第56章 無我の剣
「体力……限界だ……」
天明の顔色が蒼白になった。混元真気はほぼ枯渇し、身体が重い。
龍崎真一は一気に優勢となり、哈哈と大笑いした。
「もう限界か!」
「お前を殺せば、もう誰も俺を止められない!」
遠くに倒れていた極道メンバーたちは、刀を持つ若頭が再び優勢に立つのを見て、希望の表情を浮かべた。中には起き上がって戦おうとする者さえいた。
「くそ……」
天明は悲憤に満ちて呻いた。
その時、天明の耳に、神代の静かで穏やかな声が届いた。
「周君……前に出て」
前に出る?
前方にはあの鋭い日本刀がある。斬られれば、命はない。
しかし天明は、先ほど神代と共に戦った時の連携を思い出した。
彼女を信じよう。
天明は深呼吸した。
そして――
全ての力を振り絞って、龍崎真一に向かって突進した。
「死ね!」
龍崎真一は刀を振り下ろそうとした。
しかしその瞬間――
天明は身を屈めた。
まるでゲームのローリング回避のような完璧な動きだ。
刀が頭上を通過する。
その瞬間――
天明の背中に、軽い重みが乗った。
神代だ。
彼女は天明の屈んだ背中を踏み台にして、空中へ飛び上がった。
彼女の目は閉じられていた。
呼吸は穏やかだった。
まるで全ての雑念が消え去ったかのように。
自我が消えた。
恐怖も消えた。
迷いも消えた。
残ったのは――ただ一つの意志だけ。
この一撃を、必ず当てる。
神代家に伝わる奥義。
無我の剣。
自分を捨て、ただ剣となる。
いや、鉄棒となる。
踏み込んだ。
その速さは、これまでとは次元が違った。
まるで稲妻のように。
「何っ!?」
龍崎真一が顔を上げた瞬間――
ガキィィィンッ!
鉄棒が龍崎真一の右手首に命中した。
「ぐあっ!」
凄まじい衝撃。
龍崎真一の身体がよろめいた。
しかし彼はまだ刀を握っている。
その瞬間――
天明が立ち上がり、拳を繰り出した。
龍崎真一の胸に命中する。
「ぐっ……!」
龍崎真一の身体が後ろに傾いた。
そして――
着地した神代が、再び鉄棒を振るった。
今度は龍崎真一の頭部を狙う。
龍崎真一は刀で防ごうとした。
しかし天明の拳で体勢が崩れている。
ガキィン!
鉄棒が刀を弾き飛ばした。
カランッ
日本刀が手から滑り落ちた。
龍崎真一は膝をついた。
神代は最後の一撃を放とうとした。
鉄棒を高く掲げ――
龍崎真一の頭上で止めた。
わずか数センチの距離。
鉄棒の先端が、龍崎真一の額に触れそうなほど近い。
「降参だ!」
神代は鉄棒を止めたまま、動かなかった。
天明も動きを止めた。
龍崎真一から発せられていたあの気迫が消えている。
先ほどまで全身から溢れ出ていた闘志が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていた。
神代はゆっくりと鉄棒を下ろした。
両手が激しく震えている。
右手の虎口は裂けて、血が滴り落ちている。
「はあ……はあ……」
天明は最初、罠かと疑った。
しかしすぐに気づいた。
龍崎真一から発せられていたあの気迫が消えている。
先ほどまで全身から溢れ出ていた闘志が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていた。
こんなものを、自在にオン・オフできるものなのか。
神代は龍崎真一を睨んで大声で質問した。
「なぜあなたを信じなければならないの?」
そう問いながらも、神代は自分から攻撃しようとはしなかった。判断を完全に天明に委ねているようだ。
天明も続けた。
「そうだ。お前を信じる理由がない」
龍崎真一は身体を翻し、膝立ちから仰向けに座り直した。彼は長く息を吐いた。
「お前たちは俺を倒して、それから俺の子分の一人を起こし、神代武臣の居場所を吐かせるつもりだったんだろう?」
天明と神代は顔を見合わせた。
それから天明は頷いた。
「ああ、そのつもりだった」
「極道ってのはな、面子が大事なんだ」
龍崎真一は静かに言った。
「俺は子分たちに、自分が地面に倒れて気絶している恥ずかしい姿を見られるわけにはいかない。そうなれば、せっかく築き上げた黒龍会での地位も、極道としての名声も、全部終わりだ。だから俺たち組長は、条件が許せばいつも一対一を好む」
天明は言った。
「万が一負けても、子分に見られないから?」
「よく分かってるじゃないか」
龍崎真一は答えた。
「だから取引だ。俺は子分たちの前で恥をかかずに済む。お前たちは神代武臣を取り戻せる」
「どちらも得をする」
天明は考えた。
確かに、理屈は通っている。
しかし本当に信じていいのか。
この時、地面に倒れていた極道の一人が上半身を起こした。
「貴様!」彼はすぐに天明たちを睨んで怒鳴った。
「坂東、終わった。怒鳴る前に、煙草に火をつけてくれ」
龍崎真一はそう言った。
坂東は呆然とした。それから慎重に状況を観察し、恐る恐る尋ねた。
「若頭、あなたは……」
「負けたんだ」
龍崎真一は平静に答えた。
「だが彼らが情けをかけてくれた。若衆の前で恥をかかずに済む。だから交換条件として、俺たちは負けを認める。お前がちょうど起きたんだ、電話して神代武臣を解放するよう伝えろ」
坂東は急いで煙草を差し出し、ライターで火をつけた。
それから電話をかけに行った。
神代は天明を見た。
「周君、本当に信じていいの?」
天明は龍崎真一を見つめた。
「……信じるしかない」
「それに」
天明は続けた。
「もし嘘なら、俺たちはまた戦うだけだ」
龍崎真一は笑った。
「賢い判断だ」
しばらくして、坂東が戻ってきた。
「若頭、神代武臣は解放されました」
天明と神代は顔を見合わせた。
本当だった。
龍崎真一は約束を守った。
「よし」
龍崎真一はゆっくりと立ち上がった。
「その刀は……お前たちに預けておく」
彼は地面に落ちた日本刀を指差した。
「三年後、取り返しに来る」
「それまで……大事にしておけ」
そう言い残して、龍崎真一は倉庫を出ていった。
極道メンバーたちも後に続いた。
やがて、車が遠ざかっていった。
倉庫には静寂が戻った。
天明は日本刀を拾い上げた。
重い。
しかし美しい刀だった。
神代が傍に来た。
「周君……」
「ああ」
「私たち……勝ったのね」
「……ああ」
天明は辛うじて答えた。
「勝った」
そして二人は、その場に座り込んだ。
もう動けなかった。
天明は今、突然身体の全ての部分が酷く痛むことに気づいた。どうやら自分の体力も完全に限界を超えていたらしい。
天明は壁に寄りかかって座り込み、体力の回復を待った。
神代も彼の隣に座った。
二人とも、もう何も言わなかった。
ただ静かに、夜明けを待っていた。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
警察がようやく到着したようだ。
長い、長い夜が――
ようやく終わろうとしていた。




