第二話 ニューヨークの影
港のざわめきが、船底にまで響いてくる。
言葉が違う。響きも違う。
それが、ルカにとって「アメリカ」の最初の感触だった。
荷下ろしが始まると、船内の空気がざわつき始めた。甲板の上では乗客たちが列を作り、移民局の係員が名前を叫んでいる。
ルカは慎重に、船腹の陰から這い出した。
潮と油の混ざった臭い。汗のにじむ額をぬぐいながら、積み荷の影からそっと港を見やる。
巨大な港湾施設――マンハッタンの波止場だった。
鉄のクレーンが軋みを上げ、荷役たちが怒鳴り合っている。
その中に、スーツを着た官吏のような男たちと、警戒心に満ちた武装した衛兵が見えた。
(あいつらに見つかれば――)
喉が鳴った。けれど、もう戻れない。
ルカは荷の流れに紛れるように、身をかがめて甲板からそっと降りた。
港には、貨物の積み下ろしに集中する作業員たちが忙しく動き回っていた。誰も、少年ひとりに気を払う余裕などない。
――そのはずだった。
「そこの坊主、何やってる!」
怒声が背後から飛んだ。
心臓が跳ねた。
振り向かず、ただ走る。
怒号が追ってくる。鉄板の床を踏む音。警棒が船体を叩く音。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
積み荷の陰をすり抜け、下船口から港の片隅へ飛び出す。
港湾の影、酒場の裏、濡れた麻袋の山に身を沈めるようにして、ルカは呼吸を整えた。
息が切れ、喉が焼けつくようだった。
でも、陸に足がついた。ついに、ルカは“アメリカ”に辿り着いたのだ。
そのとき、そばの木箱の陰から声がした。
「……お前、密航者だろ?」
驚いて振り返ると、そこには自分と同じ歳くらいの少年が居た。
鋭い目つき、古びたシャツに汚れた靴。
そしてなによりその声は、聞き慣れた響き――イタリア語だった。
ルカは一瞬だけ安心しかけ、すぐに警戒を取り戻した。
それでも、言葉が通じるだけで、ここが“完全な異国”ではないと気づかせてくれる。
「名前は?」少年は同じ言葉で続ける。
ルカは答えられなかった。
すると少年は笑った。
「名乗れねえってことは、仲間だ。ようこそ、ニューヨーク、地獄の入口へ」
ルカはその言葉の意味を、まだ知らなかった。
「俺はブルーノ、よろしくな」
「ルカ・マンチーニだ」
ふたりは顔を見合わせ、無言のまま何かが通じ合う気配を感じた。
「こいよ、寝るとこくらいはあるぜ」
そう言ってブルーノが案内したのは、廃材の積まれた路地裏だった。
段ボールや壊れた家具の間に、麻袋を押し込むようにしてブルーノは腰を下ろす。
「ここで寝るんだ。朝までじっとしてりゃ、なんとかなる」
ブルーノの声は乾いていたが、どこか頼りがいがあった。
夜が明けるとすぐに、彼は動き出した。
「来いよ、仕事あるから。朝飯はその後だ」
ルカは黙ってついていった。
歩きながらブルーノが言う。
「道に落ちてる空き瓶とか、箱とか、そういうの集めて、売るんだ。
いいか? 素早いヤツが勝つ。遅いと、何も残らねぇ」
そう言うと、ブルーノはしゃがみこんで、路地の脇に落ちていた酒瓶を手際よく拾って袋に放り込んだ。
ルカも見よう見まねでやってみる。
「これ……ほんとに金になるのか?」
「なるよ。ちょっとだけな。だから数を稼ぐんだよ。ほら、そっちにもあるぞ」
それが“仕事”だった。誰に雇われるでもない。ただ目の前の瓶を拾い集めるだけ。
それでも、何かを手にすることができる──そう信じるしかなかった。
袋がいっぱいになる頃には、ルカの肩はじんと痛んでいた。ガラス瓶がぶつかり合う音が、足元で不安定に鳴っている。
「こっちだ。ついてこいよ」
ブルーノは慣れた足取りで路地を抜けていく。石畳のすき間には水たまりが残り、空には鉛色の雲が垂れ込めていた。
やがてたどり着いたのは、港近くの小さな裏路地だった。 くたびれた鉄扉に、ペンキで「BUY BACK」とだけ書かれた建物。扉の横には、半開きの窓越しに男が煙草を咥えていた。
「おいジーノ、持ってきたぜ」
ブルーノが声をかけると、男はちらりと顔を上げた。 目元に皺のある、油にまみれた作業服姿の中年男だった。
「おう。ガラスか? ちゃんと割れてねえな?」
「いつも通りさ」
男は袋を受け取ると、その場でざっと中身を確認した。 ガラスの重さを手で計るように持ち上げると、奥の棚から二枚の硬貨を取り出してブルーノに渡した。
「今日は少ねえな。こないだもってきたやつらの方がまだマシだったぜ」
「そいつらより早く動いたんだけどな」と、ブルーノは笑ってみせる。
ルカは無言でそのやりとりを見ていた。
「ほら、お前の取り分。」
ブルーノは手にしたコインをぱちんと弾き、ひとつをルカに渡した。
「…これだけ?パンくらい買えんのか?」
「何言ってんだ、パンなんか買わねえ」
「え……じゃあ、朝飯どうするんだよ?」
ブルーノはルカの顔をちらと見て、いたずらっぽく笑った。
「盗るんだよ。決まってんだろ」
ルカは一瞬、言葉を失った。
「……嘘だろ?」
「嘘だったら腹いっぱい食えてるさ。こっちだ、ついてこい」
ブルーノは立ち上がり、袋を肩にひょいと担ぐと、迷いなく路地を抜けていった。
ルカも慌ててそのあとを追う。
通りを抜け、川沿いの石畳を歩き、古びたベーカリーの裏手へ出た。
煙突からは細く煙が立ちのぼり、店の奥からパンを焼く匂いが流れてくる。
「朝に並べるやつが、いまもう焼き上がってる。店の奴らが奥にいる間、ここに箱を出しっぱなしにするんだ」
ブルーノは低く囁き、壁際にしゃがんだ。
「お前が行け。おれが見てる」
ルカは息を呑んだ。
目の前の木箱には、まだ湯気を立てるパンが数本、無造作に入っている。
「……こんなこと、していいのかよ」
「いい悪いじゃねぇ。食うか、飢えるかだ。迷ってる暇はねぇぞ」
その言葉が、ルカの背中を押した。
彼はそっと木箱へ近づき、素早くパンを一本掴む。
その瞬間――
「こらッ! 何してやがる!」
背後から怒鳴り声が響いた。
「走れ、ルカ!!」
ブルーノの叫びに、ルカは咄嗟に駆け出した。
パンを胸に抱え、濡れた石畳を滑るように、路地を抜ける。
怒声が遠ざかる。
脇道に飛び込み、ゴミ箱の影に隠れると、荒い息が喉の奥で引っかかった。
ブルーノが後ろから追いついて、ルカの肩を叩いた。
「やるじゃねぇか。初めてにしては上出来だ」
ルカは膝に手をつきながら、ようやく答えた。
「……心臓、止まるかと思った」
「まあな。でも見ろよ――戦利品だ」
ルカの手の中、まだ温もりの残るパンが、少しだけ光って見えた。
焦げ目のついたその皮は固く、表面には指のあとが残っていた。けれど、湯気はまだわずかに立っている。
「……悪くねえだろ?焼きたてだぞ」
そう呟いて隣でブルーノが笑った。
ルカは何も言わずパンをふたつに割り半分をブルーノに手渡す。
中から、まだふんわりとした白い生地が現れる。焼きたての香りが、鼻をくすぐった。
──あったかい。
ほんの少し焦げた皮の香ばしさ。中はふわりとしていて、歯を立てると湯気が立った。
あの船の暗い片隅でかじった、冷たい干し肉や瓶詰めの豆――それとはまるで違う。
焼きたてのパンなんて、いつ以来だっただろう。
いや、そもそも……こんなにうまかったか?
「うますぎる……」
「だろ?たぶん、世界一だ」
ブルーノが肩をすくめて笑う。
ルカも、ようやく声を立てて笑った。
その笑い声は、マンハッタンの雑踏の中で小さく消えていったが――
それは、ふたりの少年がこの街で生き延びている証でもあった。
食べ終えたパンの温もりがまだ手に残っているうちに、ブルーノがぽつりと口を開いた。
「なあ、ルカ。……今日、ちょっと“いい話”がある。お前にも聞かせたい」
ルカは顔を上げた。
「空き瓶拾いよりマシか?」
「さあな。でもパンより良いもんが食える。俺が時々使ってもらってる男がいるんだ。物を運ぶだけの仕事だよ」
「危ないのか?」
「……今んところは大丈夫だ」
ブルーノに連れられて向かったのは、煉瓦造りの建物の裏路地だった。
人目を避けるような場所に、小さな木の扉があり、ブルーノは慣れた手つきでノックする。
中から扉が開き、葉巻の煙とともに、低い声が響いた。
「遅えぞブルーノ。で、そいつは?」
現れた男は年は四十を過ぎているだろうか。濃い眉、鋭い眼光。シチリア訛りの強い言葉。
それが、サルヴァトーレとの出会いだった。
「……名前は?どこからきた?」
「ルカ…。ルカ・マンチーニ......シチリアから」
男はじっとルカを見たまま、何も言わずに葉巻を指で弾いた。
「悪くない目だ。……よし、ひとつ、やらせてみるか」
扉の奥は階段になっていて、地下室がある空間にたどり着いた。
鉄の棚、粗末な椅子、埃をかぶった電球がひとつだけ天井からぶら下がっている。
サルヴァトーレは後ろを振り返らずに言った。
「いいか、ルカ。これは仕事だ。余計なことは考えなくていい」
ルカはこくりと頷いた。
男は棚から細長い木箱をひとつ引っ張り出し、ルカに手渡した。
持ってみると、ずっしりと重かった。だが中身はわからない。尋ねる勇気もない。
「これを持って、ブルーノが案内するアパートに届けろ。三階の右端の部屋。ノックは二回、間を置いてもう一回。それだけだ」
ルカはうなずく。
「中を見ようとするな。渡したら、何も言わずに帰ってこい」
言い終えると、サルヴァトーレは椅子に深く腰かけて、葉巻に再び火をつけた。
ブルーノが肩を叩く。
「大丈夫さ。たいしたことねえよ。な、ルカ?」
ルカは、うまく笑えなかった。
冷たい風の吹く街を、ふたりは歩いた。
ブルーノは何も言わなかった。ルカも、箱を抱きしめるようにして無言で歩いた。
ルカは箱をまるで心臓でも守るように抱き抱えていた。
たどり着いたのは、煤けた五階建てのアパートだった。壁に亀裂が入り、窓のいくつかは板で打ちつけられている。
その三階。階段をきしませながら登る。
「ここだ」
ブルーノが顎で示す。
ルカは、指先でそっとドアを叩いた。――コン、コン……間を置いて、コン。
中から音がした。ガチャン、とチェーンの外れる音。そして扉がわずかに開いた。
隙間から覗く男の目。濡れたように光り、まるで蛇のようにじっとルカを見つめていた。
ルカは無言で箱を差し出す。
男は箱を受け取ると、何も言わずに扉を閉めた。
任務は、それだけだった。
だが、階段を降りる頃には、ルカの背中は冷たい汗で濡れていた。
「なあ、あれって……」
「聞くな。って言われただろ」
ブルーノは先に歩きながら、ふっと息を吐くように笑った。
「でもよ、ルカ。腹いっぱいなんだって食えるぞ。新しい服だって、何回かやりゃ手が届く」
それを聞いて、ルカは黙ったまま歩き続けた。
たしかに、何も知らない。
だが、“知らないまま”でも、手にできるものはあるらしい。
その夜。
地下室の小さな灯りの下で、サルヴァトーレはルカの顔をじっと見つめた。
「ご苦労さん。」
そう言って、男は机の上から少しだけ紙幣をつまみ、ルカの胸元に押し込んだ。
「次もある。やるか?」
ルカは一瞬、息を飲んだ。だが、すぐにうなずいた。
「……やります」
その声は震えていたが、はっきりしていた。
サルヴァトーレは煙をくゆらせた。
「そうか。なら、ひとつ覚えとけ。俺たちはこの国じゃ協力しねえとやっていけねえ。頼んだぞ、マンチーニ」
その言葉が何を意味していたのか――
このときのルカには、まだ理解できなかった。