第十一話『約束』 序
闇に移ろいゆく逢魔が時の山の中、切り立つ崖の上で粛清が始まろうとしていた。
岬守航は実に六年近くの時を超えて、人間が異形へと変貌する様を目の当たりにする。
屋渡倫駆郎の振り上げた右腕が、中指と薬指の間から肘に掛けて真二つに裂け、引き裂かれた静脈から血がボタボタと滴り落ちていた。
二つに枝分かれした腕の裂け目が塞がり、人間の形を離れていく。
「どうした、逃げても良いんだぞ? 逃げられるのならなァ」
屋渡は痛みを感じる様子も無く、航を冷笑しつつ挑発する。
おそらく彼はわざとゆっくり肉体を変形させている。
そうやって処刑の瞬間を焦らしているのだ。
航が状況的に逃げる訳にも行かず、また逃げたとしても間に合わないと確信しているが故の余裕だった。
屋渡の右腕の枝はそれぞれ太さを増して変形し、猛禽類を彷彿とさせる三本指の強靱な鉤爪と二重螺旋に交差する鋭い槍頭の形を採った。
「これが俺の術識神為『毘斗蛇邊倫』の『形態壱』だ。大人しくしていれば楽に殺してやろう」
屋渡は右腕から枝分かれした槍を蛇の様に蜿らせ、その槍頭を舌で舐めた。
明らかに命を刈り取る形をした敵の能力に、航は水徒端早辺子の言葉を思い出す。
『岬守様、神為の回復能力は確かに極めて強力です。私の身をあまり顧みず、もっと存分に機体性能を発揮していただいても結構ですよ』
『ええ。今まで屋渡に痛め付けられて、その凄まじさに驚きました。潰された指が奇麗に元通りになった時は夢でも見たのかと思いましたね。あれは回復というより、再生だ』
『はい。機体の慣性で多少体をぶつけようが問題はありません。瞬時に元通り、という訳には参りませんが、余程の事が無い限りは奇麗に治癒します。しかし、その余程の事が存在するのもまた事実です。貴方の様な非才な素人は、努々油断なさらぬ様』
航は屋渡による拷問で潰された指の痛みを思い出す。
しかし、その痕跡は今の航に全く残されていない。
何故なら、潰されたとはいえ指は繋がったままだったからだ。
今の状況に喩えると、屋渡の槍に腹部や四肢を貫かれ、筋や骨や内臓を損傷した程度なら、時間と命さえあれば奇麗に修復されるだろう。
だが、四肢そのものを切断されてしまった場合、或いは心臓を一突きにされてしまった場合は、体の一部や命を失うことになる。
『肉体という部屋の中に、全ての小片を組み上げて完成された図合せが置かれているものと御想像ください。例えば、図合せが如何に細かい小片に分けられようと、全ての小片が部屋の中に置かれている限りは元通り組み上げる事が可能です。しかし、部屋から紛失してしまった場合、その図合せは最早永久に完成しません。また、部屋そのものが倒壊してしまった場合、或いは、組み手が居なくなってしまった場合も同じでしょう』
じりじりと迫る屋渡を前にして、航は考える。
(おそらく、僕の体という部屋は元々脆い上に倒壊寸前なんだ。屋渡が一寸した力を加えれば、忽ち崩れてしまう、そんな状態だ)
脳裡に浮かぶのは、初日の崩落によって死んでしまった二井原雛火の姿だ。
今の航は、少しの不覚で容易くああなってしまう。
「覚悟は出来たかァ?」
突然、屋渡が猛スピードで接近して来た。
「うおっ!?」
右腕に備わった槍の速い刺突をどうにか紙一重で躱す。
茶色の髪が切れて宙を舞った。
(なんてスピードだ。ただ逃げただけだとあっという間に追い付かれるぞ)
やはり、戦うしか無い――航は覚悟を決めた。
とっさに、もう一人の助言が航の記憶に閃く。
『体格がある相手の場合、先ずは脚を狙いなさい』
航は屋渡の脹脛に蹴りを打ち込んだ。
「うぐぅッッ!!」
高校の頃、テロリスト「崇神會廻天派」の襲撃を受けて、麗真魅琴に戦い方をレクチャーされた事があった。
但し、あくまで最低限身の安全を確保する護身のテクニック、という名目だったが。
『私が教えるのは、あくまでどうにもならなくなった時の最終手段。先ずは危険に近付かないこと、危ないと思ったらその場を離れること、争いが避けられなくとも、常に逃げる手段を第一に考えること。それが護身の肝腎要と心得なさい』
航は立て続けに屋渡の脚へ蹴りを見舞う。
屋渡の表情が苦痛に歪み、明らかに嫌がっている。
『体重を支える脚へのダメージは体格がある程に負荷が大きいのよ。追う脚を潰せるし、狙いが低いとカウンターを合わせ難いという利点もあるわ。欲を言えば、腿よりも脹脛を狙いたいわね。やや高等技になるけれど、これが結構痛いのよね。苦痛に歪む顔を見るのはとても楽しいわよ』
愉悦の笑みを浮かべて切れの良いカーフキックの素振りを繰り出す魅琴の姿に、航は大いなる耽美の片鱗を見た気がした。
(思えば、あの時から僕の性癖って本格的に歯止めが利かなくなった気がするな……)
航は屋渡の槍の刺突を躱した。
羆の時に油断した隙を突かれた経験があり、過ちは繰り返さない。
もう一発、屋渡にカーフキックを浴びせると、航は一旦距離を取った。
「貴様……。訓練では手を抜いていたのか……。ふざけた奴め……!」
屋渡は苛立ちの表情を浮かべ、様子を窺っている。
不用意に懐へ飛び込んで厭らしい攻撃を受けたくないのだろう。
「良いだろう。油断していた、甘く見ていた。ここからは術識神為の『形態弐』で相手をしよう」
屋渡は離れた場所から三本指の手で正拳突きを繰り出した。
瞬間、腕の槍が勢い良く伸びて航に襲い掛かってきた。
(伸びた!)
しかし、これは航の取って予想の範疇だった。
間一髪で槍の襲撃を躱した航は、屋渡との間合いを一気に詰める。
相手が長物の武器を使う場合、懐に入れば有利になると思った。
航は更に一発カーフキックを屋渡に喰らわせると、横跳びで素早くその場を逃れた。
後へ伸びた槍がUターンして背中を狙っていると分かっていたからだ。
屋渡は目を瞠り、槍の長さを元の状態に戻した。
「よく分かったな」
「不用意なことはするもんじゃないな、屋渡。その槍が変幻自在なのは最初に見せてもらった。後へ飛んで行ったら、当然戻って来ると思っていたさ」
航は漫画やアニメの影響で、戦闘に関する異能の使い方にある程度の察しが付く。
屋渡が槍を蜿らせ、舌で舐めた時からこうなると分かっていた。
思わぬ苦戦を強いられた屋渡は、腹立ち紛れといった調子で腕を振るい、再び航の方へ槍を伸ばしてきた。
槍は蛇の様に蜿り、航を貫かんと追い掛けてくる。
変則的な動きを完全に回避することは出来ず、掠り傷を負う航。
だが、致命傷は避けられていた。
航は再び、魅琴のアドバイスを思い出す。
『相手が思う様に行かず、苛付いてきたらチャンスよ。虚を突ければ大きな隙が生まれる。例えば手持ちの鞄や、何も無ければ上着なんかで相手の視界を奪えば、逃げるには充分だと思うわ』
良し、それで行こう――航は屋渡の頭を上着で覆う作戦に出ることにした。
その大きな隙に、どうにかして虻球磨新兒と繭月百合菜を起こして逃げるのだ。
丁度、拉致の手口の意趣返しにもなる。
しかしその時、屋渡の槍が地面に深く突き刺さった。
狙いはすぐに分かった。
(下から来る気か!)
航は走った。
じっとしていると死角から串刺しにされてしまう。
案の定、槍が地面から勢い良く飛び出た。
走らなければ命は無かっただろう。
再び槍が蜿って地中に潜る。
逆に、槍が地中に隠れているのは大きなチャンスでもある。
航は上着を脱いで手に備えた。
だが、予想に反して屋渡の本体が航目掛けて飛んできた。
あまりの速度に航は何も出来ず、左拳を顔面へ真面に喰らってしまった。
屋渡の槍は伸ばすだけでなく縮めることも出来る。
その勢いを利用して、地面に引っかけた槍を護謨の様に収縮させて飛んできたのだ。
強烈な拳打を受けた航は、仰向けに倒れて後頭部を地面にぶつけた。
「手間取らせやがって……」
屋渡は航を見下ろし、二重螺旋状の槍頭を航の心臓に向けた。
「今度こそ死ね」
言うまでもなく、心臓を貫かれれば如何に神為で守られていようと即死である。
万事休すに見えた航だったが、彼は咄嗟に上着を砂利へ持ち替えて、屋渡の顔面に投げ付けた。
「ぐぁっ!」
屋渡が一瞬怯んだ隙に起き上がった航は下腹部に蹴りを見舞った。
「莫迦な、痛恨の打擲が完全に入った筈だぞ」
「僕の顔面は常に最強のパンチを想定している。だから、特別に堅い、我慢強い!」
実は、航の顔面は異常にタフなのだ。
単に、幼き日に受けた魅琴の拳があまりにも強烈だったからだ。
屋渡は頻繁に航へ暴力を向けてきたが、顔面に攻撃したことは無かったので気付かなかったのだ。
(ありがとう、魅琴。君には助けられてばかりだ)
故郷の幼馴染に思いを馳せる航を見据え、屋渡は抑えきれない怒りに震えていた。
青筋を浮き立たせ、完全にキレる秒読みに入っていた。
「卑怯者め……! 道具を使って不意打ちした分際で勝ち誇って、恥ずかしくはないのか……?」
「最初に拉致された時は不意打ちだったし、その後銃で脅されたし、それで散々勝ち誇ってたよな、お前」
「それとこれとは関係無いだろうがアアッッ!!」
屋渡は痛い所を突かれたのか、逆ギレした。
叫んでやや落ち着いたものの、呼吸を荒らげて血走った目を航に向ける屋渡は、完全に極まっていた。
「もう良い……。こうなったら本気の本気で殺してやる」
屋渡の体が激しく発光し、航の目を眩ませる。
「『毘斗蛇邊倫・形態惨』!!」
光の中、屋渡の体は更なる異形へと変貌していく。




