運命の恋をしたと愛した人から捨てられたのですが
「私たちがもう会うことはない。もう終わりなんだ。悪いが婚約は無かったことにしてもらいたい。私のわがままで申し訳ないが……」
真剣な眼差しをむけたまま、婚約者であるライアンは私にそう伝えてきた。
彼の言葉を聞きながら、私は俯いたまましばらく沈黙していた。対して、自分の意思は変わらないことを体現するかのように彼は微動だにしない。
「あの、そうなってしまったのは私に悪いところがあったからでしょうか? もし、そうだとしたら直しますから……」
「いや、そうではないんだ。レイチェル、君に悪いところがあったからではない。君が悪いのではない」
彼は素早く首を横に振り、私が話している事を遮るようにしてそう言った。
その言葉は本心なのか、こちらを怒らせないための嘘なのかは不明だが、なんの救いにもならずまた私は顔を下に向けた。
再び辺りは重い空気に包まれる。
悪い所が無いのならどうして、と私の頭の中は混乱が起きていた。
仮に私たちが普段から喧嘩をしているような間柄であれば、彼から別れを告げられてもある程度納得できていたかもしれない。
しかしながら、私たちは一度も言い合いすらしたことがなかった。私とて彼を悪く思う気持ちなんてこれっぽっちもなかった。
そのため納得がいかず、何故? という気持ちしか私の中にはなかった。
けれども、彼はそれ以上何も弁明する事はせず、まるで私からの罵詈雑言を全て受け入れると言っているかのような態度を示した。
彼の動かない手元だけを見つめていた私は、もうどうすることもできないのだと悟ったあと、再び顔を上げて口を開いた。
「そう。わかりました。あなたが私にもう関心がない事は薄々気づいていました。では……」
執事が入れてくれた紅茶に手をつけることもなく、私はそっと薬指から彼が選んだ白金の指輪を外してテーブルに置くと、彼の屋敷の庭から静かに去っていった。
屋敷の門を出て馬車のステップを踏み、手摺りに手をかけた途端に涙が頬を伝う。
あたりには花をつけた木々が、歌う様な微風に揺すられてサワサワと音を立てている。
ちょうど一年前、この屋敷のあの場所で彼から愛を伝えられて、私は幸せに満ち溢れていたと言うのに。
風景、匂い、音もあの時と全く同じなのにも関わらず、私の中では何かが完璧に、まるで燃え尽くされた灰を指先で触れた時の様に、一気に崩れ去っていった。
笑いあっていた日々も、抱きしめあったあの瞬間も、彼に巡り会えて幸せと思えた喜びも、簡単に彼の言う運命の人に破り捨てられた。全ては泡沫でしかなかったのだ。
馬車の中で先ほどの話を回想すれば、二ヶ月ほど前、仕事のため出向いた遠方で彼は"運命の出会い"を果たしたらしい。
彼女を見た瞬間、彼の中には雷鳴に打たれたような衝撃が走り、同時にその相手も同じ様に感じ、気がつけばお互いに手を取り合っていたそうだ。
自分は彼女を、彼女は自分を求めていた、ようやく巡り会えた運命の相手だ、と。
ライアンによれば、信じられないかもしれないが自分はかつて誰かの生まれ変わりで、その彼女と前世でも、さらに前の前世でも深く愛し合っていたという。
「次に生まれ変わっても一緒にいよう」
手を取った彼女と見つめ合い、前世と変わらぬ彼女の瞳の色を見て、かつての彼女の名前を呼び、彼もかつての名前を呼ばれ、永遠を誓った約束をはっきりと思い出したのだと彼は私に語った。
「彼女に再会した瞬間から、もう君のことを愛する事が出来なくなってしまった……私には同時に二人を愛する事なんて出来ない。それほどまでに、どうしようもないほどに彼女に惹かれている。この気持ちは止められないんだ。どうかわかってほしい」
手を前で組み、目を閉じてさらにそう言った彼の顔は苦渋に満ちていた。
「すまない……レイチェル」
生まれ変わりなんて信じられないと大抵の人は思うだろう。
だが不思議なことに、時折この世界にはこの様な人間たちがいるのだ。
そして実際に彼らは、前世の記憶を辿り、歴史書に描かれていない古い歴史について詳細に披露することもあれば、この世界とは違う高度な文明を持った知識を披露して、人々に新しい知恵を授けることもある。
また、ある宗教によれば、この世界では誰しもが何度も魂の生まれ変わりのサイクルを実は繰り返しており、ただその過去の記憶を忘れ去っているだけに過ぎないという事を信じているそうだ。
しかし、ライアンの衝撃的な出会いがどれほど恋の熱量の強さを感じるものであったのかは私にとってはどうでも良い事。
私にとって問題なのはライアンから別れを告げられたことしかないのだから。
ちょうど適齢期を迎えていた私はこの先どうなってしまうのかという不安と、早く次の人を探さなければと妙な焦燥感に駆られていた。
そして婚約解消を申し出された事を両親に伝えると、両親はライアンについて激怒しつつも、彼の意思が固い事を知るや否や先ほどの焦燥感など不要と言った具合で、すぐに見合いの席が組まれた。
とはいえ、私の中でライアンは思っていた以上に大きい存在だったようだ。
両親や親戚がどんなに素晴らしい経歴の持ち主を探し出してきたりしても、私の心を動かすような男性は誰一人としていなかったのだ。
それは舞踏会に出席しても同じ事。
ライアンと初めて出会った時のように、踊って心が弾むようにときめくような人が現れる事は一切無かった。
ただ、不幸中の幸いと言うべきなのだろうか。
そもそも私とライアンは、同じ貴族階級であっても全く接点のない環境にいた。
それでも出会ったのは、たまたま彼が仕事のため一度限りの義理で出席した舞踏会に私がいたからだ。
だから、私たちには共通の友人もいないし、普段私が行動している中で彼に再会するという可能性は大変低かった。
この点においては私は神に大変感謝をした。
仮にもし私がライアンと運命の彼女が睦まじく過ごしている姿を見てしまったら、きっと貴族令嬢らしからぬ振る舞いをその場で引き起こして、家名に大きな傷をつけていたのだろうから。
それ故に、別れてからの彼の動向は正直気にはなっていたが、知らない方が自分がそれ以上傷つかなくてよかったではないかと、必死に言い聞かせていた。
また、女性は新しい恋を知れば古い恋を忘れると聞く。新しい人が見つかれば、彼なんてまるでいなかった事のようにきっと忘れられるはずだ、とも。
そのようにして、私は次の相手を探すことに必死になっていた。
途中、似たような経験のある友人にも会い、自分は振られた一ヶ月後に新しい婚約者と巡り会えたのだから、私にも絶対次の良い相手が見つかると励ましてもらったものの……残念ながらそのような上手い話は舞い込んで来ることはなかった。
結局、私の相手は見つからぬまま、いたずらに虚しく日々だけが過ぎていったのだ。
そうこうしているうちに、父が遠方に赴任することになった関係で、私は強制的に現在住んでいる所から離れることになった。
この地には結婚でもしない限りもう戻る事はない。すなわち本当にあの人と離れ離れになる事を意味する。
別れて一年は経過していたが、その最中一切手紙を交わすことも会う事もなかったのに、私の胸はあの時と同じような悲しみで一杯になっていた。
新たな地に向かう馬車の中では、涙している私を両親は住み慣れた地を離れるのは心細いだろうと心配してくれているが、当然彼らには本当の事は言えない。
どうすれば良い加減、彼の事を諦めることができるのだろう。
もしかしたら一生彼の事を忘れられないまま、私は人生を終える事になってしまうのだろうか?
そのように思いながら、私は目をハンカチで拭いながらぼんやりと変わりゆく風景を見つめていた。
◆◆◆
しかし、そのような心配はどうやら無用だったようだ。
厳しい冬を迎えたあとは穏やかな春がやってくる。
それは新天地で暮らし始めて数ヶ月が過ぎ、身の回りの環境もだいぶ落ち着いたくらいだっただろうか。
この地と、以前暮らしていた地は文化的な発展具合が大差ない。むしろ喜ばしかったのは蔵書が豊富な図書館があったことだ。
私は足繁く、その図書館へと向かった。
ここは珍しい事に国内だけではなく、翻訳された異国の本も多数置いている。
私はとりわけ、文化の全く異なる異国の物語が書かれた本を取り憑かれたように読み耽った。
それらを読んでいる間は、あの辛い気持ちを束の間でも忘れる事が出来るのだから。
またさらに嬉しい事に、ここの図書館にはずっと昔に夢中で読んだ事のある、異国の作家ヘレン・ド・クラフトの作品が全巻置かれていた。
以前住んでいた所はきちんと揃えられていなかったため、それに気づいた私は夢中にならないはずがなかった。
そして、その日も私は彼女の本を借りるために図書館へ行き、天井まである本棚から本を取ろうとした。
目当ての本は随分と棚の上の方にあったため、私は背筋を伸ばして取る必要があった。
だが、もしここで私が踏み台を持ってきてすんなりと本が取れていれば、この先の私の未来は変わってしまっていたのかもしれない。
けれども、そのようなことを全く考えず、私は単純に踵を上げてその本を取ろうとした。
すると、バサバサとまるで鳥が羽ばたいていくかのような音がその場でした。
本を取ろうとした際、どうやら表紙が他の本に引っかかっていたらしく、連鎖的に数冊本が落ちてしまったのだ。
私はやってしまったと思いながら本を拾い上げようとしたところ、後ろの本棚を見ていた男性がそれに気づき、大丈夫ですか? と声をかけてきた。
「大丈夫です! お騒がせして申し訳ありません」
そう返答した私は目当ての本を腕に抱え、落ちてしまった本を拾い上げようとした。
「上に戻すんですよね? いいですよ。僕がやりますよ」
声を掛けてきた背の高い男性は、手早く本を拾うとサッと本を本棚のもとの位置に戻した。
その時、一瞬だけ彼の顔を見たのだが、背が高い割には幼い顔をしており、私よりも少し年が下のように見て取れた。
「ありがとうございます」
私は全ての本を戻し終えた彼に礼を述べた。
「いえいえ。あれ、その作者……」
彼は私の手にしている本をチラリと見た。
「ヘレン・ド・クラフトって最近亡くなった人ですよね?」
軽く微笑んだあと、彼は私にそう尋ねてきた。
一方で私は彼がこの本の表紙を見ていることに気づき、急に恥ずかしさが込み上げて来て赤面をした。
なぜなら、この本の表紙は一目で超自然的な内容……つまり怪奇的な内容の絵が描かれていたからだ。
しかもこの作者は、伝説の魔物とか、魔女とか、霊的現象とかそういったものを書く事で知られている。
「すみません、急いでいるので! ……失礼します!」
少し慌てながら、私は彼に踵を返して逃げるようにその場を立ち去った。
同時に私の頭の中には、ライアンとの過去のやりとりがフラッシュバックしていた。
彼に何の本が好きかと問われ、この作者の作品がとりわけ気に入っていると答えると、ふぅんと返された後にこう言われたのだ。
「超常現象みたいなものか。私はその様な部類は生産性がないように思えてあんまり興味がないな。何の足しになるのかわからない」
思い起こせば、ライアンの家には古代の哲学者が主張していた本質主義に関する、私から見ればとても難解な本が多数置かれていた。
それに対して私の読んでいた本なんて単純で、子供染みていると思われたのかも知れない。
本を拾ってくれた男性もどのように私の事を思ったのか、大体想像がつきながら大急ぎで私は家路へついた。
それからニ、三日過ぎての事だ。
この日はこちらに来てから初めて行う見合いだった。
相手は私よりも一つ年上だとしか聞いていない。
あとは趣味とか、特技とか、そのような事がいつものプロフィールカードに記載がされていた。
果たして一体どのような人が来るのか。
色々と想像しながら、若干緊張気味にティールームにセッティングされた席についていると相手が現れた。
背が高く、少し幼い顔立ちが特徴的な男性。
だが……
私たちはお互いに、第一声を「あっ……」と言い合った。
「こ、この前はどうもお騒がせをいたしました!」
私は再び顔を赤くした。
「いいえ。それよりも、まさかまた再会するなんてびっくりしました」
笑顔で現れた相手はなんと、図書館で本を拾ってくれた人物だった。
名前はノーマンというそうだ。
紹介者に促され、互いに自己紹介をしたあとに彼はこう尋ねてきた。
「ところで、この前手にされていた本はどういう内容だったんですか?」
まさかあれについて聞かれるとは……私は返答に詰まった。
なぜなら、あの本は───
ある国々で信奉している宗教について、荒地で苦痛を体験する人間化した神に向かって、なぜ人は苦しまなければならないのかと邪悪な精霊が質問を投げかけ誘惑するという形をとり、その宗教の教えを大胆にも現代的に解釈したという話だからだ。
断っておくが、別に私はその宗教を信じているわけではない。
だが、他の作品にも言える事だが、その著者の紡ぎ出す優しさと神秘性と哲学に満ちたストーリーが不思議と私の心を掴んで離さなかったのだ。
もっと雑な言い方をすれば、登場人物たちは怪物という神から見放された異形でありつつも、どの作品もその宗教をベースとしているので、あたかも神話を読んでいるような形に近いのだが……
この国ではそもそもその宗教が馴染みがなく、むしろ怪しい類にすら思われている節がある。
また、一方で内容が教義に沿っていないので異端すぎると、その宗教を信奉している国では読む事を禁止している本も何冊かあるのだ。
そういう訳で、側からみたら暗く趣味の悪い"とにかく変な本"と捉えられる可能性の方が高いのだ。誤解も甚だしいことに。
だが、彼はその作者を知っている。
それに加えて彼にはあの時、ツノと蝙蝠のような羽と蹄が生えた怪物が描かれた本の表紙をばっちり見られてしまっているのだ。
つまり、丸裸にされた私の心をすでに彼に見られてしまっているようなものではないか。
誤魔化しても仕方ない。
私は素直に本の内容を話した。
すると意外な事に、彼は自分もこの国に伝わる摩訶不思議な生き物……例えば川に住み着き瓜が好きなイタズラ好きの妖精など、そういった民間伝承の話が好きなのだと言ってきた。
「てっきり、不気味で奇妙な本を読んでいるかと呆れられるかと思いました」
「呆れられる? いえ、別にそんな事は思いませんけど。世の中には不思議なものもある。そう思った方が面白いではありませんか。それに僕はそう言った話の表面だけではなく、裏側を知るのが好きなんです」
そのように彼と会話をして、その時は穏やかに終わった。
それから何故だかよくわからないが、私たちはちょくちょく会うようになった。
正確に言えば、彼からまた会えないかと聞かれたのだが、断る理由がさっぱりなかったのだ。
今までであれば、見合いが終わったあとに次に誘われても、どこか重たく逃げ出したくなるような気持ちになる事が多かったが、本当になぜだかわからないが彼には一切そのような気持ちが起きなかった。
さらに、何かを私がしたと報告すると、彼はすごい、さすがだ……と言ったようなこちらが喜ぶような褒めるような事は言わないかわりに、話をじっと聞いたあと、思わずこちら笑ってしまうような事ばかりを返してくるのだ。
正直、ときめいていると言えばそうではない。
でも彼といるのは楽しい。それは真実だ。
私はふと思った。
ライアンといた時はどこか背伸びをして、彼に好かれたいとそのような気持ちばかりでいたのだが、それに対してノーマンとは背伸びしない自分でいられる。
また、ライアンにどちらが良いかと意見を求めれば、自分はそもそもどちらも好きではない、わからないから答えられない、と言われる事もあったのに対して、ノーマンは好きな方を選んだら良いんじゃない? と無責任そうな答えを言う割には、私が選んだ事をきちんと覚えててくれるのだ。
もしかしたら、運命の人とはこのような人の事を指しているのだろうか?
そう思い始めた後、気がつけば私は婚約していた。
もちろん相手はノーマンだ。
私は彼にプロポーズされた時に尋ねた。
何故、私が良いのかと。
すると彼は少し照れくさそうにしながらこう言った。
「レイチェルといると面白いから」
愛してるからとか、好きだからとか言わないあたりが本当に彼らしい。
まあ、彼の事を考えると、プロポーズでそんなセリフを言う方がむしろ胡散臭く感じるのだが。
……ただ、婚約してからは会うたびに笑いながら可愛いねとか言ってくる。それもまた彼らしさではあると思うけど。
婚約指輪についても通常ならプロポーズをする時に同時に跪きながら指輪を差し出すと言うのに、彼はそのようなことはしなかった。
「だって何となくレイチェルには定番の白金色が似合わない気がして。金は他にも色があるし、ちゃんと僕は君に似合う色の指輪を贈りたい」
そう言って宝石商を家に呼び、二人で決めようと提案してきたのも本当に。
そんな私に明るい日々が戻ってきたある日のこと。
私は両親に連れられて、ある夜会に出席していた。
いつものように社交辞令的な会話を繰り返している中、私は誰かから視線を向けられているのを感じた。
グラスを手に持った私がそれに気づいて見返すと……
相手はなんとライアンだった。
思いもよらない再会に、私は身動き出来ないでいた。
すると何を思ったのか彼の方から私に近づいてきた。
「久しぶり。婚約……したんだ」
彼は私の指にはめられた、真新しいピンクゴールドの指輪を見つめながらそう言った。
「ええ」
私は咄嗟に指輪をもう片方の手で軽く隠すようにして触った。
一方、私が婚約した事を認めるとライアンは目を大きく開き、若干顔を強張らせたもののすぐに以前の落ち着き払った表情に戻した。
微かな沈黙が私たちの間に訪れる。
「そうか。それで、その、レイチェルは今幸せなのかな?」
実は彼を見かけた際、私は妙な違和感を覚えていた。
だが彼からそう問われた瞬間、その正体に気づいた。
以前の彼はもう少しがっしりして、目に力がある様に感じていたのだが、今目の前にしている彼は前ほどの勢いがないように思えるのだ。
そうだ。全体的に見てもどこか痩せている気がする。
そんな彼の様子を見て、私はなんて答えればいいのかと正直迷った。
もし彼に激しい怒りをまだ覚えていたら、思い切り明るい笑顔をしながら、私は今とても幸せと答えていたかもしれない。
だがライアンと婚約していた時は燃える様な情熱を感じていたのに対して、今はとても穏やかな気持ちなのだ。
細かい種別は違っても幸せであることには変わりないので、幸せだと答えるのが正解であるのではあろうが……
私はどうしてかわからないが、彼に対してはそのように答えてはいけないというような気がしていた。
そのため私は代わりにこう答えた。
「安らぎに満ちた日々を過ごせています」
私の答えに、彼はなんとも言えない表情をした。
また私も彼の事を本当に何とも思っていなければ、こう尋ねていたはずだった。
「そちらは幸せに過ごせていますか?」
けれども、結局私はそう尋ねる事をしなかった。
そう尋ねることで、彼から幸せだと返されることを本能的に恐ろしく感じたのだ。
卑怯な方法だったのかもしれない。
でも、自分の心を守るにはそうするしかなかった。というよりも、どうして彼からまた私は傷つけられる義理や、義務があるというのだろうか?
私は彼が何か言いたそうにしているのを気付かないふりをして、失礼しますとだけ言って彼に背を向けて立ち去った。
現在では私にはノーマンという大切な人もいるけれど、もし私自身を傷つけたライアンが幸せだということを知ったなら、気持ちに折り合いをつける自信がやはりまだなかったのだ。
◆◆◆
ライアンとの再会から少し経ったのち、私とノーマンはついに結婚をした。
彼と一緒に過ごす日々は本当に何の問題も起きず、文字通り平和な毎日でしかない。
そして今日は天気のいい休日だ。
まだ子供のいない私たちは明るい日差しが降り注ぐサンルームにおり、ノーマンはコーヒーを飲みながら読書をして、私は籐を編んだ椅子に深く腰を掛けて新聞を読んでいる。
これは特別にそうしている訳ではない。
用事がない時は、このように過ごすのが習慣になっていたのだ。
今、私は新聞に連載されている物語をちょうど読み終えたとこだった。
その物語は風変わりな男女が運命的に惹かれあって大恋愛を遂げるのだが、それでめでたしめでたしで単純に終わるのではなく、互いに嫉妬、相手への支配欲、そして依存と、二人の思いが激しくぶつかり合うものの結局離れられないという話だ。
私は次に何か他のものを読もうと紙面を読む目を移動させていると、ある記事に釘付けになった。
それはこのような記事だった。
昨日、とある侯爵夫人が開いた朗読会で、招待客である夫婦間での撲殺未遂事件が発生。
夫が女性と話し込んでいたところを、女性を夫の元婚約者だと勘違いした妻が猛烈に怒り出し、夫の事を花瓶で何度も殴りつけた。
関係者によれば、普段からこの夫婦は言い争いが絶えずによく周りが仲裁に入っていた。
夫は妻の束縛がとても強いと漏らし、妻も妻で夫からの嫉妬が酷いと周囲に伝えていたそうだ。
お互いに別れる、別れると言いつつも、結局別れることはなく、かといって喧嘩をしていない時は本当に仲が良さそうに見えた。
事件が起きる前日も、妻の方が夫の交友関係を咎めたことによる派手な喧嘩が起きており、夫を殴った後に妻は自殺を図ったが未遂に終わり、現在は一命を取り留めた両者から詳しく事情を聞いている───
「ライアン……」
動揺を隠せなかった私は思わず呟いた。
彼は珍しい苗字をしている。記事に書かれた年齢からしても間違いなく彼だろう。
「ん? 何か言った?」
急に私が呟いたため、ノーマンが優しい声でそう聞いてきた。
「う、ううん。なんでもない」
「……そう」
ノーマンは再び本の方に視線を向けた。
私に別れを告げた際、ライアンは運命の人に出会ったと抑えられない感情を吐露していたというのに。
なぜこんな事になってしまったのだろう。
運命の人と言っていたのだから、愛し愛される関係のはずではないのだろうか?
それともそんな強力に惹かれた関係でも、浮気心は出てきてしまうものなのだろうか。
私はあの夜会での出来事をふと思い出し、このような考えが頭の中を過ぎった。
ひょっとしたらあの時、彼はもしかしたら私を誘おうとしていたのだろうか?
仮にもしそうだったとしたならば、私は彼の誘いを受けていたのか?
私はその考えを追い払うかのように首を横に振った。
……ううん、そんなはずはない。そんなはずはないと信じたい。
本音を言うと絶対に心は揺れ動かないという自信はないが、それでも私にはノーマンがいる。
彼を捨ててまで、傷つけてまで昔の恋に戻るような情熱も好奇心も私は持ち合わせていない。
これだけは自信を持って言える。
併せて私はライアンは誘ってきたつもりだったと仮定した瞬間、彼に少々失望感を覚えていた。
私を傷つけてでもあちらを取ると決断をしたのは、彼の中での正義、彼らしい誠実さがあったからだと私はどこかで思っていた。
その誠実さがあったからこそ、彼の事を好きになれたというのに……
それにしても、彼らはこの先どうなるというのか。
直前に読んでいた連載小説のように、深く身も心も傷つけあったというのに、いなくなれば再びまた激しく求め合うのだろうか。
そう考えると、ライアンにとっての私は本当に一体どのような存在だったのか。
私と別れた事で、彼は一瞬でも後悔したすることがあったのだろうか。
『ええ、私なんていつもあなたたちの蚊帳の外なのよ! 私はあなたたちの世界にいつもいないの!』
先ほどまで読んでいた連載小説の中の言葉が蘇る。
これは主人公たちが、今の不仲な自分たちは子供が出来ないから、子供さえいれば再び愛しあえるだろうと言うエゴで養子を迎えたものの、結局不仲の解消にはならず却って亀裂を産み、自分は利用されていた事に気づいた養子の女の子が不満を爆発させるシーンのセリフだ。
……そう。私もあの養子と同じなのかもしれない。
彼らの激しい想いのぶつかり合いの中では、私の存在なんてライアンにとってはなんの価値もなかったのかもしれない。
傷つけた本人がこちら側に何の関心もなかったのであれば、どんなに傷ついたとこちらは思っていても全くの無意味な苦しみでしかない。
ライアンは今の妻とは本音を晒しあっているというのに、私とはそう言った事がなかったのだから、結局私とはただの表面的な関係しか築けてなかったのか。
忘れかけていた惨めな感情が嫌でも襲ってくる。
「はあ」
自分でも気づかぬうちに、私は大きくため息を漏らしていた。
「ねえ、やっぱり何か気になることでもある?」
私がそれに気づいたのはノーマンが話しかけてきたからだった。
ため息なんてどうしたの? と眉間にシワを寄せながらノーマンが再び声を掛けてきたのだ。
「あっ……ごめんなさい。なんでもないわ」
彼から目線を逸らせながらそう答えると、ノーマンは椅子から立ち上がり、私の前にしゃがみこんだ。
「そんなことないね。言いたい事があるならはっきり言ってほしい。不満がある時はお互いに溜め込まないようにしようって約束してたよね?」
彼は可愛らしい両目をぱちくりした後、軽く微笑んで私にそう尋ねた。
「あのね、本当にそうじゃないの……」
私は姿勢を正すと、彼を見つめて微笑み返し、一呼吸おいて口を開いた。
「じゃあ、いい? 変な事を聞くけど……もし運命の人に出会ったとしたら、普通はその人に一途になるものだと思わない? お互いに相思相愛に思える間柄だからそう言うんでしょう?」
「それはいわゆる運命の糸に結ばれているというやつで?」
「ええ。生まれ変わったとしても、結局また前世と同じ人を選んでしまうような、すでに恋人がいたとしても捨ててまで選びたくなってしまうような……言い換えるなら宿命というか」
私の返答にノーマンは立ち上がって、はははと腰に両手を置きながら声を上げた。
「運命の人かあ。それなら僕はそんなものは無いと思ってるよ。人生なんて選択の連続なんだから。出会い方に多少のロマンを感じたからそう言いたいだけだろ」
この答え。実に彼らしい。
「でも、もし本当に君がいうように、絶対に結ばれることが約束されている運命の人、宿命の人なんてものが存在するのなら、僕からしたとしたらある意味、呪いなんじゃないかって思うけどね」
「え? 呪いですって? なんで……」
「うん。だって逆に言えば、どんなに努力して他の人と結ばれたくても、結局はその運命の相手とやらと結ばれてしまうってことだろ? そんなの相手がまともならいいけれど、もしそうでなかったとしたら?」
思いもよらない彼の考えに、私は視線を動かした。だが彼の主張は続く。
「相手が情緒不安定だったり、悪意があったり、犯罪を犯すような人間だったら? 反対に自分がそっち側の人間で、自分はひたすら相手を求めているのに相手は自分から必死に逃げようとしていたら? それで相手を諦めたくても諦められないってそれも辛くない?」
「確かにそれは物凄く嫌かも……」
「だろ? しかも、生まれ変わっても毎回、毎回同じような目にあう。それこそ、自分がどんなに頑張っても、抵抗しても運命の歯車ってやつに引き込まれるんだ。そう考えるとせっかく生まれ変わったのに虚しくなってこない? ある意味で人生に何も変化がないのだから。運命の相手がいたところで、幸せになる保証までついてくるとは僕は思わないな」
「……」
私は彼になんと返して良いか戸惑い黙った。
もしかしたらライアンは先ほどまで読んでいた物語とは異なり、定められた運命から抜け出そうとしていたのだろうか。
私に声を掛けてきた時は、私を誘おうとしたのではなく助けを求めようとしていた、というのは突飛すぎる考えなのだろうか。
本人に直接聞いた訳でもないので、果たして真相は全くどうなのかはわからない。
それによく考えてみれば、彼の結婚相手が運命の人だったのか、そうではなかったのかすら私は知らない……
「まあ、でも運命の出会いではなくても、夫婦になったからと言えど、ときめきは必要だと思うよ。どう? 今夜はオペラでも観に行かない?」
そんなロマンチックな質問が出るなんて。
もしかして今の自分たちには、そう言った刺激が少し足りないのかと思ってる?
なら気がつかなくてごめん。
愛してるよ、ダーリン。
ノーマンは笑みを浮かべながらそう言って、私の手の甲に軽くキスをすると、今夜のためのドレスを選ぼうと私をサンルームから連れ出した。
腕を組みながら廊下を歩いている間、ノーマンは私に他愛のない話を話し続けている。
ライアンと婚約していた時は彼は無口な方だったので、こんなにも男の人がおしゃべりだったなんてとノーマンと交際を始めた頃はとても驚いた。
でも、そんな一生懸命話している彼のことが私は可愛らしく感じる。
そして彼の横顔を見つめながら私はふと思った。
もし、ライアンと出会う事がなくノーマンと出会っていたら、彼の事を選んでいたのだろうかと。
……いや、それは愚問だ。
ライアンに傷つけられた事があろうがなかろうが、私はノーマンの思慮深さを尊敬し、優しさを好きになっていたと思う。
「僕の顔に何かついてる?」
ノーマンは急に立ち止まるとそう尋ねてきた。
「え? そんな事ないけど。どうして?」
「だって僕の事を見てずっと笑ってるから」
「あら、だってそれは……ううん、内緒」
「何それ」
「いいの。内緒!」
教えてくれてもいいのに。まあいいか。ところで……とノーマンは語りながらまた歩き出したので、私は少し彼に体を預けるようにして歩調を合わせた。
確かに結果的にはライアンに捨てられたから、私とノーマンは出会うことになった。
私の過去を知る人からは、あの経験はきっと神が道を誤っているから軌道修正したのだと励ましてくれたりもした。
でも、私はライアンに捨ててくれてありがとうだなんて感謝はしたくない。
だって今ある私の幸せは……
運命でも必然でもなく、ノーマンと結ばれたいと私自身で決めたことなのだから。