第一話 海を越える少年
港町の朝。
潮の匂いが漂う狭い路地には、すでに村人たちの活気があふれていた。
ルカはまだ眠そうな目をこすりながら、小さな弟妹の手を引いて家の外へ出る。
母のエレナは毎朝、近くの市場で少しでも安い野菜や食材を探し、限られたお金をやりくりしていた。
父が遺した網の手入れや、家の掃除、弟妹の世話もルカの重要な役目だった。
「ルカ、おばあちゃんのところへ行って、灯油をもらってきてくれないか?」
母は疲れた顔で頼んだ。
ルカはうなずき、村の小道を駆けていく。
途中、近所の漁師の老父が声をかけてくる。
「まだ若いのに、お前も大変だな」
ルカは無言で頷いたが、胸の中には焦りと無力感が渦巻いていた。
家に戻ると、弟妹たちは小さな手で食事の片付けをしながらも、少しずつ笑顔を見せる。
その姿に、ルカは少しだけ安堵を覚えた。
だが夜が来ると、家の中は静かになり、エレナは遠くを見つめるように座っていた。
言葉はなくても、そこに深い悲しみと不安が満ちていることは、ルカにもわかった。
村は静かに動いている。
けれど、ルカの心には重い影が落ちていた。
どうにかしたい、そんな思いからルカは父の古びた漁網を手にしていた。
まだ硬く、慣れないその網は、彼にとって未知の世界の象徴でもあった。
「俺が家族を養うんだ。」
そう自分に言い聞かせるものの、船がない現実がいつも心の隅に重くのしかかる。
村の漁師たちはみな、代々受け継いだ船を使い、海へと漕ぎ出していく。
だがルカにはそれができない。家にはもう、海に出られる船がなかったのだ。
そんな現実の前で、少年は無力さを痛感する。
眠りにつく前の孤独な暗闇の中、ルカは自分自身に問いかけていた。
「俺は、何もできないのか……」
それでも朝が来れば、家族のために動く。
小さな仕事や雑用を引き受け、村の人々の手伝いを少しずつ覚えていった。
「ルカはもう、俺たちの一員だ」
そんな言葉を、年配の漁師からかけられた時、胸にわずかな誇りと責任が芽生えた。
だが、それと同時に、胸の奥に別の思いも宿った。
「俺はこのままで、本当にいいのだろうか……?」
そんな問いかけが、海風に乗って彼の心に吹き込んだ。
――それから三年が過ぎた。
春の風が吹きはじめたある夕暮れ、ルカは港の縁に腰を下ろしていた。
海は穏やかで、空の茜色が波に映って揺れている。
かつて父が船を出していた場所も、今では別の漁師が使う小舟の停泊所になっていた。
ルカは十五歳になっていた。
少し背が伸び、声も低くなったが、胸の奥に沈んだままの喪失感は、消えてはいなかった。
この頃、村では「アメリカ」という言葉を耳にすることが増えていた。
広場では男たちが、耳打ちするように話す。
「ディーノの息子が船に乗ったそうだ。ニューヨークに向かったって」
「ああ、行けば仕事はあるんだろ。山を掘りゃ金が出てくるって話だ」
「本当かよ、アメリカンドリームってやつか」
漁に出る男たちは減り始め、若者の顔が村から消えていく。
空いた家には、古い戸板と埃だけが残されていた。
ルカも耳を澄ませるようになっていた。
市場で聞く話、パン屋の裏で交わされる声、酒場の扉の隙間から漏れる言葉。
誰もが貧しさから逃れる道を探していた――その先に「海の向こう」があるようだった。
ある日、かつて父と親しかった老人――カルロじいさんが、浜辺で古い網を修理しているのを見かけた。
「じいさん、アメリカに行けば……金持ちになれるのか?」
そう尋ねると、カルロは顔をしかめて言った。
「...さあな。だがな、行ってどうする? 生きて戻ってこられると思うか?」
ルカは黙った。
だが、カルロはしばらくしてぽつりと続けた。
「だが、行かなきゃ始まらんってのも、事実だ。ここに残ったって何も変わりゃしねえ。
ワシはもう年だ。だが、お前さんなら……」
ルカの胸に、熱のようなものが灯った。
その夜。
母エレナは、粗末なスープを鍋ごと食卓に置いた。
弟と妹は言葉もなく、それを静かにすくっていた。
自分たちは、このままここで、何も変わらず、ただ時間だけを飲み込まれていくのだろうか。
それからの日々、ルカの心にはある種のざわめきがずっと残っていた。
決意とは呼べなかった。けれど、何かが変わり始めている――そんな予感だけは確かにあった。
村では、またひとり、若者が姿を消した。
「行ったんだな」と誰かが言うと、周囲の人間は口をつぐんだ。
誰もが知っていた。希望はここにはなく、海の向こうにあるかもしれないということを。
だがそれを口に出すのは、裏切りにも似た罪悪感を伴った。
ある夕暮れ、ルカは港に立って、古びた掲示板を見つめていた。
張り出されたまま雨に濡れ、端がめくれかけた紙には、細い文字でこう書かれていた。
> 「ナポリを経由し、ニューヨーク行きの移民船が出る。希望者は教会まで。」
指で紙の端をそっとなぞったそのとき、背後から声がした。
「考えてるんだろ?」
声の主は、トニオだった。
ルカより二つ年上で、父の死後、何かと家の手伝いをしてくれた青年だ。
「お前がいなくなったら、寂しくなるな」
ルカは答えなかった。だが、その沈黙がすべてを物語っていた。
トニオは少し笑って、背中を軽く叩いた。
「止めないよ。行くべきなら行け。ただ忘れんな。いつか帰る場所があることを」
その日の夜、食事を終えたルカは母エレナに、はっきりと告げた。
「俺、行こうと思う。ひとりでアメリカへ」
言い終えたあと、家の中にはしばらく音がなかった。
火の消えかけた暖炉の前で、弟が眠りかけていた。妹は毛布にくるまって、ルカの顔を見ていた。
「ここで働いても、毎日食べるのがやっとだ。でも、アメリカなら、もっと大きな仕事があるって聞く。金貨だって、石ころみたいに転がってるって…」
エレナはゆっくりと立ち上がると、ルカの隣に座った。そして、やつれた手で、彼の頬に触れた。
「あなたはまだ子供なのよ。言葉も分からない異国の地で、一人でどうするのよ? 船は危険だって聞くし、病気になることだって…」
エレナの目に涙が浮かんだ。母親にとって、息子が遠い地に旅立つことは、胸が張り裂けるような思いだった。
「俺はもう、子どもじゃないよ、母さん。体だって丈夫だし、仕事だってできる。それに…」
ルカはエレナの目を見つめた。
「いつか必ず、成功して帰ってくる。そして、母さんを楽させてあげるから」
その言葉に、エレナの涙は止まらなくなった。
「そんなこと言ったって、母さんは心配で夜も眠れないよ…。ルカ、行かないでよ。ずっとここに居てほしいわ…」
エレナはルカの腕を掴み、すすり泣いた。しかし、ルカの決意は固かった。
「ごめんよ、母さん。でも、俺は行かなきゃならないんだ。この村じゃ、俺には何もできない。母さんだって、俺がここで一生、貧しいままでいるのを見たくないだろう?」
エレナはしばらくの間、ただ泣いていた。やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。その目にはまだ涙があったが、どこか諦めと、そして深い愛情が宿っていた。
「…分かったわ。あなたの決意が、それほど固いというのなら、母さんはもう何も言わないわ」
エレナはルカの手をそっと握りしめた。
「体に気をつけるのよ...。辛くなったら、いつでも帰ってきなさい。」
ルカは力強く頷いた。
「ありがとう、母さん。必ず、成功して戻ってくるから。そして、その時は、母さんを豪華な船に乗せて、世界中を旅させてあげるよ」
エレナはかすかに微笑んだ。その顔には、別れの寂しさだけでなく、息子への誇らしさが滲んでいた。息子が選んだ道が、たとえどんなに険しいものであろうとも、母はただ、彼の無事を祈り、信じるしかなかった。
やがて、母は目を閉じたまま、静かに言った。
「行きなさい。胸を張って。あなたの道を歩くのよ」
その言葉は、波よりも深く、静かに彼の背を押した。
翌日、ルカは教会の奥で、年配の神父から正規の移民船についての説明を受けていた。
神父の言葉は優しく、未来への希望を語っていた。
「新しい土地での生活は決して楽ではありませんが、希望を持って歩みましょう」
しかし、その言葉が胸に響く一方で、渡航にかかる費用の高さが、ルカの心を重くした。
この村での大人の月収、約半年分だ。
「そんな金、俺には到底用意できない」
小さな声で呟きながら、彼はそれでも諦めることができなかった。
村の広場や市場では、大人たちがひそひそと移民の話をしていた。
「金がなきゃ船には乗れないそうだ」
「それに命の保証はない。帰れなくなるかもしれない」
それでもルカの決意は固かった。
「金がない、危険だから諦める、そんな選択肢は俺にはない」
彼の瞳には、暗闇の中に射し込む光のような強い意志が宿っていた。
夜が更け、村が静まり返る中、ルカは決断を胸に秘め、密航の準備を進めていった。
港の空気は重く、夜の海は月の光を濁していた。
ルカは闇に紛れるように、足音を忍ばせて岸辺を歩いた。肩には、古びた布袋ひとつ。中には着替えと、母から貰ったパンが二つだけ入っていた。
出港を控えた貨物船は、すでに錨を上げる準備を終えていた。船員たちの足音や短い掛け声が、波の音に紛れて断続的に響く。
ルカはあらかじめ見当をつけていた船の脇へと回り込む。昼間に見つけた荷の積み込み用のハッチ。いまは閉じられていたが、鎖は緩み、かろうじて手が入る隙間があった。
深く息を吸い、潮の匂いに満ちた空気を胸に溜める。
「もう、戻れない」
ルカは自分にそう言い聞かせると、手早くハッチをこじ開け、船腹の陰へと身を滑り込ませた。中はほとんど真っ暗で、木箱や袋の影が乱雑に積まれている。身を縮め、息を潜め、闇に身体を溶け込ませる。
そのとき、船がわずかに揺れた。
錨が上がる音。甲板の上で、男たちが声を張り上げている。
船が、動き始めた。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
恐怖と興奮と、そして寂しさ。あの小さな家、弟と妹、母の顔──すべてが、波の向こうへと離れていく。
ルカは膝を抱えて小さくなったまま、目を閉じた。
ただひとつだけ、心の奥に灯るものがあった。
「アメリカンドリーム、絶対に掴んでみせる」
船が沖へ出る頃、港の灯は遠く小さな点になっていた。
その光が消えるまで、ルカは目を逸らさなかった。
―――ナポリ港に着いたのは、翌日の夜だった。
貨物船はここで正式な移民たちを乗せ、補給を済ませたのち、いよいよ大西洋を越える船旅に出る。
ルカは船底の荷物の影に身を隠していた。足音や会話が聞こえるたびに息を殺し、物音を立てぬよう注意した。
ナポリの空は霞がかかっていたが、灯りの数は村とは比べ物にならず、遠くで歌声のようなものさえ聞こえていた。
だが、ルカにその街を歩く自由はなかった。ただ、冷たい鉄の壁に背を預け、船の一部として息を潜めるだけ。
そして数時間の停泊ののち、再び錨が引き上げられた。
ルカを乗せた船は、海を渡る最後の航海へと入っていった。
大西洋の風は、地中海とは違っていた。
冷たく、湿り気を帯びていて、時に容赦なく船体を揺らした。
船底の空気は次第に悪くなり、湿った荷の匂いが鼻につく。身体の節々は痛み、飢えと疲労が少しずつ意識を削っていく。
日にちの感覚も、時間の流れも曖昧になっていく。
ときどき、船の上から陽気な歌声や笑い声が聞こえた。正規の乗客たちのものだろう。
ルカはそっと頭を上げ、すき間から一筋の光を見つめた。
「同じ船にいるのに、まるで違う世界だ」
その思いは、痛みのように胸に突き刺さる。
自分は見つかれば追い出される存在だ。名前も、身分も、行き先も証明できない。
️
島を出て船底に隠れて三日目、空腹は限界に達していた。
母が持たせてくれたパンは、すでにもうない。
水も、布に含ませて少しずつ舐めていたが、もはや湿り気すら残っていない。
飢えは、痛みよりも静かで、しかし確実に命を削っていく。
ルカは頭を壁に預け、じっと目を閉じた。だが、空腹が思考を蝕み、身体中の力が少しづつ抜けていくのを感じる。
──このままじゃ、たどり着く前に倒れる。
甲板の上で、乗員の足音が通り過ぎる。すぐ近くで木箱を運ぶ音がした。
その隙に、ルカは身を起こした。
昼と夜の境目が曖昧な船底で、慎重に、物音を立てぬよう身を這わせる。
鼻を刺す魚と塩の匂いの中、彼の目は、荷のすき間に置かれた食料箱を捉えた。
乾いたパンの塊、干し肉、瓶に詰められた豆の煮込み。
ルカの喉が鳴った。
──盗んで、見つかれば捕まる。下手をすれば海に捨てられるかもしれない。
それでも。
生きるためには、食べなければならない。
ルカは静かに腕を伸ばし、干し肉を一つ、そして瓶詰めをひとつ布に包む。
指が震えていた。恐怖ではない。罪悪感でもない。ただ、命がまだ消えていない証のようだった。
再び荷の隙間に戻ると、瓶の蓋を慎重に開けた。
ひとさじ、口に運んだ瞬間、涙がにじんだ。
塩辛くも、温かさの欠片すらないその味が、これほど「生きている」と感じさせたことはなかった。
それが、ルカが初めて他人のものを奪った瞬間だった。
そうして飢えを凌ぎ、凍てつくような寒さに凍えながら、どれほどの夜が過ぎたのか。突然甲板の上からざわめきが起こった。
「アメリカだ! 見えたぞ、自由の女神だ!」
ルカはすぐに身を起こし、慎重に小さな明かり窓から外をのぞく。
霞んだ水平線の先に、ぼんやりと女神像が見えていた。
その瞬間、喉の奥が熱くなり、全身が震えた。
ようやくたどり着いた――
ここが、自由の国アメリカ。
ルカ・マンチーニの新しい物語が、ついに動き始める。