第46章 忘れかけた設定
放課後の道場。
夕日が窓から差し込んで、床板を赤く染めている。
神代部長が真剣な眼差しで俺、美咲、佐藤を見回した。
佐藤は神経質に竹刀をいじっていて、俺の視線に気づくと慌てて竹刀を背中に隠した。
……相変わらず頼りない後輩だ。
「では、今日皆さんに集まってもらったのは他でもありません。我が剣道部の今後の活動に関わる、重大発表があります」
神代の動作が芝居がかって大げさだ。両手の人差し指を立てる。
「悪いニュースと、もっと悪いニュースがあります。どちらから聞きたいですか?」
「良いニュースはないのか?」
俺は思わず聞いた。
「どうしてもと言うなら、悪くも良くもないニュースはあります」
「すみません。悪いニュースから聞かせてください」
神代が得意げに頷いて、片方の人差し指を下ろした。
「我々は、ただ単純に練習するだけの日々を卒業します。公開演武の領域に足を踏み入れるのです!」
「え? 剣道部なのに今まで一度も演武したことがないんですか?」
「そんなことはありません。先輩たちは演武していたと聞いています。以前は演武大会まで開催していて、部員が学校代表として全国大会に出場したこともあるとか……まあ、実際にはそんなことなかったみたいですけど」
要するに、なかったってことだろ。
「なんで今はやってないんです?」
「それがね」
チッチッチ。神代が指を左右に振って、不敵な笑みを浮かべた。
「やるって言いながら、実際にはやらない。それが我々の流儀なのよ」
美咲が何度も頷いて同意している。何だこれ、剣道部の伝統的なジョークなのか?
「はっきり言うわね。この前の生徒会の検査で白鳥に批判されたの。活動は積極的だけど、対外的に成果を示していないって」
「あー……」
「私たちはずっと学生会に対して、真面目に練習してるってアピールしてきたのに。なんで批判されるのよ?」
あ、まずい。あの冷たい生徒会メンバーの姿が脳裏に浮かんだ。
……やばい、話題を変えないと。
「じゃあ演武大会を開催するんですか?」
「いいえ、場所も器材もお金がかかるし、人手も足りない。だから——」
神代が得意げにポスターを取り出した。
「私たちは公開練習の海へ漕ぎ出すことにしました! 全校に我々の実力を見せつけるのよ!」
パチパチパチ。美咲が何故か拍手した。神代が手を上げて彼女を制止する。この二人、事前に打ち合わせしてた可能性がうっすらと見えてきた。
「まず、一年生でも二年生でも構いません。とにかく、まず何人か見学に来てもらいたいの」
確かに公開練習なら場所の準備に力を注ぐ必要もないし、観客がいないという心配もない。募集手段としては確かにかなり手軽だ。
「じゃあ、次はもっと悪いニュースを言うわね」
そういえばもう一つあったんだった。俺は思わず背筋を伸ばした。
「公開練習の準備のために、今週末、剣道部合宿を行います!」
「は?」
「学校の武道館、今週末ちょうど借りられるの。もう二日間の申請済ませたわ」
「ちょっと待ってください。今週末って、明後日じゃないですか?」
「最近の剣道界は神速を尊ぶのよ。気合いなら、若い二人にも負けないわよ。あなたたち、ついてこれる!?」
その勢いに押されて、美咲が拍手しそうになったが、少し考えて小声で言った。
「正直に言うと、週末は家でゆっくり休みたいです……」
うん、正直俺も興味ないな。
「ふふん……見識が浅いわね。この言葉を聞いても、そんなことが言えるかしら?」
神代が自信満々の笑みを浮かべた。何故か目が一瞬輝いた。
「……特訓」
え? まさか魔鬼訓練みたいなやつじゃないよな。あれか? 運動部が大事な試合の前に、道場みたいな場所に閉じ込められて死ぬ気で練習するやつ。で、それがどうした?
「お、おお……」
美咲が恍惚とした表情で空中を見上げた。え、この反応は何?
「熱血でしょ? やる気出るでしょ?」
「う、うん、特訓、かっこいい!」
美咲が何度も頷いている。そうなのか? 正直俺は特に何も感じないんだけど。
「練習器材は竹刀でも木刀でも構わないわ。私がノートパソコンを持って行って、練習動画を参考にするから」
「でも何を練習するかも決まってないじゃないですか」
「週末になってから決めればいいのよ。それまでに各自で練習計画を考えておいてね」
俺の頭の中には練習したい技がいくつかあるけど、あまりにも急すぎる。
「部長はもう練習内容を決めてるんですか?」
「ええ、公開練習だからね。基本的な剣道を練習しようと思ってるの」
意外だ。部長は基礎を重視してるんだな。
「まず最初は素振り千本。それから足さばきの訓練と対戦演習よ」
部長、もうちょっと楽にできないんですか?
「あの、順番がきつすぎませんか? 千本の素振りの後に対戦って……」
「そうね、でも練習は強度が必要なの。大事なのは最後までやり抜く心よ」
「美咲さん、本当にそうなんですか?」
俺は思わず小声で美咲に尋ねた。
「その通りです。周先輩は全然分かってません。剣道は人の心を鍛えるものなんです」
美咲は俺を見ずに、断固とした口調で意見を述べた。
「ただし、私が採用する練習計画では、週末二日間、毎日五時間ずつ練習します。大変だけど、残念ながらこれは必要なことなのよ」
ちょっと待て、これは部活動だよな?
「五時間……それは無理でしょ……」
うん、そうだ。もっと大きな声で言わないと——ん? 今誰が話してた?
「失礼します」
冷たい声が道場の入口から響いた。
「うわっ!」
俺は驚いて振り向くと、生徒会書記の白鳥真白が入口に立っていた。驚く俺とは対照的に、神代は慣れた様子で彼女を一瞥した。
「白鳥、いつ来たの?」
「たった今。合宿の話をしているのが聞こえました」白鳥が無表情で道場に入ってくる。手にはバインダーを持っている。「生徒会の職務として、剣道部の活動状況を確認する必要があります」
その声は冷静で明瞭、一切の起伏がない。
白鳥が道場を一巡見回して、俺の上で視線が一瞬止まった。
「転校生、周天明。剣道部の新メンバー。現在の部員総数四名、最低人数要件まであと一名不足」
彼女はまるでデータを確認するかのように、淡々と言った。
「あなたたちの練習内容は記録しました。素振り千本、足さばき訓練、対戦演習。臨時活動計画としては、許可できます」
白鳥がバインダーに何かを書いている。
神代が眉をひそめた。「白鳥、まさか私たちを重点監視対象にしてるんじゃないでしょうね?」
「廃部の危機に直面している全ての部活は、生徒会の重点注視対象です。これは規定です」白鳥が顔を上げて、その冷たい目で神代を見た。「剣道部だけが特例ではありません」
「それは……」
「神代部長、合宿訓練を実施する場合、三日前までに申請書を提出する必要があります。明日の午前中までに生徒会室に提出してください」
白鳥がバインダーを閉じた。
「それと、公開練習も申請が必要です。場所の使用、時間の手配、参加人数、全て明確に記録してください」
「わ、分かりました……」
神代が明らかに白鳥の気勢に押されている。
「期限まであと十日です。剣道部は必ず期限内に五人目のメンバーを見つけてください。そうでなければ、規定に従って廃部手続きを実行します」
白鳥がこの言葉を言い終えて、身を翻して去ろうとした。
今度は佐藤が器材室の隅に隠れてしまった。
俺は白鳥の背中を見て、突然口を開いた。
「あの、白鳥さん」
白鳥が足を止めて、振り返って俺を見た。
「何か質問がありますか、周さん?」
「もし俺たちが五人目を見つけたら、生徒会はすぐに廃部の決定を取り消しますか?」
白鳥が一秒沈黙して、それから頷いた。
「もちろんです。規定を満たせば、剣道部は存続できます。生徒会の職責は監督であって、意地悪ではありません」
そう言って、白鳥は本当に去って行った。
道場に静寂が訪れた。
「……あの人、本当に冷静だな」
俺は思わず言った。
「そうね」神代がため息をついた。「白鳥真白、生徒会書記、二年生。成績は学年トップ三、仕事は完璧で、一切の私情を挟まない」
「完璧な優等生って感じだな」
「完璧すぎるから怖いのよ」神代が苦笑した。「あの子の規則執行は、まるで機械みたいなの」
「あの、部長」美咲が小声で言った。「白鳥さんって……以前剣道部にいませんでしたか?」
「え?」
俺は驚いた。
神代がしばらく沈黙して、それから頷いた。
「ええ。白鳥は以前剣道部のメンバーだったわ。しかも副部長だった」
「じゃあなんで……」
「色々あって、彼女は退部したの」神代の表情が複雑になった。「詳しいことは言えないわ。とにかく、今の彼女の剣道部に対する態度は、公正だけど冷淡なの」
「なるほど……」
どうりで白鳥が剣道部の状況をこんなに詳しく知ってるわけだ。
しかも、あの冷たい態度。
もしかして、何か深い事情があるのか?
俺は少し興味を持った。
でも、今はそれを追求してる場合じゃない。
「さて、そんなこと考えてる暇はないわよ」神代が手を叩いた。「私たちにはもっと重要なことがある。明日は申請書を出しに行かなきゃいけないし、週末は合宿の準備、それにあと十日で五人目を見つけなきゃいけない」
「はい」
美咲と佐藤が頷いた。
「そういえば、周」
神代が突然何かを思い出した。
「明日、南条が通話料金の換金に連れて行ってくれるんでしょ?」
「ああ、そうです」
「気をつけなさいよ。そういうグレーゾーンの取引、何が起こるか分からないから」
「分かってます」
「もし何か問題があったら、すぐに私に連絡して」
「はい」
俺は頷いた。
神代の心配そうな表情を見て、少し温かい気持ちになった。
この人、結構面倒見がいいんだな。
「じゃあ、今日はここまで。明日に備えて早く帰りなさい」
「はい!」
美咲が元気よく返事した。
佐藤も小さく頷いた。
俺たちは道場を出た。
* * *
道場を出ると、夕日がさらに赤く染まっていた。
校庭では、まだ部活をしている生徒たちの声が聞こえる。
俺は空を見上げた。
明日、南条と一緒にあの人に会う。
ヤクザっぽい人。
108万円を75万6千円に換金する。
不安だけど、やるしかない。
そして、剣道部のこと。
十日で五人目を見つける。
公開練習で実力を見せる。
週末の合宿。
やることが山積みだ。
「周先輩!」
美咲が振り返って俺を呼んだ。
「明日も頑張りましょう!」
「ああ」
俺は頷いた。
美咲の笑顔を見て、少しだけ元気が出た。
そうだ。
一人じゃない。
周婷も、南条も、神代も、美咲も、みんな協力してくれる。
なんとかなる。
きっと。
「よし、帰るか」
俺は校門に向かって歩き出した。
明日から、また忙しくなりそうだ。
でも——
不思議と、前向きな気持ちだった。
この世界で、ようやく自分の居場所が見つかりつつある。
それが、なんだか嬉しかった。
* * *
学校から家に帰る途中。
俺はまず駅前に寄ることにした。市内最大規模の書店——紀伊國屋書店で、英語の参考書を確認するためだ。
これから来るかもしれない試験に備えて、最新の教材を研究するのは当然だ。
ウェブサイトで推薦書リストは確認したけど、英語の参考書は種類が多い。配置エリアも普通の本とは違うから、店内の状況がよく分からない。俺は販売エリアに積まれている本を眺めた。
「やっぱり主流はTOEIC対策か……」
TOEIC参考書は時に「試験攻略の宝典」とも譬えられる。あらゆる手段で他の本と差別化しながら、徐々にカテゴリー全体で共有される解法テクニックを築き上げていく。そんな発展が笑えるというか、呆れるというか。
「でも、俺に必要なのはこれじゃない」
「周さん、す、すみません。ちょっと、通して、ください」
清き透った声が横から聞こえた。
俺は振り向くと、華奢な人影が俺の横を通り抜けようとしているのが見えた。
きちんとした制服、黒縁眼鏡、なめらかな黒髪が肩にかかっている。華奢な体つきに白い肌、とても物静かで上品な雰囲気を漂わせている。
二年B組の班長、東小路綾音だ。
普段はあまり話さないけど、彼女の美貌は学年で有名だ。特にあの黒縁眼鏡は、彼女の美しさを隠すどころか、むしろ文学少女の気質を加えている。
「あれ、東小路さん。こんなところで何を?」
「本を……買いに。SF小説の新刊が出たので……」
東小路は興味深そうにSF小説エリアの表紙を見ている。
「最近のSF小説、設定がどんどん複雑になってきて……」
「そうですね。今のSF小説は、パラレルワールドとか多次元空間とかを扱わないと、SFとは言えない感じですよね」
俺はSF小説エリアに近づいた。
「やっぱり主流はスペースオペラとサイバーパンクか……」
SF作品は時に「予言」や「警世の寓話」とも譬えられる。あらゆる手段で他の作品と差別化しながら、徐々にカテゴリー全体で共有される科学設定を築き上げていく。そんな発展が興味深い。
「目標はやっぱりこっちの方だな」
「周さんも、SF小説を読むんですか……?」
東小路が興味深そうに色々な表紙を見ている。
「たまにね。アメリカにいた頃は結構読んでた」
「最近のSF小説、本当に厚いですよね……」
「そうですね。ハードSFは大体厚いんです。色々な科学設定を説明しなきゃいけないから」
「ハードSF……ですか?」
「ええ、科学的厳密性を重視するSFのことです。例えば宇宙旅行とか、ワームホール理論とか、パラレルユニバースとか」
……待てよ。
パラレルユニバース?
空間理論?
俺は突然思い出した。
九州大陸侵攻のこと!
すっかり忘れてた!
最近は借金処理、剣道部、学校のことばかり考えて、この世界観を完全に頭の隅に追いやっていた。
そうだ、この世界には九州大陸が侵攻してくるっていう設定があったんだ。
今はまだ大きな動きはないけど、あの神秘的な声の説明によれば、いずれ何かが起こるはずで……
それなのに俺は今、班長とSF小説について議論している。
皮肉だな。
「周、周さん……?」
「あ、すみません。ちょっとぼーっとしてました」
俺は我に返った。
「ハードSFって……難しそうで、退屈じゃないですか……?」
「読むのは確かに頭を使いますけど、科学的基礎があるからこそ、より深く考えさせられるんです。主な読者であるSFファンたちは既に理解しています。未来世界を構想するにも、科学理論の裏付けがなければ、ただの空想に過ぎないって」
「科学的な人生……大変ですね……」
東小路が思わずため息をついた。
「宇宙探険がもたらす壮大さと冒険、サイバーパンクがもたらす反省と警告。この二つは本質的に違いはありません。突き詰めれば、使われている科学理論が違うだけです。そして最近では女性向けのスペースロマンスや、タイムトラベルから派生したパラレルワールドの亜種——」
「……長いですね。あの、これらのタイトル、なんだか学術的に見えますけど、理由があるんですか……?」
ハードSFとソフトSFを説明した後、次は科学用語のタイトルについてだ。
「タイトルは読者に科学概念を説明する文章なんです。例えば『ワームホールを通じた超光速旅行の可能性研究』みたいな。概念が似ているから、タイトルも自然と一見似たような学術的スタイルになるんです」
「なるほど……」
東小路が考え込んで頷いた。
「でも……」
彼女が突然声を潜めて、一冊の本を手に取った。
「周さん、これ、見てください……」
俺は本を受け取って見た。
『空間亀裂理論と多次元宇宙の可能性』。
これはSF理論を扱った科学啓蒙書のハードSF本だ。
「この本……空間亀裂が本当に存在するかもしれないって……」
東小路が眼鏡を押し上げた。
「それに……著者は、もし二つの違う空間が繋がると……空間亀裂が形成されるって……」
俺は呆然とした。
空間亀裂?
これって……
「最近……ニュースでたまに、九州大陸のことが……」
東小路が小声で言った。
そうだ。
九州大陸侵攻はこの世界ではもう秘密じゃない。
政府は情報を管理しているけど、基本的な事実は公開されている。「九州大陸」という異世界が存在し、空間亀裂を通じて地球と繋がっていると。
ただ具体的な詳細——向こうの実力、侵攻の規模、政府の対応策……これらはまだ機密だ。
「私、時々考えるんです……」
東小路が本を開いた。
「九州大陸って……もしかして、この本が言うような空間亀裂を通じて、地球に繋がったんじゃないかって……」
「科学的な解釈ってこと?」
「はい……」
東小路が本の一節を指さした。
「ここに……空間亀裂は魔法じゃなくて……何か高次元空間の折りたたみ現象かもしれないって……」
「高次元空間の折りたたみ……」
俺はその文章を見た。
本には、三次元より高い次元の空間が存在すれば、遠く離れた二つの三次元空間の点が、高次元空間ではとても近いかもしれない、と書かれている。
紙の両端のように、紙を折りたためば、両端が重なる。
「それに……」
東小路がページをめくり続けた。
「ネットで議論してる人がいて……九州大陸は異世界じゃなくて、別の惑星かもしれないって……」
「別の惑星?」
「はい……彼らが空間跳躍技術を開発したか……ワームホール技術を開発したか……だから地球に来られるって……」
東小路がどんどん興奮してきた。
「もしそうなら……彼らの『武功』とか『修仙』も……何か生物科学技術とか、遺伝子改造とか……ナノマシンとかかもしれない……」
俺は黙り込んだ。
この理論……
俺の以前の推測とほぼ同じだ。
「もっと……怖い理論もあるんです……」
東小路の声が震えている。
「科学者の中には……九州大陸は始まりに過ぎないって考えてる人もいて……」
「始まり?」
「はい……」
東小路が真剣に俺を見た。
「空間亀裂は一つだけじゃないかもしれないって……だって、高次元空間が本当に折りたたまれたなら……一つの場所だけに影響するはずがないって……」
彼女が本の最終章を開いた。
「ここに書いてあるんです。もし九州大陸が本当に空間亀裂を通じて来たなら……将来、もっと多くの空間亀裂が……他の世界や惑星と繋がるかもしれないって……」
俺の心臓が高鳴った。
「つまり……」
「九州大陸侵攻は……もっと広い空間崩壊の始まりかもしれない……」
東小路の声がとても小さい。
「ドミノみたいに……最初のが倒れた後、他のも倒れるって……」
俺は手の中の本を握りしめた。
もし本当にそうなら……
これらのSF小説で描かれているシーンは、ただの想像じゃないかもしれない。
何かの……予行演習?
「だから……」
東小路が小声で言った。
「私、考えてるんです……準備した方がいいんじゃないかって……」
「準備?」
「はい……SF小説の主人公みたいに……武術を学んだり、体を鍛えたり……」
東小路が頭を下げた。
「私は弱いけど……でも、将来何もできないのは……嫌なんです……」
俺は彼女を見た。
この物静かな班長が、こんな覚悟を持っているとは。
「東小路さん」
俺が突然口を開いた。
「はい……」
「以前、剣道やってたでしょ?」
東小路が呆然とした。
「どうして……」
「推測です。クラスを管理してる時の立ち方や歩き方が、武術を習った人っぽいんです」
「よく見てますね……」
東小路の顔が一瞬で赤くなった。
「私、確かに昔はやってましたけど……でも、弱くて……怖がりだったから……やめちゃったんです……」
「でもさっき、準備したいって言ってたよね?」
俺は彼女が持っている本を指さした。
「もし本当に将来何かが起こるって心配してるなら、剣道を再開するのが一番科学的な選択じゃないですか? 体力と戦闘技能は、どんな危機でも基本ですから」
東小路が唇を噛んだ。
「でも……」
「それに、うちの剣道部、今新メンバーを募集してるんです」
俺はチャンスだと思って言った。
「良かったら、試しに来てみませんか。試合のためじゃなくても、体を鍛えたり、自衛の技術を学んだりするだけでも、意味があると思います」
「でも……私、班長で……クラスを管理しなきゃいけないし……」
「班長だからって何ですか? 班長だって部活に参加できますよ」
俺は笑った。
「それに、班長が率先して準備すれば、他の同級生にも影響を与えられるかもしれません。SF小説みたいに、主人公はいつも最初に行動する人ですから」
東小路が黙り込んだ。
彼女は手の中の本を見て、それから俺を見た。
眼鏡の奥の目が、躊躇と期待で輝いている。
「私……」
「今決めなくていいです」
俺が言った。
「まず見学に来てください。明日の放課後、武道館に来てみてください。合わないと思ったら、いつでも帰っていいです」
「見学……ですか……」
東小路が考えた。
「いいんでしょうか……」
「もちろん。それに、班長として部活動を見学するのも、同級生の課外活動を理解することになりますよね」
「それは……そうですね……」
東小路が説得されたようだ。
「じゃあ……明日、行ってみます……」
「良かった!」
俺はほっとした。
「じゃあそういうことで。また明日、班長」
「はい……また明日……周さん……」
東小路が顔を赤くして、本を抱えて急いで去って行った。
俺は彼女の華奢な背中が書店の人混みに消えていくのを見て、複雑な気持ちになった。
SF小説について議論したことで、逆に班長に九州大陸侵攻の危機を意識させてしまった。
しかも彼女が言っていた理論……
「空間亀裂は一つじゃない……」
俺は呟いた。
もし本当にそうなら……
この世界は、将来どうなるんだ?
それに、俺はさっきまでこの世界観の大きな背景を忘れかけていた。
九州大陸侵攻。
これこそがこの世界の本当の危機だ。
それに比べれば、俺の190万の借金、108万の通話料金、剣道部の廃部危機……
これらは全部小さな問題だ。
「強くならなきゃ……」
俺は拳を握りしめた。
借金を返すためでも、剣道部のためでも、それとも将来の九州大陸侵攻に対応するためでも。
俺は早く実力を上げなければならない。
前世の少林武術、この世の剣道技術。
それにあの神秘的な「功徳」システム。
全部解明しなければ。
「一つずつやっていこう」
俺はため息をついて、英語の参考書を一冊手に取ってレジに向かった。
明日はまず通話料金のことを処理する。
それから剣道部の新メンバー。
九州大陸侵攻については……
それにもっと多くの空間亀裂の可能性については……
準備しておかなければならない。
今度は、もう忘れない。
《現在の状態:功徳400 / 精神12,800 / 財産1,080,000円(通話料金) / 借金1,900,000円》




