正月に二才の女の子を見て考えた事
正月に実家に帰りました。元旦に、実家から親戚の家に行きました。親戚の家には二、三時間いて、顔見せ程度でした。
私のいとこが結婚していて、いとこ夫婦が、二才の女の子と、零才の男の子を連れてきていました。赤ん坊がいると自然、みんなが赤ん坊を見るようになるので、みんなで子供二人をあやしたり、遊んだりしていました。
私は社交的ではないので、遠くから見ていましたが、赤ん坊と接する機会も普段ないし、これを機に観察しようと考えました。
二才の女の子は可愛らしく、小さな子ども用のパズルゲームをやっていました。それは4つのブロックでできていて、ブロックを組み合わせるとうまく「ぞうさん」ができたり「りんご」ができたりする、というものです。
まだ二才なので、あまりよくわかっていない感じでしたが、同じ色を合わせて、惜しいような組み合わせを作っていました。
うまく組み合わせると、まわりの大人たちが笑います。明るい声をかけます。それに対して、間違えた組み合わせをすると、まわりの大人たちが「あれー」とか「そうかなー」と言います。正解の時に比べれば笑いが少ない。
子供は、おそらくこういうまわりの感情作用を元にして、「ぞうさん」や「りんご」といった概念を覚えるのだろうな、と私は考えました。当たり前ですが、子供は何が正解かわかっていません。子供は正解を、おそらく最初は、こうした周囲の大人の感情作用によって覚えるのでしょう。いきなり概念で、論理的に覚えるとは考えられませんから。
また、こういう状態は、大人の我々においても思い当たる事でもあります。我々は周囲の感情的判断によって、何が正解か、間違いかを決めようとします。まわりの人達が喜んでいたら正解、悲しんでいたら間違い。案外、大人になっても子供の頃と、本質は変わっていないのかもしれません。
それと、私が感じたは、「概念」というものの強力さが、二才のちっちゃな女の子の時点から始まっている、という事でした。
考えてもみて欲しいのですが「象」という概念は、実際の象も、テレビの中の象も、絵に描いた象も、みな一つの「象」であるという風に強引に統一してしまいます。
この「概念」という思考方法がいかに強力でいかに恐ろしいものか。我々はそれをあまりに自然に使っている為に、その道具の危険性に気づきすらしないのだと思います。
何故それが危険な力を持っているかと言うと、私が絵に描いた象も、実際の象も、全て同じ「象」という概念として抽象化してしまい、個々の事物が持っている多様性や変化というものを捨象してしまうからです。
二才の女の子が4つのブロックを組み合わせて「ぞうさん」を作るという、微笑ましい光景の時点から、既に「大人」になる為の準備が周到に仕組まれているのだな、と私は思いました。社会にとってもっとも好適な「大人」とは、社会が規定した概念をそのまま受け入れる人間の事に他なりません。
強力な概念の統一作用を、高等生物である人間はこんな幼い頃から受け入れている。これはもちろん、常識的に生きる上では必要な事ですが、同時に、いかに常識を越えるのが難しいかという事をも意味すると思います。
女の子のパズルを見ていて、私が考えたのは「画家」についてです。
画家にとっては色彩や形といったものが全てです。画家にとっては、実物の象も、画面の中の象も、ペンで描いた象も同じ象、というわけにはいきません。画家はそれらの差異をはっきりと認識しなければならない。
おそらく、画家の努力とはだから、我々が概念によって事物を統一する作用以前に戻る事ではないでしょうか。
こんな想象もできます。まだ小さい子供がいるとします。子供に対して親が、「今、画面に映っているぞうさんも、紙の上に描かれたぞうさんも、同じ「ぞうさん」なんだよ」と教えようとします。しかし、子供はそれらが同じ「ぞうさん」だとは、頑固として認めようとしない。
親はしびれを切らして「この子はなんて馬鹿なんだろうね」と言う。子供は言います。
「だって、ちがうじゃないか」
この時、"正しい"のは親でしょうか、子供でしょうか。…画家というのは、我々が概念で統一する前の、形態と色だけでできていた世界に戻り、それを更に、彼自身(芸術家自身)の世界観によって再構成する存在ではないでしょうか。そういう意味において、画家にとって赤ん坊は一種の"先生"と言っていいかもしれません。
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正月に親戚の子供を見て、私は大体そういう事を考えました。このエッセイは緩いエッセイなので、これ以上の結論は出す事なく、稿を閉じようと思います。