第7話 軒下の嘘のように
こんなに静かな夜は、思えば地元にいた頃以来だと思う。遠くに波が弾ける音や木の葉が擦れる音がかすかに聞こえるくらいで、ここにはくだをまく酒飲みはいないし、排気音と共に駆ける自動車の騒音もない。
おまけに、電気もない。1階の大きなテーブルで作業する俺の手元を照らすのは、燭台に立ってゆらゆらと火を揺らすろうそくのみ。
シェイから借りた、動物の骨のような無骨なペンは、結局一度も群青色のインクを走らせることなく、ただ舌先を乾かすだけだった。
「——まだやっているの」
2階へと続く階段から、アネサが呼びかける。夜も更け、彼女が自室に戻ったのは、はて何時間前だったか。
「眠れないだけなんだ。大丈夫だよ、ありがとう」
「そう。眠れないなら、ちょっと風でも浴びにいかない? 私も眠れなくて」
「いや——そうだな、うん。ちょっと出ようか」
寝巻きなんだろう。首元から足元までをすっぽり覆ったネグリジェのような服装で、よたよたとアネサが先に出入り口に向かう。
燭台を手に取ってついていこうとすると、アネサが首を横に振るので、結局何も持たずに外に出た。
「ね。明るいでしょ」
「本当だ。ずいぶん、月が近い気がする」
青白い月光が、あたり一面を鈍く照らしている。風と風がこすれる音すら聞こえる夜の中、俺とアネサは軒下に伸びるデッキに腰を下ろした。
「ごめん。何だか、アマネに押しつけっぱなしで」
「そんなことない。シエクラもシェイも、森から帰らないアネサを寝ずに待っていたというし、君も疲れたろう。俺はほら、たっぷり寝たから」
「ありがとう。それで……どう?」
一瞬、言葉が喉の奥で詰まった。蛇口を回さなければならないけれど、せめてゆっくりひねりたいという瞬間が、誰にでもある。
「——難しいだろう。あれからずっと、アラカタラルトにある現金を勘定してみたけれど……」
「グアーブの報酬を入れてもだめ?」
「厳しいよ。それに、本来それは全額がアラカタラルトの稼ぎではないじゃないか」
「そんなの、別にいいんだよ」
いや、まったくもって良くない。
シエクラが討伐局から持ち帰ってきた10万ムードの報酬のうち6割、つまり6万ムードは本来、冒険者の取り分だ。つまり本件についてだけ見れば、アラカタラルトが本来稼げる金は10万ムードではなくて、4万ムードというわけである。
結果として10万ムードがアラカタラルトの懐に入ったのは、参加した6人のうち4人は死亡し、2人は報酬を受け取らないから。
おまけに1000万ムードの返済は一旦ストップしてもらっている状態だ。本来はここから返済分を捻出しなければならないが、10万ムードですら月々の返済額には足りない有様である。
例えばメシを我慢したり、家財を売って家計がなんとかなっていたとしても、実態はすでに破綻しているのである。
「グアーブの討伐依頼を受けたときに支払った保証料も返ってきたじゃない。それでも、厳しいかな」
「それは——うん。厳しいな」
実はアラカタルトは度重なる依頼の失敗により、依頼を受託する際に保証料を支払わなければならなくなっていた。
保証料は依頼を達成すれば返金される仕組みで、当然これも、稼ぎにはならない。支払ったものが、ただ返ってきただけだ。
「稼ぐしかないんだ。カネを作るには、そうするしかない。けれど、それにもカネがいる。これは特別なことではなくて、俺の前の世界でも当たり前のことだったんだ。けれど、アラカタラルトにはカネもなければ、ヒトもいない。リスケしてもらっているから生きながらえているだけで、根本的な解決には、何一つなっていないんだ。これはもう、単独じゃどうにもならない現実なんだよ、アネサ」
加減したつもりでも、結局水門はすぐに決壊した。一気に水があふれ出て、すべてをアネサにぶちまけていた。
ふと、どんな顔をして聞いているのかと思った。彼女はただまっすぐに俺を見つめて、まばたきもせず、「そっか」と小さくこぼした。遠くに聞こえていたはずの波の音が、自分の心臓の音と混ざってやけにうるさく感じる。
「アマネは何というか、私たちとは考え方が違うし、もしかしてと思ったけど——そうだよね。やっぱりウチは、もうダメだよね」
何も、言えなかった。
これが日本なら、もう少しいろんな方法があったかもしれない。債務整理といっても、何も自己破産だけじゃないのだ。私的整理という道だって、あっただろう。
けれど——これは昼間にシエクラに聞いた話だが——この世界はどうにも、俺が思っている以上に金融が発達していないようだ。というか、常識が根本から、俺のいた世界とは違うのである。
きっと、まだそこを発展させる必要性というか、動機がないのだろう。電気がないあたりからも近代的でないし、マーケットのようなものも見当たらなかった。アネサたちはきっと、借金で冒険者ギルドが潰れるなんて話をほとんど聞いたことがなく、すぐ目の前の終焉を気取ることすらできなかったのだろう。
どころか討伐局だって怪しい。シエクラは討伐局にも苛立っていたが、彼らもまさか本当にアラカタラルトが潰れるなんて思ってもいないのかもしれない。
返済は待ってやるから頑張れ——こういう意図が、透けて見えるようだ。それがもっとも残酷な仕打ちだと、単に知らないだけなのである。
「お金……。お金かぁ。何でこんなものがあるんだろうね。お父さんが若かった頃は、詰め所がボロボロになればみんなで直したって聞くよ。銅貨や銀貨で何かを買うなんて、そんな単純な世の中じゃなかったはずなのに」
「単純な世の中……か」
アネサには、なるほどそう感じるのだろう。
俺たちは自分たちで消費するために何かを作ることはほぼなかった。周りには商品ばかりがあって、それを買うために、俺たちは商品を作った。そう生きることしか、知らないからだ。
「ガッデンババ侯の件はどうだろう。アネサから見て、どう感じる」
「お金を借りるって話だよね。どうなんだろ」
昼間に出た話だ。金がないなら借りるしかない。金融の機能を有しているのはプアプールを治めているガッデンババ侯爵だというから、そこに借金できないかと考えてみたのだ。
「アネサも、シエクラと同じか」
「確証はないよ。けれど、ヴェルバもダルキューロも、ワンワロがシウナの属国になってから急に入ってきたから、シエクラの言うことも分かる。ええと、つまり、侯爵様にお願いしても無駄かも……」
おまけに、ただ金を借りるだけでは意味がないのだ。ガッデンババ侯から金を借りられるとして、まず討伐局への借金を一度折り返したうえで、さらにアラカタラルトが当面の稼ぎを回復するまでの資金を融通してくれなくては意味がないのである。
政治的な癒着がどうこう以前に、そんなボランティアをしてくれる統治者がどこにいるのだという話である。
まして、アラカタラルトとガッデンババ侯は直接何のつながりもないというのだから。
「——子どもの頃の記憶。詰め所にはいつもたくさんの冒険者がいて、毎日朝から賑やかだったの。私のお母さんは私を産んですぐに死んだんだけど、何も寂しくなかったんだ。みんながいたから」
月明かりに照らされた赤茶色の髪を夜風に揺らしながら、まるで振り始めた雨のようにアネサが話し始めた。
「討伐局に行って依頼を取ってくるのは女たちの仕事でね。私はシェイによくついて行って、彼女たちがめいめい依頼を取ってくるのが大好きだったなぁ。討伐局の担当者にクロワさんっていう人がいてね。いつも私のために、飴を用意してくれているの。いつもは、花の蜜にちょっとだけ白い砂糖を加えて固めたやつなんだけど、たまに蜂蜜で作った飴をくれる。それが本当にうれしくて」
違うものだらけだけど、同じものもある。
子どもは甘いものが好きなのだ。
「みんな朝方には仕事に出ちゃうから、昼間の詰め所はがらんとしちゃうの。その日依頼を受けないで休みにしている冒険者は酒場にいたり、二階で休んだりしていてね。——アラカタラルトの冒険者はカッコいいんだよ。みんなが仕事している間は、詰め所では絶対酒を飲まないし、遊ばないの。おじいさまの言いつけだったって聞いてる。ここは仕事をする冒険者の家なんだって」
「へぇ。カッコいいな。職人の世界だ」
「そうなの、カッコいいんだ! ——みんなが無事に夕方までに帰ってきたら、夜は酒盛りだね。酒屋さんを呼んで、女たちが作った料理食べながらみんなで騒ぐの。月が高くなるまでには宴会は終わる約束で、数日休みを取る人たちは、そのまま酒場に行っちゃう。——お父さんはお酒が大好きでね。すぐ真っ赤になっちゃうのに、いっつも酒場まで着いて行くの。次の日が大きな依頼があっても、だよ。シエクラがいっつも呆れながら、私を先に寝かしつけるんだ。もう、すごいんだよ。私の枕元で、お父さんの愚痴ばっかり聞かせるの」
月を見ながら静かに笑うアネサの横顔を、見つめることしかできなかった。
俺はここで何をしているんだろう。
胸の奥がぎりぎりと絞り上げられ、熱くなっていくのを感じる。どこか懐かしさすらあるこの感覚は、はてどこで味わったものだったか——。
「みんな、男も女も、命懸けで働いて。苦しいことも、つらい別れもあったけど、みんながアラカタラルトっていう家で笑ってた。その中心にはいつもお父さんがいて……。6年前にヴェルバとダルキューロがやってきて、その3年後にお父さんが病気で死んだ。本当、笑っちゃうくらいあっという間に、死んだ」
ゆっくりと、それでいて寸分の狂いなく、アネサが振り向いて俺の目を捉える。大きな目に青白い光が見えるのが月明かりのせいだけには、思えなかった。
「嘘みたいでしょ。でも、嘘じゃないんだ。まるであの頃が嘘みたいだけど、本当に、嘘なんかじゃないの。絶対に、嘘なんかにしないんだ。私が」
熱く絞り上げられていた何かが、大きく弾ける音が聞こえた。鉄と鉄が火花を散らしてぶつかったような衝撃を、目の奥に感じた。
意味もわからず、視界が水の中にいるように滲んでいく最中、俺はこの衝動の正体を見る。
それはすでに2回、俺の心に訪れていた。父親に勘当されたあのときと、父親が死んだと電話口にしか知るすべがなかったあのときである。
「——嘘じゃない。そうだな、嘘じゃないんだ。俺だって、嘘じゃないぞ。親父に勘当されて、死に目にも会えず。それでも俺は——俺だって、みんなの役に立ちたかったんだ。この思いだけは、本当なんだ」
いつの間にか頬がずぶ濡れだと気づいたと同時に、アネサがそっと俺を抱き寄せた。彼女の赤茶色の髪の毛が柔らかく俺の顔を撫でる。アネサの体も嗚咽に震えているのを感じ、俺たちはただ抱き合った。
寄せる波と返す波が一つになるような、そんな心地よさだけが、そこにはあった。
「——嘘なんかにさせないぞ、絶対に。何でもやるな? アネサ」
「うん。何でも。家を守るためなら」
ごちゃごちゃと、ありもしないことやノウハウをこねるのはやめだ。
椅子に座ったままで戦えるわけがない。
ここからは、”談判破裂して暴力の出る幕”である。