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第80章:松月庵の晩餐

午後六時三十分、黒いセダンが周天明の前に停まった。


運転席から蛭田が降りてきて、後部座席のドアを開けた。


「周さん、お迎えに上がりました」蛭田は丁寧に頭を下げた。「松月庵までお送りいたします」


「すまない」周天明は車に乗り込んだ。


車が静かに走り出す。夕暮れの東京の街が窓の外を流れていく。


「松月庵は目黒区にございます」蛭田が運転しながら説明した。「東京でも指折りの懐石料理店で、普段は一見さんお断りです」


「蛭田さん」周天明が口を開いた。「今夜の会食について、教えてほしいことがある」


「はい」


「神代局長の他に、誰が出席するんだ?」


蛭田は少し間を置いてから答えた。


「今夜は東坂家の家族会食も兼ねております。東坂宗右衛門様——神代局長の外祖父にあたる方が主催されます」


「東坂家...」


「はい。東坂家は明治時代から続く名家で、不動産、海運、貿易など幅広い事業を手がけています」蛭田は続けた。「神代局長の母上が東坂家の出身でした。局長の亡くなられた奥様も、実は東坂家の遠縁にあたる方だったのです」


「つまり、神代局長は東坂家と深い繋がりがあるということか」


「その通りです。局長は母上も奥様も亡くされているため、東坂家との関係を維持するため、定期的にこうした家族会食に参加されています」


車は渋谷を抜け、目黒通りを進んだ。やがて大通りから外れ、静かな住宅街に入っていく。


古い木々が並ぶ通り。瀟洒な邸宅が立ち並び、街灯の明かりが石畳を照らしている。都心からそれほど離れていないはずなのに、まるで別世界のような静けさだった。


「蛭田さん、あなたは警視庁の方ではないんですね」周天明が聞いた。


蛭田は少し笑った。


「よくお気づきで。私は神代局長に仕える者ですが、警察組織の人間ではありません。私は...まあ、表の世界と裏の世界の橋渡しをする役目を担っております」


「極道の若頭、ということか」


「ええ」蛭田は率直に認めた。「私は元々、ある組織の若頭でした。しかし二十年前、神代局長に命を救われまして、それ以来、局長のために働いております」


周天明は頷いた。だから蛭田は、極道の世界にも警察の世界にも通じているのだ。


車はさらに奥へと進み、一本の狭い路地の前で停まった。


「着きました」蛭田は車を降りて、ドアを開けた。


周天明が降りると、目の前には高い石垣に囲まれた和風の門構えが現れた。


重厚な木製の門。両側には手入れの行き届いた松の木が植えられ、門柱には何の看板もない。ただ一つ、古びた石灯籠が静かに灯りを灯しているだけだった。


「こちらです」蛭田が先導し、門をくぐった。


門の内側は、想像以上に広い敷地が広がっていた。


石畳の小道が奥へと続き、両側には見事な日本庭園が配されている。竹林がそよぎ、小川がせせらぎ、遠くから風鈴の音が聞こえてくる。


「松月庵は大正十二年の創業です」蛭田が歩きながら説明した。「当時の貴族や政財界の重鎮たちが、静かに会食できる場所として作られました。戦火を逃れた数少ない料亭の一つでもあります」


小道を進むと、庭の奥に数寄屋造りの建物が見えてきた。


黒い瓦屋根、白い漆喰の壁。平屋建ての建物は横に長く伸び、周囲の庭園と見事に調和している。建物の前には池があり、錦鯉が静かに泳いでいた。


池のほとりには飛び石が配され、灯籠が水面を照らしている。池の中央には小さな島があり、一本の紅葉が植えられていた。夕暮れの光の中で、その葉が赤く染まって見える。


「見事な庭ですね」周天明は思わず呟いた。


「この庭園は昭和初期の名庭師、北村捨次郎の手によるものです」蛭田が言った。「『京都の風情を東京に移す』という理念で造られたと聞いています」


二人は飛び石を渡り、玄関へと向かった。


玄関の前には、和服姿の女将が待っていた。五十代と思われる上品な女性で、深緑色の訪問着を着て、白い足袋を履いている。


「周天明様でいらっしゃいますね」女将は深々と頭を下げた。「お待ちしておりました。神代様はすでにお着きになっております。どうぞ、こちらへ」


「蛭田さん、ありがとうございました」周天明は蛭田に向き直った。


「いえ。周さん、今夜は東坂家の当主がおられます。礼を失しないよう、お気をつけください」蛭田は真面目な顔で言った。「東坂宗右衛門様は、神代局長でさえ敬意を払う方です」


「分かりました」


蛭田は一礼して、車の方へ戻っていった。


周天明は女将に導かれて玄関に入った。


玄関で靴を脱ぐと、女将が下駄箱の鍵を渡してくれた。内部は広々としていて、磨き上げられた黒檀の床が鈍く光っている。


「本日は『月光の間』にご案内いたします」女将が言った。


長い廊下が奥へと続いていた。廊下の片側は障子で仕切られた個室が並び、もう片側は中庭に面している。障子越しに、中庭の竹林が揺れる影が見える。


廊下の壁には掛け軸が飾られていた。墨で描かれた山水画。その横には、季節の花が活けられた花瓶が置かれている。今は菊と竜胆の生け花だった。


足を進めるたびに、床がかすかに軋む音がする。古い建物特有の音だが、不快ではない。むしろ、長い歴史を持つ建物の風格を感じさせる。


廊下の途中で、前方から若い声が聞こえてきた。


「お兄様、聞きましたか?五叔父様がまた...」


「静かに、千早。廊下で大きな声を出すものではない」


二人の若者が廊下の向こうから歩いてくる。十六七歳の美少年と、十五六歳の少女。二人とも育ちの良さが一目で分かる容姿と物腰だった。


彼らは周天明とすれ違う時、一瞬目を留めたが、何も言わずに過ぎていった。


女将は立ち止まらず、さらに奥へと進んだ。


廊下の突き当たり、最も奥まった場所に、大きな障子があった。他の部屋よりも明らかに格式が高い造りだ。


「こちらでございます」女将が障子の前で立ち止まり、振り返った。


周天明は深く息を吸い込んだ。


女将が静かに障子を開ける。


「失礼いたします。周天明様がお見えになりました」


周天明は部屋に入った。


そして、目の前の光景を見た。


広い和室だった。十畳はある畳の部屋。中央には長い座卓が置かれ、周りにはすでに十数人が座っている。


部屋の奥は全面が障子になっていて、その向こうには庭園が広がっているのが見える。庭園の灯籠が灯され、池の水面に映り込んでいる。


上座には、威厳に満ちた老人が座っていた。七十代と思われる。深灰色の和服を着て、背筋はまっすぐ、鋭い眼光を持つ。


これが東坂宗右衛門——神代武臣の外祖父だ。


その右側には、神代武臣が座っている。深色の和服を着て、表情は穏やかだが、その存在感は部屋を圧している。


そして——


「天明君...」


神代咲が、淡いピンク色の振袖姿で、父の隣に正座していた。


彼女の目が、周天明を見て輝いた。


「咲、礼儀に気をつけなさい」東坂宗右衛門が静かに言った。


神代咲は慌てて視線を下に落とし、姿勢を正した。


「周君、お座りなさい」東坂宗右衛門が口を開いた。声は低く、しかし部屋中に響く。


周天明は座卓の前に正座し、深く頭を下げた。


「東坂様、初めてお目にかかります。周天明と申します。本日はこのような席にお招きいただき、光栄に存じます」


東坂宗右衛門は静かに頷いた。


「神代から話は聞いている。我が孫娘を救ってくれたそうだな」


「いえ、当然のことをしただけです」


「謙遜はよい」東坂宗右衛門の目が、周天明を見据えた。「今夜は、ゆっくり話を聞かせてもらおう」


彼は手を上げて合図した。


「料理を運ばせなさい」


女将が下がり、すぐに数人の仲居が料理を運んできた。


晩餐が、始まろうとしていた。


周天明は神代咲の隣の席に案内された。


座卓の周りには、すでに多くの人が座っている。


東坂宗右衛門の左側には、先ほど廊下ですれ違った美少年と少女が座っていた。二人とも行儀よく正座し、背筋を伸ばしている。


その隣には、四十代と思われる儒雅な中年男性が座っていた。深灰色の和服を着て、丁寧に手入れされた髭を蓄えている。表情は厳粛で、姿勢は端正だ。


さらにその隣には、三十代の優雅な女性。深藍色の和服を着て、穏やかな微笑みを浮かべている。


二十代の若い男女が二人。東坂家の子孫と思われる。


そして、淡い金色の和服を着た女性。二十二三歳くらいで、珍しい天然の栗色の巻き髪を持ち、狐のような目で周囲を興味深げに観察している。


他にも数名の年配の男女が座っている。皆、東坂家の重要な一族だろう。


周天明を含めて、座卓には十四五人が座っていた。


「では、始めましょう」東坂宗右衛門が背後の執事に合図した。


執事が恭しく下がり、すぐに和服姿の仲居たちが料理を運んできた。


まず運ばれてきたのは、先付けだった。


白い小皿に盛られた季節の前菜。銀杏、柿、栗の甘露煮。繊細な細工が施された一品だ。


続いて椀物。松茸の土瓶蒸し。蓋を開けると、芳醇な香りが立ち上る。


向付。新鮮な刺身の盛り合わせ。鯛、鮪、平目。どれも透き通るような美しさだ。


料理が次々と運ばれる中、東坂宗右衛門が口を開いた。


「隆彦」彼は左側に座る儒雅な中年男性を見た。「例の北海道の件、三菱との話はどうなっている?」


東坂隆彦と呼ばれた男性が、恭しく答えた。


「はい、父上。三菱商事との交渉は順調に進んでおります。札幌の大型商業複合施設開発プロジェクト、総投資額は五十億円を見込んでおります」


「五十億か」東坂宗右衛門は箸を置いた。「我が家への出資要請は?」


「三十パーセントの出資を求められております。約十五億円です」


「三菱がわざわざ我々に出資を求めるとは」東坂宗右衛門の目が鋭くなった。「資金が足りないわけではあるまい。彼らが求めているのは、我々の北海道での人脈だろう?」


「その通りかと存じます」東坂隆彦は頷いた。「札幌市との交渉、建設許可の取得など、地元での調整が必要となります」


「ふむ」東坂宗右衛門は少し考えてから言った。「三十パーセントでは安すぎる。四十パーセントを要求しろ。それが飲めないなら、この話は断れ」


「承知いたしました」


周天明は黙って料理に箸をつけながら、この会話を聞いていた。


これは単なる家族の食事会ではない。東坂家の内部会議でもあるのだ。


家族の者たちが、それぞれの担当する事業について報告し、当主の判断を仰ぐ。


東坂宗右衛門は次に、別の年配の男性に視線を向けた。


「次郎、横浜港の倉庫業はどうだ?」


「はい、父上」次郎と呼ばれた男性が答えた。「貨物取扱量は増加しており、現在の設備では手狭になってきております。新規倉庫の建設を検討しております」


「費用は?」


「約十億円を見込んでおります」


東坂宗右衛門は眉をひそめた。「札幌のプロジェクトと合わせれば、二十五億円か。今、家の流動資金はどれほどある?」


眼鏡をかけた中年男性が答えた。「当主、現在の流動資金は約三十億円です。両方に投資すれば、資金繰りが厳しくなります」


「では、倉庫建設は来年に延期しろ」東坂宗右衛門は即断した。「札幌のプロジェクトを優先する」


「承知いたしました」


周天明は、この老人の判断力の鋭さに内心驚いていた。


七十を過ぎているにもかかわらず、数十億円規模の投資判断を即座に下す。しかも、その判断には迷いがない。


これが、名家の当主というものか。


「咲」東坂宗右衛門が突然、孫娘に声をかけた。


神代咲がびくりと体を震わせた。


「はい、祖父様」


「お前、学校はどうだ。成績は落ちていないだろうな」


「はい、前回の試験でも学年三位でした」


「三位か」東坂宗右衛門は少し眉を上げた。「一位ではないのか」


「申し訳ございません...」神代咲は俯いた。


「まあ、お前は女だからな。勉強よりも、良き妻になる準備が大切だ」


周天明は傍で静かに聞きながら、この家族会合の性質を徐々に理解していった。


表面上は両家の親睦会だが、実際には東坂家内部の商業会議でもあるのだ。


これらの家族成員は皆、それぞれが担当する事業について当主に報告し、当主の決定を待っている。


そして神代武臣は警視庁のナンバーツーであるにもかかわらず、この場では静かに座り、時折頷くだけで、口を挟むことはない。


明らかに、東坂家の前では、神代武臣でさえ一定の謙遜を保たなければならないのだ。ちょうどその時、障子が「バッ」という音を立てて開かれた。



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