第65章 新しい一日
朝食後、神代武臣が天明と神代咲を車で学校まで送ることになった。
「本当にいいんですか?」
天明は恐縮した。
「構わん。どうせ私も警視庁に行く」
神代武臣は淡々と言った。
「それに、君たちが無事に学校に着くのを確認したい」
「……ありがとうございます」
車に乗り込む。
天明は後部座席に座った。
神代咲も隣に座る。
車内に沈黙が流れた。
昨夜のことがあってから、二人の間には微妙な空気が漂っていた。
天明は窓の外を見ていた。
神代咲も反対側の窓を見ていた。
時折、二人の視線がバックミラー越しに交わる。
そのたびに、神代咲はさっと目を逸らした。
運転席の神代武臣は何も言わなかったが、その口元がわずかに緩んでいた。
やがて、車は学校に着いた。
「着いたぞ」
神代武臣が言った。
「ありがとうございました」
天明と神代咲は車を降りた。
神代武臣は窓を開けて言った。
「周くん」
「はい」
「何かあったら、すぐに連絡しろ」
神代武臣は名刺を差し出した。
「私の直通番号だ」
「……ありがとうございます」
天明は名刺を受け取った。
神代武臣は頷いて、車を発進させた。
天明と神代咲は、学校の門をくぐった。
朝のHR前で、まだ生徒はまばらだ。
「昨日のこと、誰にも言わないでよね」
神代咲が小声で言った。
「どのこと?」
「……全部よ」
神代咲は顔を赤くして、足早に歩き出した。
天明は苦笑しながら後を追った。
しかし――
校門を入ったところで、異変が起きた。
ダッダッダッダッ――
誰かが走ってくる音が聞こえた。
「周くん!」
声がした。
天明は振り返る間もなく――
ドンッ!
誰かが正面から飛びついてきた。
「うわっ!」
天明は衝撃で後ろによろめいた。
しかしそれ以上に――
息ができない。
顔が何かに埋もれている。
柔らかい。
とても柔らかい。
そして――
いい匂いがする。
シャンプーの香りだろうか。
いや、それよりも問題なのは――
本当に息ができない。
天明は相手を押し返そうとした。
手を伸ばす。
そして触れた。
柔らかい。
弾力がある。
明らかに肩ではない感触だった。
天明の脳内で警報が鳴り響いた。
これは――
まずい。
非常にまずい。
「I... can't breathe!」
なぜか英語が出てきた。
天明は慌てて手を引っ込め、相手の肩を掴んで押し離した。
今度こそ肩だ。
ようやく視界が開けた。
そこには――
金髪の美少女が立っていた。
南条秋奈だ。
肩まで伸びた綺麗な金髪。
潤んだ青い瞳。
整った顔立ち。
そして――
制服のブラウスを押し上げる、豊かな双丘。
さっき天明の顔を埋めていたのは――
そして天明の手が触れたのも――
天明は自分の右手を見た。
まだ感触が残っている。
柔らかくて、弾力があって――
「…………」
彼は何事もなかったかのように、手を下ろした。
「南条……」
「良かった……本当に良かった……」
南条は涙声で呟いた。
その目には、本当に涙が浮かんでいた。
「昨日、あなたと一緒にいた時に、神代さんが連れ去られて……」
「私、どうしていいか分からなくて……」
「それで警察に連絡して……」
「でもあなたたちがどうなったのか、ずっと心配で……」
南条は言葉を続けた。
「夜、ニュースで倉庫での事件を見て……」
「まさかと思ったけど……」
「連絡も取れなくて……」
「本当に、本当に心配したんだから……」
そう言って、南条はまた天明に近づいてきた。
「ちょ、ちょっと待て」
天明は一歩後ずさった。
「気持ちは分かったから、少し落ち着け」
「でも……」
南条の目がまた潤んだ。
その姿は、まるで捨てられた子犬のようだった。
傍では、神代咲が腕を組んで見ていた。
その目は冷たかった。
「南条さん」
神代咲が静かに言った。
「朝から往来で抱きつくのは、どうかと思いますけど」
「あ……」
南条ははっとして、周りを見た。
いつの間にか、周囲の生徒たちが足を止めて見ていた。
ひそひそと話し声が聞こえる。
「あれ、転校生じゃない?」
「南条さんに抱きつかれてる……」
「いいなぁ……」
「でも関係で二人で登校してたよね?」
「修羅場?」
「修羅場だ」
南条の顔が真っ赤になった。
「ご、ごめんなさい!」
彼女は慌てて天明から離れた。
「つい……心配で……」
「大丈夫だ」
天明は周囲の視線を感じながら言った。
「心配してくれてありがとう」
「本当に関係で良かった……」
南条はまた涙ぐんだ。
「昨日、一緒にいたのに、私は何もできなくて……」
「神代さんが連れ去られるのを見ているだけで……」
「あなたが一人で追いかけて行って……」
「私、本当に関係で……」
「そんなことない」
天明は首を横に振った。
「君が警察に連絡してくれたおかげで助かった」
「でも……」
「それに、普通の人が極道に立ち向かう必要はない。危険なだけだ」
天明は真剣に言った。
「でも、あなたは一人で……」
南条は不思議そうに天明を見た。
「あなたも普通の人でしょう?なのに、どうして……」
「俺は……」
天明は言葉に詰まった。
「……ちょっと特殊なんだ」
「特殊?」
南条は首を傾げた。
その仕草が妙に可愛かった。
「まあ、色々あって……」
天明は曖昧に答えた。
神代咲が横から口を挟んだ。
「南条さん、そろそろ教室に行きませんか?」
その声には明らかな棘があった。
「HRに遅れますよ」
「あ、そうね……」
南条は頷いた。
そして天明を見た。
「周くん」
「ん?」
「お昼、一緒に食べない?」
「は?」
神代咲が声を上げた。
「昨日のお礼がしたいの」
南条は微笑んだ。
「お弁当、作ってきたから」
「弁当?」
「うん。周くんの分も」
天明は驚いた。
昨日の今日で、もう弁当を作ってきたのか。
「あの、俺は別に何も……」
「だめ?」
南条は上目遣いで見てきた。
その目は潤んでいて、まるで子犬のようだった。
これは――
断れない。
「……分かった」
天明は頷いた。
南条の顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、お昼に屋上で待ってるね!」
そう言って、彼女は小走りで校舎に向かった。
その後ろ姿を見送りながら、天明は隣に視線を感じた。
神代咲が、無言で天明を見ていた。
その目は――
とても冷たかった。
「……何だ?」
「別に」
神代咲はそっぽを向いた。
「あんたの昼食なんて、私には関係ないし」
「そうか」
「そうよ」
神代咲は足早に歩き出した。
天明は首を傾げた。
何か怒らせただろうか。
女心は分からない。
前世で千年生きても、分からないものは分からない。
天明はため息をついて、神代咲の後を追った。
周囲では、まだ生徒たちがひそひそと話していた。
「やっぱり修羅場だ」
「転校生、やるなぁ」
「二日目で二股とか」
「最低だな」
「でも関係……」
天明は聞こえないふりをして、校舎に入った。
新しい一日が始まった。
波乱の予感しかしなかった。
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