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コキュートスの住人

   「――――この大馬鹿者が…………‼」


 部屋中に響き渡る怒号でビリビリと空気が震える。



 ――――貴族狩りによる襲撃を受けてから4日後。

 ハート伯爵家のタウンハウスにある応接室にセシリアを除くハート伯爵家とベルトラン伯爵家の面々が集まり話し合いを設ける中、心労でやつれ、眼の下に隈を作ったベルトラン伯爵が怒り狂った様子で息子を罵倒した。


「貴族狩りで襲って来た暴漢の中へ、たった一人でセシリア嬢を置き去りにして逃げただと……⁈しかも、暴漢たちを怒らせた平民の娘を庇って、何の落ち度もないお前の婚約者を見棄てただと……!よく我が目の前に顔を出せたものだな、お前の様な人でなしはベルトラン家に要らぬ!即刻縁を切ってやるから、どこへなりとも消えるがいい……‼」


 シモンの父、ベルトラン伯爵が殴り掛かろうとするのを娘のミラが取り押さえる。


 ベルトラン伯爵は、子供達の幼馴染であるセシリアの成長を幼い頃から見守って来た。不憫な境遇ながら小さな頃から頑張り屋で、我慢強く優しい子だと思って気にかけていた――それなのに。

 

「――お父様、気持ちは分かるけど取り敢えず座って下さらない?話を進めないと、いつまで経ってもセシリアの所へお見舞いに行けないじゃない。こんな茶番にいつまでも時間を割くなんて馬鹿げてるわ。さっさと終わらせてしまいましょう」


   ………………そうだ。これで全てが終わる。

 

  ミラは部屋に集まった人々の顔を見回して、姿勢を正した。


  ――――待ってて、セシリア。これからすべてが暴かれるから。


 *


  ハート伯爵家の応接室は緊迫感に包まれていた。


 先日出掛けた際の貴族狩りの襲撃でシモンがセシリアを置いて逃げた事による婚約解消のための話し合いが行われているのだが、そこに集まったのは錚々たる面々であった。


 ハート家からはセシリアの母と、驚いた事にセシリアの父親が姿を見せている。

 ベルトラン家からはシモンの父親と姉のミラ。

 そして今回の問題の元凶であるアリアとシモンと、アリアの事を引き取りたいと申し出ている、セシリアの父のいとこに当たるハート分家のエルガー・ハートが顔を揃えていた。


 貴族狩りから逃げたシモンとアリアはセシリアを置き去りにした事がマズいと気付き、ハート家の使用人のエバに連絡して、すぐに王都に居たエルガー・ハートに今日まで保護してもらっていたらしい。


 エルガー・ハートは元ハート伯爵領の領地管理人を父に持ち、9年前にセシリアが告発した管理人達の不正事件で失職した父に代わり現在ハート分家を取り仕切っている人物だった。

 あの事件で裕福だったハート分家達は落ちぶれ、最近の不況の煽りでさらにダメージを受けて消滅寸前だったが、幾人かは王都で事業を展開し手堅く儲けを出していた。


 エルガーはその一人で王都で輸送業を展開し、そこそこ成功を収めた人物である。

 30代半ばのエルガーはいとこの割にセシリアの父親と全く似ておらず、紳士然としたセシリアの父と違って高級なスーツに身を包んでいても、どこか抜け目ない商人の様な雰囲気を持つ人物だった。



 父のベルトラン伯爵に絶縁を突きつけられたシモンが蒼白な顔で俯くと、ソファの隣に寄り添う様に座ったアリアがシモンの手をそっと握りしめる。


 その様子を冷めた眼で眺めつつ、「さて皆様」とセシリアの母であるハート伯爵夫人が口火を切った。


「本日お集まりいただいたのは、ハート伯爵家とベルトラン伯爵家の婚約関係解消の手続きの為です。もうご存じかと思いますが、理由はベルトラン家の子息シモン・ベルトランが婚約関係にあったハート家のセシリア・ハートを暴漢の中に置き去りにし、命を脅かした人道に反する行いによるもの。また逃走時に婚約関係ではない平民のアリアを伴っており、不貞関係が疑われる事。このふたつの事由からベルトラン家側の有責により、これ以上の婚約関係は不可能と断じ、婚約解消を行う事を宣言致します」


 言い終わると、セシリアの母親がすでに署名済みの婚約解消合意書をテーブルの上に差し出す。


「――こちらに反論はございません。セシリア嬢には大変申し訳なく、お詫びの仕様もございません。謝罪の気持ちとして、今回の全損害に対する慰謝料をお支払いする事を確約致します」


 それを受け取ったシモンの父親が険しい顔ですぐさま署名し、同時に慰謝料の額を書いた小切手を渡す。


 話し合いも無く淡々と取り交わされた合意で、9年の長きに渡る婚約関係はこうして呆気なく解消が成立し、来年執り行われるはずだった結婚式も全て白紙に戻されたのだった。


「――――お父様!そんな、婚約破棄だなんて……!」


  悲痛な顔で被害者じみた悲鳴を上げるシモンに、ベルトラン伯爵が怒りに燃えた眼を向ける。


「五月蠅い!セシリア嬢は私にとっても我が子同然なのだぞ……⁈それを見殺しにしようとしたお前を許せるものか!貴族狩りの賊の中にひとり見棄てられた彼女の身になってみろ、どんなに恐ろしく、どんなに絶望したか……それがお前に分かるか⁉」


 激昂するシモンの父親の熱さとは対照的に、セシリアの母親は冷ややかにチラリとシモンとアリアを一瞥した。


「被害者ぶるなら、不貞相手と仲良く手を繋ぐのくらいは止めたほうがよろしくてよ?こんな裏切りを見せつけられながら反論されてもねえ……」


 嫌味を言われたシモンが、慌ててアリアの手を払う。

 だが今更過ぎて、白々しいだけだ。


「……いや、でも僕はセシリアに謝って、彼女の口から婚約解消の意志を確認したいんだ……!」


 悪足掻きするシモンが必死で訴えてくるのを、ミラは不快そうにあしらった。


「残念ながら、セシリアはまだお医者様がつきっきりで寝込んでいるの。彼女、肩を怪我していたんですってよ。あなた達がセシリアを見棄てて逃げた直後に失神して倒れたんですって。……今回は暴漢達に良心があって医者の所まで運んでくれたそうだけど、通常ならセシリアはとっくに暴漢に滅茶苦茶にされていたわよ。しかも、彼女がうまく交渉していたのに、暴漢を怒らせたのはそこの平民の娘だったんですって?どうしておつむの弱いそこの娘を連れて逃げたわけ?シモンの頭の中にはゴミ屑しか詰まっていないの?弟と言えど、さすがの私も今回は許せないわ。重症のセシリアを助けもせずに暴漢の餌食にするなんて――最低よ、シモン。婚約解消は当然で、恨むならそこの娘と自分の所業を恨みなさい」


「……え……?怪我をしていた⁈まさか、怪我をしていたのはアリアの方だよ⁈」


 思いもよらない事を言われて驚くシモンに、セシリアの母親が刺す様な視線を向ける。


「貴族狩りを行っていた方達から事情を聴き取っています。そこの平民の娘は額から血を流していたが、わあわあ泣き叫んでは喚き散らし、終始五月蠅いくらい元気でピンピンしていたと。対照的に、セシリアは脂汗を流し、顔は蒼白でふらついていて、すぐに具合が悪いと分かったそうよ。……初対面の暴漢が心配する程だったそうだけれど、付き合いが長いはずのシモンの目は節穴だったみたいね?今回の件で、セシリアをあなたに会わせる事は無いわ。セシリアもあなたに会いたくないと思うわよ。これだけの事をしでかして、セシリアに会わせろなんて冗談よね?あなたに会ったら、ストレスで容体が悪化してしまうわ。金輪際、セシリアに近付かないでくれるかしら」


 「そんな……⁈」と愕然としたシモンの額に冷や汗が浮かぶ。

 全く気付いていなかったのが信じられずに頭を抱えているシモンを見て、ミラはここまで弟が愚かだとは……と眩暈がした。


 ……初恋で守らなければならない存在だったセシリアとの関係が、成長し変化してゆくにつれシモンにとって重荷になりつつあったのを、ハラハラしながらミラは見て来た。

 窮地に陥って無意識にアリアを選んだのだろうが、暴漢の中で婚約者に背を向けられ、独りぼっちで見棄てられたセシリアの気持ちを思うと、あまりの残酷さに涙が出てくる。


 

「――まあまあ、皆様落ち着いて。ベルトラン子息も大丈夫、ここは私に任せてくれないか」


 深刻な雰囲気の中、場違いな明るい声を出したのはエルガー・ハートだった。

 任せるも何も、ミラとセシリアの母親はエルガーとは初対面である。

 重い空気を意に介さず、ニヤニヤしているのが隠しきれない胡散臭い人物に、ミラとセシリアの母はうろんな目を向けた。



*コキュートス: 地獄の最下層。裏切りを犯した者が堕とされる場所。

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