第1話 そう生まれたように
そこは闇だった。
沈み込むように、体が重い。
頭は働いていないが、目は動く。
暗闇の中、ゆらゆらと揺れるオレンジ色の光が、かすかに差し込んでいる。
陰影をつけて浮かび上がるのは、草木のみ。照らされて見える植物は視界のほんの一部で、あとは濃淡のない闇が奥へと続いている。
——頬が冷たい。
——土の香りもする。
状況はほとんど判然としないが、どうやら屋外で、しかも俺は顔を地面につけて腹ばいになっているらしい。
大貫周、26歳、男性——。
この齢にして尿酸値を気にせざるを得ない程度には酒が好きだが、さすがに外で眠るほど酒に溺れたことはない。
砂が擦れる感覚を頬で感じながら、とりあえずはと顔だけを上げてみると、揺れる光の正体が分かった。俺のすぐそばの茂みの中で、松明が転がっている。
——いや、松明って。
ゲームでしか見たことがない代物だ。むしろゲームで見たことがあるから、かろうじて判別できたとも言える。暗がりのダンジョンでは絶対必要なものだが、マップさえ覚えてしまえば不要になるアイテム。
というか、草木の中に転がしておいて大丈夫なのだろうか。燃え移りでもしたなら、放火に該当するんじゃなかろうか。もしボヤ騒動となれば、間違いなく、この松明のすぐそばでうつ伏せになっていた俺こそ第一容疑者だ。
「冗談じゃない…」
腕も手も動く。
足も動くし、思考もスッキリしてきた。
両手を地面につき、まずは上体を起こす。
立ちひざになったところで、ようやく草木と土以外のものが目に入ってきた。
女だ。
格好はよく見えないが、俺に背中を向けて立ち尽くしている。つま先から頭まで、凍っているように動かない。
声をかける気にはならなかった。
第一に、彼女が右手に持った大ぶりな刃物が、ぎらぎらと松明に照らされて輝いていたから。柄があって、鍔があって、刃渡は60センチかそれ以上。切れるかどうかに関わらず、殺傷力は高そうだ。
実物を見たことはないが、「剣」と呼ぶべき代物に思えた。
第二に、分かってしまったからだ。
この女が動かない理由そのものが、俺の目にも映ったからである。
彼女の背中の向こうで、〈それ〉が蠢いている。一歩、また一歩と、ゆったりと地面を揺らしながら向かってきている。
頭で処理できなかった。
子どもの頃、知床旅行でヒグマと遭遇したときの感覚に似ている。当時の俺はといえば、金縛りのように体が動かず、声も出なくなったものだ。
こちらに目もくれず、ヒグマがゆったりと道路脇の草木の中に消えていくまで、俺は上下左右も分からなくなったような有様だった。
しかして、〈それ〉はもはやヒグマの比ではない。松明に照らされた顔はワニに近いが、顔の周りに豊かな体毛がある。
一歩ずつゆっくり近づきながら、わざとらしくあごを何度も噛み合わせる。がちがちという音が、俺の舌の根から骨の芯にまで響く。
全貌は未だ見えない。小学生くらいなら丸呑みできそうな大きさの頭部がのぞいているだけで、まだ体のほとんどは闇の中である。
推測するのもバカらしい。〈それ〉は明らかな捕食者だ。情けや容赦が介在する隙間のない、弱肉強食の世界の存在。相対した時点で時すでに遅し。
——ふう。
ひときわ大きな呼吸の声が、聞こえた。
俺ではない。眼前の女である。
いつからか、肩で息をしていた。動かなかったのは、動けなかったからではないのか。
そうして女は、強く剣を握りしめた。刃先まで小刻みに震えていることを認めないかのように、何度も何度も剣を握りしめる。
生きようとしているのか、死のうとしているのか、決めあぐねているようにも見えた。
——刹那、爆発音のような轟音が響く。開幕の銅鑼のように、〈それ〉が雄叫びをあげた。
口からあふれ出る爆音が止めることもせず、大砲のような足音を立てながら、〈それ〉が苛烈に向かってくる。
草木をなぎ倒してようやくあらわになった全貌は、まさしく毛むくじゃらのワニといった様相である。背中では、孔雀の羽のようなひときわ大きな体毛が逆立ち、怒気を放つ。
速くて、大きい、殺意の塊。尾っぽまで含めれば、電車一両ぶんくらいはあるんじゃなかろうか。
弾丸のようにあっという間に女の目の前まで接近した〈それ〉は、その場でぴたりと足を止めたと思いきや、あごを地面にこすりながら頭を引き、併せて全身を縮めた。
それが何を意味するのか理解するのに、時間はかからなかった。
風を切り裂く音を鳴らしながら、コマのように〈それ〉が一回転。猛烈な突風が俺の顔をかすめたのは、それだけ回転が速かったからだけじゃない。鈍い音を響かせて、女が俺の後方まで吹き飛ばされたからだ。
何ができるわけではない。
すくんで立つことすらできない有様なのに、顔は反射的に、後方に飛ばされた女を追っていた。
岩の隙間に吹き込む風ような、乾いた呼吸だけ。全身を使って何とか呼吸だけはしながら、ゆっくり、じわじわと立ちあがろうとしている。
後ろでもう一度、雄叫びが聞こえた。
勝利を確信した雄叫びか、仕留め損なったことへの悔恨なのか。
地面を揺らしながら一歩ずつ〈それ〉が女ににじり寄っていく。女のほうから目を離せない俺の後頭部に、生ぬるい吐息が当たる。
見ずとも分かる。〈それ〉は俺に手を出すことはしない。立ち上がることすらできない俺など眼中にはなく、未だ戦う意志を見せる標的にとどめを刺すことだけに意識を向けているのだ。
——血が、逆流する感じがした。
あらゆる血が体内を駆け巡って、眼球に集まるような感覚がした。
唯一の家族だった父が死んだと聞かされ、俺の人生の意味が足元から瓦解したあの晩に味わった感情を——飲み込んだ爆弾が腹で炸裂し、自分という存在が内側から破壊されたようなあの感情を——俺はいま、反芻していた。
不意に俺は腕を上げ、手のひらを彼女にかざす。
理屈ではなく、どころか、元々そうするつもりだったかのようですらある。
そうしたかったからとか、そうすべきだからではなく、初めからこうするために生まれたのだという安寧が、つかめそうな気がしたかのような。
逆流し眼球まで駆け上がっていった血液が、手のひらに集まる。手全体が燃えるように熱く、それでいて心地よい。ズームのように、視界の中の女がどんどんと拡大されるようだ。
苦しいだろう。
剣を突き立て支えにしても、顔を上げることすらかなわない。
呼吸すらやっとだろうに、なぜまだ立ち上がるというのか。きっと、そこには生存本能よりも強い執念があるのだな。
なら、叶えてくるんだ。
立ち上がって、剣先を向け、ワニ野郎の腹をぶちぬけばいい。
生き残るためでなく、初めからそうするために生きてきたのように——。
手のひらに集まった熱が離れていく。
刹那、女の体が目もくらむような真っ白な光を放った。苛烈さのない、優しい光だ。
「——ッ!」
収まりゆく光の中から、女が飛び出す。満足に動かないのであろう右足をものともせず、片足で跳ねるようにして〈それ〉へと突貫した。両手で柄を握り、抱きかかえるようにして剣を持つ彼女自身は、まさしく1つの剣にも見えた。
「たああぁぁぁぁぁ!!」
片足で必死に走りながら、女が吠えた。
大した速さではなかったが、あっという間に〈それ〉に肉薄する。
〈それ〉の反応は早かった。待ちわびていた獲物が向こうからやってきたのだから、こんなにうれしいことはないのだろう。
電車一両ほどもある体躯には不似合いなほど素早く、さながらボクサーのジャブほどの速度で彼女に食らいついた。
がちん。
肉や骨を砕く音ではない。それは歯同士の衝突音であり、不発の証明そのもの。
両者の交錯を真横から見ていた俺だからこそ分かる。女はとっさに頭から地面に飛び込んでいき、ちょうど交差するようにして〈それ〉のあご下に潜り込んでいたのだ。
女の姿はほぼ見えず、頭部の下敷きになっていることしか分からない。
もぞもぞと動いている彼女に対し、〈それ〉は完全に動きを止めたようだった。
——彼女が何かしたのか?
——体の構造からして、〈それ〉はあご下の獲物に手が出せない?
不気味な状況を理解しようと思考を逡巡させていると、突如、〈それ〉の頭頂部あたりが大きく膨れはじめたではないか。
大きな泡のように、あっという間にぼこりと膨れ上がったかと思いきや、弾けた。
何かがゆっくりと、あご下から脳天までを貫いたような弾け方だ。
轟音とともに、割けた頭頂部からは黒い煙のようなものがもうもうと吹き出す。火が物を燃やすときに生まれる灰色の煙ではなく、漆黒の霧である。
真っ赤な鮮血や、砕けた骨が散らばることはなく、ただただ闇が放たれていくさまを眺めることしかできずにいると、〈それ〉の全身が、これまた漆黒の煙になって霧散しているのに気づいた。
ものの10秒ほどで〈それ〉が夜の闇へと完全に混じり合うと、下敷きになっていた人物がよく見えてくる。
「お…おい。大丈夫か」
よたよたと情けない足取りで駆け寄る。剣先を天に突き立てたままうつ伏せになっているところを見ると、おおよそ彼女が、あいつのあご下で何をしていたのかが想像できた。ひと突きとは、恐ろしい。
「言いたいことは、色々あるんだけど——」
驚いた。彼女が急に話し出したことはもちろんだが、それ以上に、その声色がまるで少女のそれだったから。
「——ありがとう。あなたのおかげで、倒せた」
血だらけ、泥だらけの顔で精一杯の笑顔を見せる彼女の背後で、地べたに転がる松明が一層激しく燃えていた。
第2話は2024年4月13日(土曜)0:00更新予定です。