第一話 心の霞
人の心は多面体だ。
その面の数は人によって様々である。
裏表のない人間なんてこの世に存在しない。
それがこの力を持って生まれた俺の出した結論だ。
でもそれが人間なんだとわかると、自分自身を含めて人が嫌いになり生きるのがしんどくなる。
「君が米田一糸君だね、今日は死ぬには勿体ない日だ、どうせ死ぬなら私の下で少し生きてみないか?」
俺は初めて人の心が球体に見えた。表裏の存在しない、本音と建前が見えない一面的な心の持ち主。
それが嘘でもいい、今の俺はその手を掴んでみたくなった。
――――――
少年米田一糸はある些細な特殊能力を持っていた。
「米田君、今日の体育祭の打ち上げなんだけど参加する?」
クラスの体育委員の男子と女子が近づいてくる。彼らの表情は微笑んでいるように見えるが、米田は更にその後ろにある霞を見ていた。
「いや、予定があるからやめとくよ」
その霞は人の心だ、感情に合わせて色を変え、その人の思いに合わせて動く。
二人の心は無関心、むしろ遠ざかっている。
米田は二人が彼を受け入れてないことに気づいていた。
「オッケーじゃあ不参加は三人か」
「渦木君家のお店貸し切りにしてくれるみたいだから、打ち上げメンバーグループに入れて住所載せとくね」
二人の霞が穏やかになり、色も戻る。その様子を見て米田は更に心を沈ませる。
自分の心の霞は見えない、窓ガラスに反射する自分がまるで透明人間のように思えた。
クラスのみんなは次々と打ち上げに行く支度をして出ていく。
残った教室内で担任の教師が帰りを促してきたので、したがって米田も教室を出た。
高校二年になり友達というものを作るのを彼は諦めていた。
米田が初めてこの霞を見たのは小学生の頃、クラスの数人の霞が一人に集中しているのを見た。そしてそれが攻撃的なものだとすぐに理解した。
そのグループはクラスで誰もが仲良しと言う程の女子グループだった。
そして彼の小学生ゆえの純粋な行動が悲劇を生んだ。
それから米田は霞の色に怯えて暮らすようになった。
街を歩く一人ひとりの色が気になる、自分と無関係とわかっていても見てしまう。
そして普段からよく見ているからこそ、目に映った異様な霞に気付いた。
その霞の色を見たのは人生で二度目だ。
ドス黒く、その中に赤が混ざるまるでドロッとした血液のような重苦しい霞。
攻撃性を黒く染めた殺意。
今目の前を歩く男は人を殺そうとしている。
その霞が纏わり付く相手は更にその先を歩いている。姿は確認できないが明確に黒い霞がうごめいてる。
吐き気すら催すその霞に米田は膝を震わせ息を荒げた。
「ん? 気付いたのか、どう見てもただの高校生であるお前が?」
「……ッ!?」
顔を上げると殺意の霞を持つ男が目の前に立っていた。その表情はポーカーフェイスというべきか、他人が見ればただの無表情、とても今から人を殺そうとしている人間の顔とは思えない。
「殺気は抑えている、動きも癖を消した……妙だな、お前は何者だ?」
男が米田の肩に手を乗せる。しかしそれは逃さない為のものだった。力強く決して逃さない、その意志が変化する霞と共に米田へ伝わる。
「な、なんですか?」
あくまで冷静に、相手に不快感を与えないように、そして殺意に気づいてないふりをしなくてはならない。
しかし米田は人の心を読み取れても自分の心を隠す術を知らない。
一度感じ取った殺意がいつまでも心の奥を掴んでいた。
「ここは人が多いな、付いてこい……騒げば殺す」
男は更に肩を掴む手に力を入れた。
そしてもう片方の手にはナイフがあり、米田だけに見えるようチラつかせる。
「はい」
怯える米田とは対照的に落ち着いた表情で男はカラオケの受付を済ませる。
そして一般人のようにドリンクバーから飲み物を入れ部屋へ米田を押し込んだ。
「一曲歌うか?」
「え?」
「カラオケに来たんだ、歌わないなら歌うぞ」
そう言って男はデンモクから曲を選び、カラオケが始まった。
見た目通りなら三十代だろうか、その年代に流行っていたであろう曲を歌っている。
米田は男の霞をずっと観察している。だからこそ男の理解不能な行動に更に頭を混乱させていた。
寝ている人間ですら夢に左右されて霞を変化させる。つまり今目の前の男は夢すら見ていない、何も脳に浮かべていない状態だと言える。
その心は裏表ではない、多面的とも言えない、まるで心をマジックミラーの箱の中へ閉じ込めているかのような状態。
外からは何者も観測できない、そんな不気味さが米田を更なる恐怖を増加させる。
男は歌い終わった後、マイクを置き米田の対面へ腰を下ろす。
「自己紹介はいらない、簡単に答えろお前は何者だ」
「た…ただの高校生です」
「……そうか、まぁそうだろうな、お前から演技を感じ取れない」
男は米田への視線を外さずに見つめ続ける。
沈黙の時間が流れる、米田の固唾を飲み込む音がカラオケのインタビュー動画よりも大きく聞こえた気がした。
「俺の中で今三つの仮説がある」
ドリンクに指をツッコミ氷をかき混ぜ始める男、たまに他人が見せるその動作にも米田は怯えながら目を外さなかった。
「一つはお前がやはり何かしらの組織のもので一般人のフリをしていること」
その言葉を言い終わると同時に男は指についた水滴を米田に飛ばす。反射的に避けようと体を横へ大きく倒した米田のその眼前に、男はナイフを構えていた。
「その仮説も今消えた、この状況になってまで演技をするにはリスクが高いだろう」
ナイフを懐に隠し男はやはり視線を外さずに米田を観察し続ける。
米田も息を整えながら座り直した。
「二つ目は俺のただの勘違い、お前は極端に他人を怖がる人種……だがそれも可能性は低いだろう、そういう奴は学校に行かない気がする」
そして男は初めて口角を少し上げ足を組みながら座りなおした。
「三つ目の仮説、お前……能力持ちだろ?」
その言葉に心当たりがある、そんな顔を見せてしまった米田に男は更に笑みを浮かべる。
そして今まで無色だった霞に色が付いた。この男の喜びは嘘じゃない。だからといって米田の恐怖が紛れる訳では無い。
「納得がいった、殺気は消していた筈なのになぜバレたのか気になってたんだ、思考すら限りなく無に近づけていた、行動に移すその瞬間だったんだ、その瞬間にお前の挙動が変になった」
その言葉が意味すること、それはこの男が人を殺すその瞬間まで何も考えずに動けるということ、人の死に対して何も考えてないこと。まるで機械のような眼前の男、今すぐ逃げ出したい、次の瞬間あの殺意が自分に向いてくるかもしれない。
「恐らくは人の深層心理を見る力か……これは厄介だな……そうだ、お前の力を寄こせ」
その瞬間あの赤黒い霞が一直線に米田へ集まる。
「うわぁぁ!!」
不格好でも構わない、今すぐにこの場から離れないといけない、そんな思いが米田をギリギリ動かした。しかしカラオケの扉は歪に捻じ曲げられ開けることができない。
さっきまで米田が座っていた所には数本のナイフが壁やソファの背もたれに刺さっている。それを見て男は頭を掻きながら立ち上がった。
「また気付かれた、なにかアクションを起こす目的意識が読み取られたのか……それとも未来を見てるのか?」
逃げ場はない、この男に殺される、そう悟った米田はもう何もする気が起きなくなりその場に放心状態でいた。
「諦めたか、勿体ないな」
男の手が近づいてくる、終わりの瞬間が目の前に迫る。
命が今終わる。
「青葉ぁ! いたいけな少年相手に少し大人げないんじゃないか?」
隣の部屋との間にある壁が粉砕され、マイクを持った女が部屋へ入ってきた。
「奈良島か、今お前を殺すには準備と時間が足りないな」
「あら、私は準備万端だけど?」
両者睨み合う時間が続く、何がなんだかわからない状況だが、米田に唯一理解できたことは隣の部屋からきた奈良島は彼を助けようとしてくれていること。
「目的はこのガキか」
「そうよ、あんたの目的は別でしょ?」
「あぁ、さっき別のやつが目的を達成した、今は自由時間だ」
「その子を殺すなら全力で止めるけど」
「なら少しだけ遊んでやる」
青葉の霞が再度米田に向かう、それが二人の開始の合図となったのか奈良島は目で捉えるには難しい速度で米田と青葉の間に割り込んだ。
「へぇ遊びか、私は男には全力で相手する派だけどね」
「お前との全力はヤケドしそうだ」
この日『カラオケヨマネキ』の全階層が崩壊した。警察はテロを視野に入れてこの事件の対処にのぞむ。
――――――
体がふらつき、息がこれでもかと限界を迎えても米田は走り続けた。
崩壊していく建物の音が耳に残る。刃物が肉を裂きそこから吹き出る鮮血の光景が脳裏にこびりつく。
なぜこうなった、いつから歯車は狂った。
全てはこの力のせいだ。一度に大量のストレスを感じた米田の心は壊れていた。
「もう疲れた」
人に怯えて生きること、人に気遣って生きること、生きていく上で他人との関わりは決して逃れられない。だがそれを耐えられるのは建前を本音として受け入れる事ができる人間だ。常に人の心を見れる米田はそんな器用なことができなかった。
目の前に踏切がある。
警報機が電車の通貨を知らせる。
今この足を踏み出せば多くの人に迷惑が掛かる。だけど自分はこの世界から解放される。
遮断器の前に立ち、遠くから見える電車の光を見る。
「……」
最後に残す言葉は思いつかなかった。
だけど起こす行動は頭の中ではっきりとしていた。
遮断器の隙間を通り前へ大きく飛び出す。
その瞬間体が後ろへ強く引っ張られた。
強く閉じたまぶたを開ける。
目の前には緊急停止している電車があった。
次に上を見上げる。
さっきまで青葉と戦っていた奈良島が血まみれの姿で見下ろしている。
「間に合った……満身創痍のお姉さんをここまで焦らせたのは君が初めてだよ、あ! 初めてついでに初めまして私は奈良島染安よろしくね」
優しい霞が米田を包む。
この霞は見に覚えがあった。子供の頃からの幾度となく包まれた、親から子へ向けての親愛。
さっきまで忘れていた無償の温もりに米田は思わず涙を流した。
「君が米田一糸君だね、今日は死ぬには勿体ない日だ、どうせ死ぬなら私の下で少し生きてみないか?」
なぜ初対面で彼女が自分を助けようとしているのがわかったのか、今なら理解できる、彼女はなんの混ざりっけもなくずっと自分へ優しさを向けていた。
あの殺し合いの最中でも。
「あなたは裏表がないんですか?」
「私は自分の気持ちには正直なんだよ」
彼女が差し出してきた手は血にまみれていてとてもむごたらしいものなのだが、それでもその手を掴みたくなった。
「俺は上手く生きれるんですかね」
「それはわからない、私だって生きるのは上手じゃないしね、どうせ人生一度きりなんだ、自分の手で終わらせる事はできるけど、もうちょっと無様にもがいてみるのもアリだと思うな」