第64章 夜桜
天明は客室のベッドに横たわり、何度も寝返りを打っていた。
頭の中では、さっきの浴室での光景が何度も再生されていた。
白いバスタオル。濡れた黒髪。紅潮した肌。
「…………」
彼はがばっと起き上がり、自分の顔を強く叩いた。
ダメだ、このままでは一晩中眠れそうにない。
天明は起き上がって浴衣を羽織り、そっと部屋のドアを開けた。
廊下は静かで、月明かりだけが窓から差し込み、床に淡い影を落としていた。
彼はぶらぶらと庭に面した縁側まで歩き、その端にあぐらをかいて座った。
神代家の庭には、大きな桜の木があった。
ピンクの花びらが月光の下で銀白色の輝きを放ち、夜風が吹くと花びらがひらひらと舞い落ち、現実離れした美しさだった。
この桜の木を見るだけで、神代家の先祖がかつて栄えていたことがわかる。
天明はこの世界に転生してから、ずっとこちらの世界に適応するのに忙しく、こういった景色をゆっくり楽しむ暇もなかった。
日本文化には、人生の四大楽事がある。春は夜桜を観、夏は星空を望み、秋は満月を賞で、冬は初雪に会う。
今、彼は一つ目を達成したわけだ。
この情景に、美酒があればもっと良かっただろう。
天明は桜を見つめた。夜の色がピンクの花びらに冷たい色調を纏わせ、また違った趣があった。
この瞬間、彼はようやく自分が日本にいるという実感が湧いてきた。
彼が見入っていると、突然庭から奇妙な音が聞こえてきた。
シュッ——シュッ——シュッ——
剣が空気を切る音だった。
天明は立ち上がり、音のする方を見た。
桜の木の下で、一つの影が剣を振っていた。
すっきりとした黒い短髪、凛とした姿勢、鋭い剣捌き。
神代咲だった。
彼女は白い剣道着に着替え、木刀を手に、真剣に稽古をしていた。
剣を振るたびに、花びらが舞い上がる。
月光の下、桜吹雪の中、少女の姿は一枚の絵のように美しかった。
天明は思わず見とれてしまった。
どれくらい経っただろうか、神代咲が手を止めた。
彼女は何かに気づいたようで、縁側の方を振り返った。
二人の視線が月光の中で交わった。
「…………」
「…………」
また気まずい沈黙。
神代咲の顔がまた赤くなった。「な、なんであんたがここにいるの!」
「眠れなくて、散歩に出た」天明はあっさり答え、縁側を降りて桜の木に向かって歩いた。
「あ、あの……さっきのこと……」
「何も起きてないって言ったのはそっちだろ?」
「…………」
神代咲は口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
天明は桜の木の下に立ち、彼女の手にある木刀を見た。「こんな時間にまだ稽古?」
「眠れなくて」神代咲は小声で言った。
どうやらお互い眠れなかったらしい。
天明は思わず笑った。
「何笑ってるの!」神代咲は睨みつけたが、さっきほど険しい口調ではなかった。
「何でもない」天明は笑いを収め、真剣に聞いた。「君の剣道は神代流?」
神代咲は頷いた。「うん、家伝の」
「さっき稽古を見ていて、いつもと少し違う感じがした」
神代咲は一瞬驚いた表情を見せ、すぐに目を輝かせた。
「わかった?」彼女の声には興奮が混じっていた。「今日……なんて言うか、剣道について新しい悟りを得た気がする」
「どんな悟り?」
神代咲は少し黙り、言葉を整理しているようだった。
「今日、あいつらに捕まった時、ずっと逃げる方法を考えてた」彼女はゆっくりと話し始めた。「でも考えれば考えるほど焦って、頭の中が雑念だらけで、全然動けなかった」
彼女は一度言葉を切り、続けた。「そしたらあんたが現れて、あいつらを引きつけてくれた。私がその隙に逃げ出そうとした時、頭の中が急に真っ白になったの」
「真っ白?」
「うん」神代咲は頷いた。「その一瞬、何も考えてなくて、ただ本能的に地面に落ちてた木の棒を拾って、目の前に立ちはだかってた奴に向かって振り下ろした」
彼女の目に不思議な光が宿った。「あの一撃……自分でもどうやったかわからない。無駄な動きも雑念もなく、ただ……一剣」
天明の心が動いた。
無我の剣。
これは剣道における至高の境地の一つだ。
すべての雑念を捨て、勝ち負けや得失に囚われず、無心無我の状態に達する。この状態で振るわれた剣は、普段の何倍もの威力を発揮することが多い。
神代咲は生死の危機の中で、この境地の入り口に触れたのだ。
「君が悟ったのは『無我の剣』だ」天明は言った。
「無我の剣?」
「ああ。雑念を捨て、一心不乱に、人と剣が一つになる」天明は説明した。「実戦の中でこの境地に触れられるとは、君の才能は確かに悪くない」
神代咲はその言葉を聞いて、笑顔を見せた。
それは今夜初めて、彼女が天明に見せた心からの笑顔だった。
しかしすぐに、彼女の表情は真剣になった。
「だから、思ったんだけど……」彼女は木刀を握りしめた。「もしこの状態を安定させられたら、もしかしたら……」
「もしかしたら?」
神代咲は深呼吸をし、目には決意が満ちていた。
「今年の全国大会、必ず剣道部を出場させる」
天明は少し眉を上げた。
「うちの学校の剣道部は、三年連続で地区大会止まりなの」神代咲は言った。「多くの人が全国大会なんて無理だって言ってる。でも……」
彼女は顔を上げ、天明の目を真っ直ぐ見た。「私は信じない」
天明は彼女の決意に満ちた目を見て、少し黙ってから頷いた。
「なら、やればいい」
「……え?」
「君は無我の剣を悟った。その資格はある」天明は言った。「あとは練習を重ねて、その状態を安定させることだ」
神代咲は一瞬驚いた表情を見せ、すぐに笑った。「簡単に言うね」
「確かに簡単じゃない」天明は言った。「でも今日一度触れられたなら、二度目も三度目も触れられる。境地というのは、一歩一歩歩いていくものだ」
神代咲は彼を見つめ、その目に異様な光が走った。
「あんたは?」彼女は聞いた。「あんたの武道の境地は何?」
天明は少し考えて言った。「衆生済度かな」
「……え?」
神代咲はきょとんとした。
天明は笑って、説明しなかった。
彼は桜の木の下であぐらをかいて座り、目を閉じた。
「何してるの?」神代咲は聞いた。
「入定」
「入定?」
「稽古を続けてくれ。俺のことは気にしなくていい」
神代咲は目を閉じて座る天明を見て、少し迷ってから、再び木刀を構えた。
シュッ——シュッ——シュッ——
剣が空気を切る音が再び響いた。
天明はその剣音の中で、次第に瞑想状態に入っていった。
彼の意識は識海に沈み、体内の真気を周天に巡らせ始めた。
この世界に転生してから、彼の修為は最低点まで抑制されていた。
しかしそれでも、前世で大雷音寺で千年修行した素養は残っている。時間さえあれば、元の境地を取り戻すことは問題ない。
夜風が吹き、桜が舞う。
少女は月の下で剣を振り、少年は木の下で入定する。
その光景は、一枚の水墨画のように美しかった。
☆
どれくらい経っただろうか、天明は入定から目覚めた。
目を開けると、空がうっすらと明るくなっていた。
東の空に魚肚白(薄明かり)が広がり、朝焼けが近づいていた。
横を見ると、神代咲が桜の幹にもたれかかり、木刀を抱えて眠っていた。
彼女の顔には少し疲れが見えたが、口元はわずかに上がり、良い夢を見ているようだった。
天明は彼女の寝顔を見て、この女の子は実は結構可愛いなと思った。
気は短いが、心根は優しく、剣道への情熱と執着がある。
彼は浴衣の上着を脱いで、そっと神代咲にかけた。
そして立ち上がり、背伸びをした。
新しい一日が、始まった。




