃねーぞ」


 捨て台詞を残して、三人組はゆっくりと踵を返し、向こうの通りへと戻っていった。


 その背中が角を曲がって消えたとき、ルカがぽつりとつぶやいた。


 「……あんだけ言われて、いいのかよ」


 サルヴァトーレは煙草を指ではじいて地面に落とし、靴の裏で踏みつけた。火がじゅっと消える。


 「言わせておけ。今はな」


 その言いぶりに、ブルーノが眉をひそめる。


 「“今は”って……?」


 サルヴァトーレは懐から新しい煙草を取り出し、火をつけながら静かに言った。


 「アイリッシュは、この街での“やり方”を先に覚えた。早くから英語を話して、警官や消防に入り込んで、仲間を増やして、地元に根を張って組織化してる。今はあいつらの方が立場が上だ」


 煙を吐き出すと、視線を通りの向こうに向けた。


 「でもな、俺たちも黙ってるわけにはいかねぇ。やつらみてえな組織に渡り合うためには俺たちもまとまるしかねえ」



ルカがぽつりと尋ねる。


 「……じゃあ、あんたがまとめてるのか?」


 サルヴァトーレは真顔で答える。

「いや、まだまとまろうとしてる途中だ。イタリアがまとまればアイリッシュだろうがアメリカだろうがどこにも負けることはねえ。」


「……なんか、すげぇ話になってきたな。戦争でもする気かよ」


 「冗談だと思うか?」


 「いや……なんか本気っぽいのが、また怖ぇ」


 ルカがちらりとサルヴァトーレを見て、口元を緩めた。


 「……だったら、俺たちは仲間ってことでいいんだろ?」


 ルカの問いかけに、サルヴァトーレはふっと口元で笑った。そして煙草を口から外すと、ゆっくり言った。


 「仲間じゃねえよ。――シチリア人は、家族だ」


 その言葉に、一瞬だけ沈黙が落ちる。


 ブルーノが軽く口笛を吹き、ニヤリと笑った。


 「……そいつは、悪くねえな」


 「裏切らなきゃそれでいい。アイリッシュがでかいツラできんのも、今のうちだ。」


ルカは言葉を返さなかった。

 家族――

 その響きは、遠く離れた故郷の母と、幼い弟妹を思い出させた。

 血のつながりじゃない。でも、同じ匂いのする人間たちが、ここには居る。


まだ信じきれるほど強くはない。

それでも言葉の温もりだけは、じんわりと胸の奥に染み込んでいった。





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