侯爵家の責務
ブルック侯爵が書斎の机に溜まった書類を確認する間に、執事が熱い紅茶を淹れ、侯爵と夫人へそれぞれティーカップを運んでから静かに退出する。
侯爵は疲れた様子でカップを口に運び、書類を置いて、ソファに座る夫人に話しかけた。
「アンジェリカは相変わらずな様だな。クリストファーにあの子が相応しいとは、全く思えないのだが」
「ええ……侯爵家の身分を口にする割に、分かっていないんですわ」
夫人の口からも、困惑のため息が漏れる。
「あの子には何度も言い聞かせているんです。ラザルス侯爵家は、他国とも繋がる外交や貿易の盛んな家柄。アンジェリカは、軽率に嫌った人へ嫌悪や嫌味を露わにしてしまう。それがラザルス家に不利益を与え、ひいては国家間の外交問題に発展するという事を。しかも、表面しか見れずにお世辞やおべっかを使う人間を良い人と勘違いして、傍に置いてしまう。あの子は容易く他人に操られるでしょうね。危なくて、とても身分の高い家になど嫁がせられないわ。本当に困ったこと」
夫妻はアンジェリカが婚約者を決める時期に差し掛かってから、何度も同じ話を繰り返し相談していた。
アンジェリカはもう七歳である。
タウンハウスに集まる今の時期は、社交と子供の婚約者探しに熱が入っていて、ここ数か月続いているお茶会でほとんどの家の子供たちや親の顔合わせが済んだ。
各家とも、だいぶ候補者選びが進んだだろう。そろそろ有望な家同士、水面下で婚約の打診が始まっているはずだ。
正直、アンジェリカにもいくつか打診が来ているのだが、本人の性格を見抜かれているのか、全部家格が伯爵以下の者ばかりで、侯爵以上の家からはひとつも無い。
だが、夫妻はそれで良いと思っている。
アンジェリカは、高位の爵位を持つ意味をはき違えている。
その一挙手一投足に、この国や領民に対しての責任が付きまとう事や、負う義務の重さ、自分を厳しく律し戒める必要がある事。それを何一つ理解できていないのだ。
むしろ五歳の弟、エイドリアンの方が理解できている。
甘やかしたはずではないのだが、致命的にアンジェリカは幼かった。
「アンジェリカには適当な家格の次男にでも嫁いでもらおうと思っている。成長して変わるなら良し、変わらなければ仕方があるまい」
「ーーあの子が騒ぐでしょうね。自分の未熟さを自覚して、おかしな方向に考えるのを何とかしたいのだけれど。使用人にも横柄で、まるで物のように扱うのを止める様に言っても聞かないの。ハート伯爵令嬢などは、手当てをした使用人にお礼を言っていたのに……同じ年で、こうも違うなんて」
「ハート伯爵令嬢……確か名は、セシリア嬢だったか。クリストファーが気になっているらしいな」
「ええ。マナーもきちんとしていますし、落ち着いていて、とても美しい子ですわ」
夫人が頷くと、侯爵は難しい表情になって黙り込んだ。
「どうなさったの?急に無言になって」
夫人が不思議そうに尋ねると、侯爵は「いや」と言いよどんでから、真顔で口を開いた。
「セシリア嬢と、クリストファーとの婚約は難しいだろう。……それより、セシリア嬢はまともな婚約が出来るかもわからない」
夫の思いもよらない言葉に、夫人は驚いてソファから腰を浮かせた。
「何をおっしゃっているの?素晴らしい子なのは、見れば分かりますわよ⁈」
「……本人の問題ではないんだ。父親のハート伯爵が外に愛人を作って、妻と子を放置しているとの噂が出回っている。しかも、愛人の子供の方を溺愛しているそうだ。ーーそうなるとセシリア嬢はハート伯爵の後ろ盾のない令嬢という事になる。はたして、家同士が繋がる政略結婚で、それを気にしない家門はあるだろうか?しかも、ハート伯爵の領地で管理人の横領が相次いでいるとの情報もある。誰がそんな負債を負った令嬢を娶りたいと思う?……セシリア嬢には気の毒だが、まともな相手は望めないだろう」




