表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第三話 地底の火種


路地裏の空気は夜になっても乾いて埃っぽく、昼の熱をじんわりと石畳に残していた。


ブルーノは、古ぼけた空き家の階段に腰を下ろしながら、ルカの顔を見た。


「……やったな」


ルカは黙ったまま、小さくうなずいた。


ポケットの中の紙幣が、じんわりと指先を熱くする。 恐怖や怯えじゃない。ただ──自分の手で得た“価値”の重みだった。


「これが仕事...なんだな」


ぽつりとつぶやいたルカに、ブルーノは肩をすくめる。


「気に入られれば色々と仕事を回してくれる。お前も選ばれたかもな」


ルカはうまく笑えなかった。 何かが動き出している。自分でも止められない“流れ”のようなものが、もう足元にある。


「……なあ、ブルーノ。お前、ずっとこれやってんのか?」


「さあな。気づいたら、こうなってた」


ブルーノは少しだけ笑って、足元の石をつま先で蹴った。


「……この街来た頃、路上でぶっ倒れてたんだよ。三日くらい、何も食ってなかった」


ルカは眉をひそめて、じっと彼の横顔を見た。


「そしたら――サルヴァトーレが来た。なんでか知らねぇけど、パンと水をくれてさ。」


少し間を置いて、ブルーノは言葉を続けた。


「“世話になった”とか、そんな大げさなもんじゃねぇけど……でも、あのとき生き残れたのは、あいつのおかげだ」


ルカはうつむく。


「普通じゃ、生き残れねえ」


その言葉は、自分に向けて放たれたようだった。


二人の間を風が抜ける。 その中に、どこかで焼き菓子を焼く甘い香りが混じっていた。だが、それはもう遠く、別の世界の匂いだ。


「なあ、ブルーノ。次は……何をやるんだろうな」


「さあな。でもたぶん、逃げられねえぞ、もう」


笑ったブルーノの顔に、幼さと老成の両方が浮かんでいた。


ルカはうなずいた。 もう引き返すことはない。

だが、前に進むのは、まだ怖かった。


──そして、数日後。


しばらく空き瓶拾いで食いつないでいた二人の元にサルヴァトーレから連絡が入った。


まだ空が青黒い時間帯。ルカとブルーノは港の倉庫裏に呼び出された。


 「その荷だ。台車に載せて、例の場所まで運べ。絶対に、開けるな。質問もいらねえ」


 そう言って、サルヴァトーレは煙草に火をつけ、目だけを細くしてふたりを見た。


 荷物は粗末な木箱だった。手書きのラベルには「チーズ」とあるが、持ち上げると、異様に重い。中から微かに金属が擦れるような音がした。


 「……なあ、これってホントにチーズか?」ブルーノがささやく。


 「黙って運べ。余計なことを考えるなって言われただろ」


 ルカはそう答えたが、胸の奥で何かがざわついていた。


 


 港の小道を抜ける途中、見張りの男とすれ違った。男は無言でうなずき、手元の帳簿に何かを書き込む。台車に目をやることはなかった。


 「……顔パス、ってやつか?」ブルーノが小声で言う。


 「違う。金か、コネか……」


 ルカは喉を鳴らし、黙って歩き続けた。


 


 数分後、ふたりはサルヴァトーレに言われた“指定の倉庫”の前にたどり着いた。


 そこは正規の港湾施設から外れた、鉄格子の壊れかけた古い倉庫だった。扉の隙間から微かに油と鉄と埃が混ざった臭いが漏れている。


 待っていたのは、無精髭を生やした大柄な男ふたり。どちらも口を開かず、ただ荷を受け取り、何も言わず倉庫の中へ消えていった。


 


 ふたりは港に戻る道すがら、口を開かなかった。


 「……なあ、さっきの中身、何なんだろうな」


 「ブルーノ」


 ルカが少し厳しめな口調で続ける。


 「俺たちにできるのは、運ぶことだけだ。いまはな」


 ブルーノは少しだけ笑った。笑ったが、その目の奥に、わずかな不安と覚悟が混ざっていた。


 それは、この街の“仕事”が、パンや瓶よりもっと重いものを運ぶ世界だということを、少年たちに教え始めていた。



それから数日間、ルカとブルーノは港と倉庫のあいだを行き来する毎日を繰り返していた。


夜の倉庫には、人の気配と、油と鉄と塩の匂いが混じっていた。

ルカは荷車の後ろを押しながら、ブルーノの背中を追っていた。目の前には、黒い影のような男たちが無言で動き、船から下ろされた木箱を次々と運んでいく。


「その箱、こっちだ。割るなよ、チーズってことになってるからな」


サルヴァトーレが低く言う。

だがルカがちらりと箱の隙間から覗くと、中には見慣れぬ金属の筒が幾つも詰められていた。たばこの匂い、そしてどこか甘い香水のような香りもする。


「なあ、チーズって割れるのか?」


ブルーノが苦笑する。

ルカは何も言わず、それを荷台に載せた。


作業がひと段落した頃、倉庫の奥からスーツ姿の男がやってきた。


サルヴァトーレは懐から封筒を取り出し、さりげなく男に渡す。

中身を確認した男がニヤッと笑いながら言った。


「美味そうなチーズだ」


ルカはその一部始終を、息を呑んで見ていた。



―――港町の夕暮れ。倉庫の仕事がひと段落した頃、サルヴァトーレがルカたちに声をかけた。


「おい、坊主ども。これを持って、明日からここに通え」


渡された紙には、教会の名前と、英語で「Evening English Class」と書かれていた。

ルカは真剣な顔で受け取り、ブルーノは紙を覗き込んで鼻で笑った。


「教会かよ。俺らに聖書でも読ませるつもりか?」


「英語を覚えろってことだろ?」

ルカが答えると、サルヴァトーレが煙草をくゆらせながら付け加えた。


「この国じゃ、喋れねぇヤツは動物と同じだ。言葉を覚えろ。」


ブルーノは一瞬だけ顔をしかめたが、何も言わずに紙を受け取った。



翌日、港の喧騒を背にして、ふたりは教会の扉を押した。

礼拝堂の奥、小さな教室には、色々な国の移民たちが集まっていた。

イタリア系、ポーランド系、アイルランド系、スラブ系……みんな同じように貧しい格好で、同じように不安そうな目をしていた。


前に立つ老シスターが、笑顔で語りかける。


「Good evening, boys. Let’s begin. Repeat after me. Apple.」


「ア……アペル……?」

ルカがつぶやく。


「アップォ? ……って感じか?」

ブルーノは隣で首をかしげながらも、意外と真剣な目で黒板を見つめていた。


授業が進むにつれて、ふたりは徐々に口を開くようになる。

知らない言葉が、少しずつ自分のものになっていく不思議な感覚。




帰り道、石畳を歩きながらブルーノがぽつりと呟いた。


「英語なんて覚えたって、どうせ俺たちゃチーズ運びだろ?」


「でも、生きてくには必要だろ」


「……まあな」

ふてくされた声で返すブルーノの隣で、ルカは空を見上げた。


それから数週間、ルカとブルーノの毎日は決まっていた。

昼間は港の倉庫で荷物を運び、夜には教会で英語の授業を受ける。


鉄と油の匂いが染みついた倉庫から、聖歌と石の静けさが包む教室へ。

その落差が、ふたりには――不思議と、心地よかった。




ある晩、授業のあと、シスターがふたりに小さなメモをくれた。

「ここに書いてあるもの、明日までに買ってきてみなさいな」と笑って。


紙にはこうあった。


“A loaf of bread and a bottle of milk.”


教会を出た帰り道、ブルーノが頭をかしげた。


「ローフって何だ? パンの種類か?」


「ボトル・オブ・ミルクは牛乳の瓶だよな」


「それはわかる。でもローフ……ローフって……『ろうふ』ってなんかまずそうだな」


「それは“loaf”だ、たぶん一本のパンって意味だよ」


「なんで知ってんだよ」


「昨日の授業でシスターが言ってた」


ブルーノはわざとらしくため息をついた。


「……お前、真面目に聞いてたのか?」


ルカは小さく笑った。

「当たり前だろ」


結局、ふたりで英語をぶつぶつ唱えながらパン屋に入り、紙を見せてパンと牛乳を手に入れた。

受け取った時、店の女主人が微笑んで「Good boys」と言った。


たったそれだけの会話。たったそれだけの成功。

でも、ルカの胸はふわっと軽くなった。



その夜、久しぶりにちゃんとした牛乳を飲みながら、ブルーノがぽつりとつぶやいた。


「おいルカ、なんか俺たち、ちゃんと生きてる気がしねぇか?」


ルカはパンをかじりながらうなずいた。


「うん、俺もちょっと思った」


言葉が通じる。それだけで、街の景色は変わって見えてくる。

それは良い意味でも、悪い意味でも。



ある日の教会からの帰り道、石畳を踏みながら歩いていたルカとブルーノは、港近くの角を曲がった先で足を止めた。


小さな酒場の前。

ビール瓶を片手に、二人の男たちが談笑している。

そして、ふたりの耳に――もう聞き取れてしまう英語が、はっきり届いた。


「最近の港はイタ公のガキどもばっかりだな」

「チーズにたかるネズミみてぇな連中さ。裏口からじゃんじゃん這い出てきやがる」


ブルーノの足が止まる。

ルカも無言のまま顔をしかめた。


「……今の、俺たちのことか?」


「だろうな」


ふたりは顔を見合わせ、そしてまっすぐ男たちの前へと歩き出した。


ルカは、まだたどたどしいながらもはっきりと、英語で話しかけた。


「おっさん、今の話、俺達のことか?」


笑い声が止まり、男たちが一斉にこちらを見る。

ブルーノも続けて言った。もちろん英語で。


「俺たち、英語覚えたてだからさ、間違ってたら、教えてくれよ」


一瞬、男たちは呆気に取られていた。

だが、やがてひとりが鼻で笑った。


「は? 誰に口きいてんだ、ネズミども」


ブルーノは肩をすくめて言い返す。


「舐めてっと噛みつかれるぜ」


ルカはその隣で、じっと男たちを見返す。

殴られることも覚悟していた。もちろん殴り返すことも。


だが、何も起きなかった。


酔った男たちはしばらく黙っていたが、やがてあきれたように鼻を鳴らし、誰からともなく話を戻し始めた。

もう、彼らにとってふたりは「ただのガキ」ではなく、「言葉の通じる相手」になったのかもしれない。


ルカとブルーノは、その場を離れた。


だが、引いたのではなかった。引かせたのだ。


「言葉が通じるって、こういうことなんだな」


ブルーノはそう言うと、ポケットの中の紙切れ――英語の授業で使ったノートの切れ端をくしゃっと握りしめた。


その夜の風は冷たかったが、ふたりの中には、はっきりと“火種”が残っていた。



―――霧が港を包み、街灯の灯りもぼやけて見えた。

ルカとブルーノは、濡れた石畳を黙って歩いていた。


「なあルカ、そろそろまともな場所で眠りてえな。さすがに腰が痛え」


「……俺もだ」


ニューヨークにきてからというもの、港の荷車の影や、酒場の裏手に積まれた麻袋の中で夜を過ごしていた。

風が吹けば体の芯まで冷え、雨が降れば毛布も着る物も濡れたままだった。

それでも朝になれば荷物を運び、夜になれば教会に行き朝を迎える──そんな日々。


「今夜もあの路地か? もうネズミに顔覚えられてんぞ。...挨拶されたらどうする?」


「……今日、ひとつ気になってたとこがある」


ルカの言葉に、ブルーノが横目で見る。


「どうせまた路地裏だろ?」


ルカは黙って、路地の先を指さした。


港のはずれ。倉庫の裏を回り込んだ先に、それはあった。

古びたレンガ造りの建物。窓は割れ、壁の一部は崩れかけていた。

だが、人の気配はなく、表の扉には鍵もかかっていなかった。


「ここ、昼間に見つけた。たぶん空き家だ。屋根も……抜けてない、と思う」


ブルーノが先に足を踏み入れた。床が軋み、埃が舞う。

誰もいない。けれど、風は入らず、壁は分厚く、なにより静かだった。


「……ネズミはいそうだな」


ブルーノが言うと、ルカは疲れた顔のまま、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「居たらペットにしようか」


「じゃあ名前はチーズだな」


ルカが思わず吹き出す。

「チーズを食うほうだろ。チーズ泥棒だな。」


ふたりの笑い声が、ひび割れた壁に小さく反響する。

ぼろくても、ここには屋根がある。

寒くても、笑える誰かがいる。


ルカはやがてコートを脱いで床に置いた。


「ここでいい。ここを“俺たちの家”にする」


ブルーノが少しだけ驚いた顔をした。


「家、ね……チーズの倉庫よりマシかもな」


ふたりは古毛布を敷き、拾った空き瓶を枕代わりに並べた。


屋根の隙間から星がひとつ見えた。

その夜、ルカとブルーノは“ただ生き延びるだけ”の生活から、少しだけ先へ進んだ。



―――翌日の夕方の倉庫。作業を終えたあと、サルヴァトーレが煙草に火をつけ、ふたりに声をかけた。


「おい、ガキども。英語のほうはどうだ」


「だいぶわかるようになったよ、街の連中が俺達のことネズミって言ってるくらいには」


ルカがそう答えると、ブルーノも「まあな」と肩をすくめる。


サルヴァトーレは黙ってふたりを見ていたが、ふいにため息をついた。


「気を落とすな。それに気付いたのが成長ってやつだ」


煙草の先で床を指す。


「イタリア人はな、この国じゃ“土”だ。上に家が建ち、道が通り、人が踏みつける……最下層だよ。アイルランド、ドイツ、ポーランド……みんな俺たちの上だ。先に来たってだけでな」


ふたりは黙ったまま聞いている。


「確かにドイツ人は商売に慣れてやがる。ポーランドの連中は鉱山で汗かいてきた。じゃあ俺たちは?チーズの箱にくっ付いて船で流れ着いた、泥まみれのネズミ扱いだ」



ルカがそっと口を開く。


「じゃあ……どうすりゃいいんだよ...?」


サルヴァトーレはゆっくりとふたりの顔を見た。


「道は二つだ。蹴られて黙ってるか、蹴り返す力を身につけるか」


そして指を立てる。


「言葉も、ルールも、最初から俺たちのためにはできちゃいねぇ。だからこそ――作っていかなきゃならねえ、自分の道を」


しばらく沈黙が流れた。


煙草の煙の中、ふたりの少年の顔に、うっすらと緊張と決意が浮かんでいた。


サルヴァトーレはそれを見て、小さく笑った。


「いいツラになってきたな、坊主ども。それでこそシチリアの男だ」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ