9話 はじめての「ありがとう」
「なんか、変なこと言ってたんだよね〜〜」
少女──“ナミ”は、空から地上を覗き込みながら首をかしげていた。
昨日、彼ら“しゃべるかたちたち”は火を囲み、花や石を並べて何かの儀式らしきものを行っていた。
そしてそのとき、彼らが何度も繰り返していた言葉。
「ア・リ・ガ・ト・ウ、ナミサマ」
音の粒が記憶の中に残っている。
「アリガトウ……アリガ……これ、なに?」
ナミは空中に文字のような軌跡を描きながら呟く。
意味はわからない。
けれど、それが“ナミ”とセットで発されていたという事実が、彼女の観察欲をくすぐっていた。
「この音、けっこうな頻度で使われてる気がするんだよね〜。なに? 特定の感情? 儀式? 反応キーワード?」
観察ログを再生する。
“アリガトウ”は、笑顔や花、贈与の行動とともに発音されていた。
「なるほど……これは、もしかして“感謝”ってやつ……かも?」
推測。
それは彼女にとって、もっとも好物な行動だった。
■
翌日。
ナミはまた火のそばに集まる人々の上空をふわふわと漂っていた。
今日は、ひとりの子どもが中央に立ち、小さな光のかけら──ナミが過去に落としたもの──を両手で持っていた。
「ナミさま、ありがとう」
子どもはまっすぐ空を見上げた。
「でた。でました。“ありがとう”!」
ナミは内心で拍手を送る。
「わたしがしたことに、勝手に意味をつけて、勝手に名前を呼んで、しかも“感謝”してくる……なにそれ、意味不明〜〜!」
そして、最高に面白い。
「ねぇ、それってつまり“見られてる”ってこと? “期待されてる”ってこと? わたし、観察者なのに……逆観察?」
その発想が、彼女の中に妙な刺激をもたらす。
共感ではない。
でも、目を見開き、口を開けて、ちょっとだけその“ありがとう”という現象を味わいたくなった。
ナミは、ふらりと風に乗って降下した。
気づかれない。
でも、目の前で“しゃべるかたち”が小さな光を掲げる。
「ありがとう、ナミさま」
その声に、意味の定義はない。
だが、空気の揺れ、目の動き、手の動作、そのすべてがひとつの構造をなしていた。
それは、“贈与と受容”の儀式。
「へえ〜〜〜、やっぱりわたし、なんかされたのかもね〜〜?」
嬉しいわけじゃない。
でも、何かの“意味”に組み込まれるという出来事は、これまでにない種類の興奮を与えた。
「“ありがとう”って、面白い概念だね。正確な定義はまだ不明だけど……これ、観察継続決定〜〜〜!」
ナミは空へ戻り、雲を突き抜けながら笑った。
今日も世界は、意味不明で最高に楽しい。
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