第5話 雨の香りのように
空・雨・傘のフレームワークという概念がある。末端とはいえ、民間コンサルに勤めている以上、当然に俺も習った有名な考え方だ。
空は現象であり、事実を指す。急に曇ってきたという事実を、まずは正しく認識する必要がある。分析力も必要だ。
雨は、空から導き出した解釈のこと。「急に曇り空になってきた」という現実を受けて、「雨が降りそうだ」まで思考を進める。
最後、傘。雨が降りそうだという解釈に基づき、「傘を持ち出す」という選択をする。
事実を正しく認識し、解釈して、行動する——。
そう聞けば当然のことだと思うのに、振り返ってみると俺自身、このとおりには行動していない事ばかりだった。
人は見たいものしか見ないし、見えても見えないふりをし、先送りにするものだ。そうして破局を迎えたとき、「こんなはずじゃなかった」と言う。
これを予防する考え方こそが、空・雨・傘のフレームワークなのである。
「——当面の問題は、やっぱり冒険者の数だよ」
木製の小さなコップに視線を落としながら、アネサが言う。ドアを叩く者もおらず、相変わらずテーブルにはアネサ、シエクラ、俺の3人のみだ。
俺はシェイが出してくれた料理——青々とした生野菜の上に肉やらをどろどろの煮込んだものをかけた一品で、醤油のような塩辛さがほどよい——にがっつきながら、ひとまずアラカタラルトの現状を正しく認識するべく、アネサとシエクラに質問を投げかけることにした。
考え方は色々だが、俺は〈雨〉が最も重要だと教わっている。すべては正しい現状把握からである。
「そもそも、アラカタラルトに登録している冒険者は何人いるんだ」
「7人……かな」
アネサの歯切れがずいぶん悪いのに気付いたのは、もちろん俺だけではない。シエクラが引き継ぐように続ける。
「あくまで名簿上の話だ。まだうちの組合員として登録が残っている冒険者は、7人。ただし、うち4人はここ数年顔すら見ていない有様でな」
「じゃあ、実質3人ってことか?」
「いや——これで、実質2人だ」
シエクラが何かを取り出し、テーブルに置いた。俺が知っているものとは質感や色合いがやや異なるが、それは明らかに紙だった。群青色がかったインクで、何かが書いてある。
「『本年本月ヲ以テ脱退サセテ戴キタク』——って、これ、脱退届じゃないか」
見たことのない手書きの記号が紙上に羅列されているのを見て、すぐに言語だと分かった。それに、その意味も。
思えば、言葉もそうだ。俺は日本語しか口にしていないのに、アネサやシエクラと普通にコミュニケーションが取れているのはなぜか。まさかアネサやシエクラが日本語を話しているわけではあるまい。
文字と同様に、話し言葉も変換されているのだとすれば、あまりにも都合が良すぎて不気味である。
まるで、俺がこの世界に転移するのは予定どおりだったみたいじゃないか。
「ああ……。また、なんですね」
「また、だ。キローのやつ、あんなに面倒見てやったのに——元々、今朝はその話をするつもりで、来たんだ。アマネが知りたがっていることとも同じようだし、ちょうど良かったのかもな」
誰に聞かせるでもなく、放り捨てるような言い草だ。
とはいえ、まだ聞こえるように声を発するあたり、関係構築の望みはあるのかもしれない。向こうが望むなら。
「ええと、グオーブだったか、あのワニ野郎。あれは銀等級だから、6人必須だったわけだよな」
「そうだね。銅等級なら4人でよくて、しかもそれは推奨人数。所属ギルドが認めれば、4人以下でも構わないという決まり」
「俺を含めれば、頭数は3人だ。銅等級なら受託できるわけか」
もちろん、アネサは除く計算だ。実際、グオーブを倒したのはアネサだが、シエクラはそれを見ているわけではない。魔石を持って帰ってきたことしか、知らないわけだ。
というか、頭数に入れてはいけないのだろうな。天啓を持たなければ、冒険者足りえない。ここはそういう世界なのだ。
「これは単純な疑問なんだが……先ほど脱退した冒険者も含めれば、稼働できる人間が3人はいたことになる。銅等級なら受けられるのでは」
アネサからは、しばらく依頼の達成報告ができていなかった故に解散通告が送られてきたと聞いている。しかしそれは、どうもアラカタラルトの現状とは直接結びついているようには思えなかった。
少なくとも、銅等級は4人必須ではないのだから。
「——俺のせい、だ」
ぽつりとつぶやいたシエクラは、一度大きなため息を吐いてから、目元まで覆っているバンダナを解く。あらわになった頭部には毛髪がなく、代わりにひどい火傷のような傷が痛々しく刻まれていた。
爛れと再生を繰り返したことをまざまざと証明するその傷は、濃淡をつけながら目元までを届いている。ゆっくり開いた彼のまぶたの中には、ただただ白い瞳だけが揺れていた。
「3年前だ。白金等級——銀等級の一つ上の依頼を受けたときに、失敗した。俺が悪いんだ。『同じ空は二つとない』。常識なのに、油断した。あれ以来、俺は以前のようには、戦えない」
「いや、何というか……話してくれて、ありがとう。それしか言えないな」
「構わない。アネサの力になりたいんだろう。ならこれも、お前が知っておくべきことだと思う。——シェイの料理が冷える。食べながらでいいから、続けよう」
背中に視線を感じるのは、きっと気のせいじゃない。二人はパートナーなのだろう。大怪我の苦しみをともに乗り越えた、大切な伴侶なのだ。
「アラカタラルトの責任、なんだ。3年前って、ちょうどお父さんが病気になった時期でね。ギルド自体は6年くらい前から会員の脱退が相次いでいたんだけど、ギルドマスターで冒険者でもあったお父さんが倒れてからは特にひどくて——」
「待て。もうそういう話はしないと、俺ともシェイとも、約束しただろう。その見方は正しくない。全員が、あのときできることをやっただけだ」
アネサの正面に座っていたシエクラが、席を立って俺の目の前の席に移った。
少しぎょっとしたが、どうも関係構築の目は潰えていないらしい。とことん、正直な人間なのだろう、このシエクラという人間は。
「白金等級は、銀等級とさほど難易度は変わらない。変わるのは、重要度だ。出現が不規則で、しかも滅多にお目にかかれない魔物の依頼には、白金等級が付く。当時のウチはアネサの言うとおり、悲惨な状況だったが、まだ白金等級の受託資格はあった。何としてもあの依頼は、達成しなければいけなかったんだ」
「それは、金銭的にということか」
「それもある。白金等級は銀等級より報酬がオイシイ。しかしそれよりも、大事なことがある。信用だ。アラカタラルトはまだやれるということを、示す必要があった」
「ギルドマスター、つまりアネサのお父さんが床に伏せたが、まだ俺たちはやれる——と」
「そうだ」
太い指でゴツゴツとテーブルを叩きながら、重く、太い声でシエクラが説明する。その仕草はきっと無自覚で、自分を痛めつけようとしているようにすら見えた。
「よく分かったよ。二人ともありがとう。けど、もう少し遡って整理したい。アネサ、6年前にはすでに冒険者の脱退が相次いでいたということだったが、そのわけは何だろう」
「それはヴェルバとダルキューロが大きい、というか、すべて。大きなギルドが2つ、このプアプールにも進出してきたの。海に沿って北に行くと、それぞれの出張ギルドがあるよ」
「あの余所者が来てから、この街もおかしくなったんだ。金をばら撒いて、ウチの古参を根こそぎ奪っていきやがった」
また新しい言葉だ。ヴェルバとダルキューロ。これはどうやら、6年前に市場に現れた黒船らしい。
コンサル時代に当社で支援した、地域密着のスーパーマーケットを思い出す。大規模資本の大型スーパーにシェアを奪われ、倒産が目の前まで迫っている状況だった。
俺の案件ではなかったが、最終的にあのスーパーは身売りを選択して、のれんと社員は守り抜いたと聞く。自社内の組合と経営陣は相当に揉めたようだが、正直、逆転満塁ホームランに近い、起死回生の一手だったと、話を聞いていて思った。
少なくとも俺にはM &Aの経験などない。高度すぎるし、何よりもそれは、密な隣人ではあっても、俺たちの仕事の領域ではなかったはずだ。
アラカタラルトの現状が精緻に見えてくるにつれ、じわじわとどす黒い雲が近づいてくる気配がしていた——。
第5話は2024年5月11日(土曜)0:00更新予定です。