岩陰谷は恋盛り
スマホ変換による、意味不明誤記発見→修正しました
岩の多い渓谷に、草食の龍人たちが住んでいた。谷の名前は岩陰谷。里の名前は岩陰の里という。巌窟に住む魔法使いや、地底湖の宝石職人たち、そして下流の沃野に住む人間とも仲良く暮らしていた。
龍人たちは山の植物に詳しく、時折訪れる薬師たちとも交流がある。とはいえ特別な霊薬は伝説上のものであり、今に伝わってはいなかった。
一際高い岩山の頂には狼の城がある。ここ岩陰谷も含むキリバー大公国の元首が住んでいる所だ。山向こうの魔の地から人界を守る大切なお役目である。ゲートキーパーと呼ばれる彼らは、人間に魔法が秘されていた遠い昔から人との縁を結んでいたという。
城の世継ぎアルフォンソ・ルドヴィコも人間の国に恋人がいて、近々婚約の儀が執り行われるのだという。それは人間の国で行い、成婚式は山頂の城で盛大に祝うとのことだ。
「カンナ、お城に納める銀葛を採ってきてくれないか」
龍人の里、薬草染めの名人であるロックス氏が娘にお使いを頼む。
「はあい、すぐに行ってくるね!」
若い娘にしては低く凛々しい声が返事をする。鱗を立てたような前髪は、龍人族の特徴である。龍人の髪色はまちまちだ。その能力に寄るのだという。ロックス氏は色を操る金色で、ロックス夫人は癒しに長けているため青い。娘のカンナは癒しの青に風を呼ぶ緑を混ぜた珍しい色だった。
カンナは素朴な茶色の靴に風を纏わせ、切り立った崖を駆け上る。龍の姿を取っても良いのだが、崖を登る程度なら風に乗るだけで充分だった。龍人は特徴的な前髪と尻尾を持つ人の姿で生まれる。物心がつく頃には、龍の姿に変わることを覚えるという。
「カンナ!上に行くのか?待ってくれよー!」
身軽に岩を駆け上る金茶色の短髪少年が、カンナの後を追いかける。明るい響きの元気な声だ。頭には猫の耳があり、尻尾もひょろりと細長い猫のものである。
「ミック、おはよう」
カンナは長い青緑の髪を靡かせて振り返る。
「今日ね、銀葛を採りに行くんだ」
「ご婚約のお祝いに使う蔓草だね?」
「そう!アルフォンソ様は、ミランダ様に銀葛を月影草で染めて編んだ帽子を贈るんだって」
銀葛は、この岩山でもごく一部にしか生えない蔓草だ。銀色の蔓に銀の葉をつけ、100年に1度だけ小指の先ほどの花を咲かせる。丸い花びらは五枚で、めしべもおしべも透明である。がくと花茎までが透明だ。成る実もまた透明だった。風に揺れると、光の加減でそれとわかる。
この花が伝説では万能の霊薬になるのだが、製法は失伝している。今回使うのは蔓である。蔓はしなやかで強く、染まりやすさも細工物に向いていた。乾燥させると銀色は錆びたように黒ずむ。そこがいいと言う人もいた。染めないまま籠や帽子に使う場合もあった。
「ご自分で編まれるのか?」
「まさか!家のお父さんが染めたら、達人の職人さんが編むんだって」
「へえー」
「職人さんは山腹にある鴉村の人らしいよ」
「鴉かあ。知り合い、いないなあ」
「私も、知ってる人いないよ」
鴉村は、外部との交流が少ない。地底湖の宝石職人一族といがみ合っているらしいこと以外、あまりよく分からなかった。
「なんでも鴉村には、魔法の力が籠った帽子を編む達人がいるんだって」
「鴉たちって、気難しいんだろ?」
「アルフォンソ様、ご自身で何回も通って、お願いなさったそうだよ」
「よっぽどミランダ様がお好きなんだな!」
あっという間に追いついて並んだミックの、健康な牙がキラリと光る。カンナの頬がフッと緩んだ。
2人が出会った日の空は、今日と同じように高く澄んでいたのをカンナは思い出す。猫族と呼ばれる猫獣人の村は谷を抜けた森の中にある。険しい岩山の谷に位置する岩陰の里とは、殆ど交流のない里だった。むしろ更に先にある沃野に住む人間たちとの方が仲が良かった。
カンナは、龍の姿になってから飛べるまでに少し時間がかかった。風の力を持つためなのか、自力で飛ぶ力が弱かったのだ。ついつい風に流されて、大人たちをハラハラさせてしまうこともしばしば。その日も飛行訓練に失敗して、遠くの森まで風に運ばれてしまった。
「風なんか嫌いだ」
不時着して木の枝に寝そべる不貞腐れた幼龍は、人の姿に変わることもなく、だらんと羽を休めていた。
「なんだお前。変な鳥だな」
茂った葉の中から、ヒョイと金茶色の顔がのぞいた。ぴんと張ったひげを震わせる仔猫の顔は、忽ちやんちゃそうな男の子へと変化する。頭の上に見える大きな三角の耳には、柔らかそうな金茶色の短い毛が生えていた。澄んだ緑色の眼は森の若葉を思わせる。
「龍だよ」
めんどくさそうな半眼で、カンナは仔猫に答える。
「龍?すげえ!かっけえ!」
仔猫は興奮して鼻の穴を膨らませた。
「別に、普通だよ」
龍人の里では、全員が龍人である。カンナはその中で落ちこぼれだ。
「普通じゃないよ。俺、羽ねぇ。羽エモい」
「失礼なやつだね。獲物になんかならない」
仔猫は失礼ではなかった。猫獣人は人間たちと仲が良いので、山奥にある谷育ちのカンナが知らない言葉を使ったのである。
「獲物じゃねぇよ!エモいって言ったの!」
仔猫は笑い転げた。
「かっこいいのに、抜けてんなあ!」
「エモいって何?抜けてるって悪口でしょ?」
「違うって!なんかいいなぁって意味だよ。すげえいいなって!」
「ほんとにぃ?」
カンナは疑わしそうに半眼を更に細めた。
「本当に!俺、ミック。森の村に住んでるよ」
「ふうん」
カンナは不満そうに口を曲げた。
「ねえ、名前教えてよ」
ミックは丸い眼を若葉の色に輝かせてにじり寄る。幼龍は仔猫の倍ほどもあるのだが、恐れもせずに顔の側へとやってきた。平地を歩くようにスルスルと。2本脚でも、猫の姿同様のバランス感覚である。
「あんた、すごいんだね」
カンナは目を開けて賞賛した。
「えっ?何が?」
「枝歩くの上手」
「へへっ、猫だからな!」
ミックは得意そうに胸を反らした。
「それと、あんたじゃなくてミックな!」
ミックが見せる他意のない気やすさに、カンナは毒気を抜かれてしまう。
「ミック。私はカンナ。岩陰の里に住む龍人だよ」
「龍人?人の姿になれるの?」
「見たい?」
「見てぇ!」
カンナは不機嫌をすっかり消して、さっと人の姿を作る。
「ひゃあっ」
「危ないっ!」
馴染みのない木の上で人型になったので、カンナは足を滑らせた。小柄だがすばしこいミックは、反射的に抱き止める。だが、仔猫の腕力はそれほど強くないのだ。2人して空中に放り出されてしまった。
咄嗟に龍の姿になったカンナの背中に、ミックは人の姿を保ったままでひらりと着地する。
「やっぱ、ミックすごいよ」
カンナは首を後ろに捻って言った。
「猫だからな!」
ミックはまた胸を張る。
「バランスとるコツ教えてよ」
カンナは危なっかしいヨロヨロ飛行で地面に降りてゆく。
「考えてやってる訳じゃないからなあ」
ミックは申し訳無さそうに答えた。途中でカンナの背中から飛び降りて、危なげなく枯葉の上に立った。
2人はその日以来仲良くなった。ミックは猫族の中でも足が速い。家の手伝いもそこそこにいつも野山を駆け回っていた。カンナに乗せてもらえば空だって飛べる。大きくなってからは、遠く離れた龍人の里まで、毎日のように走って訪ねて来るようになった。
「お母さんたちは知ってるの?」
初めてミックがやってきた時には、カンナはギョッとしたものだ。
「わかんね」
「ちょっと!心配かけちゃダメじゃないの」
「別にー。もうチビじゃねぇしー」
ミックの尻尾は、不機嫌にタシタシと半開きの扉を打つ。
「さっさと帰んなさいよ」
「えー?せっかく会いにきたのに追い返すのかよう」
「種族間問題になるよ」
「硬いこと言うなよ」
「今度はちゃんと許可取ってから来てね」
「ちぇっ、カンナの意地悪龍め」
不満たっぷりなミックの鼻先で、カンナは扉をピシャリと閉めた。
そんなこんなでそろそろ2人もお年頃。キリバー大公国のお世継ぎアルフォンソ様は少しだけ年上だが、同じ世代である。雲の上のお方ではあれ、恋愛結婚ともなれば若者たちの噂の的だ。
これから採りに行く銀葛が、その婚姻の贈り物を作る素材となる。カンナとミックは、それだけで心躍るのだった。
「月影草ってのは摘まなくていいのか?」
「そっちはストックがあるよ」
「貴重な草なんだろ?」
「うん。岩陰谷の西側の崖で、晴れた春の夜にだけ咲くからね」
「滅多に採れないのにストックあんの?」
「需要がたくさんあるから、採れる時には一家総出で摘んで切らさないようにしてるんだ」
「へえ」
「月影草は恋の花だからね」
カンナの言葉にミックの頬から真っ白な髭がピョコンと伸びた。猫族は驚いたり嬉しかったりすると、人間の姿でも髭や猫耳が出てきてしまうのだ。
「あははっ、どうしたの」
「カンナの口から恋なんて言葉が出たからびっくりしたんだよ」
「なんで。失礼だなあ」
「えっ、まさか、カンナ、その」
ミックは何か言いたそうに口籠る。登る速度は緩めないが、おどおどとカンナを見たりゆく手を見たり落ち着かない。
「何?」
「いやその、まさかカンナ、好きなやついるの?」
「んんー?」
カンナが眼をまんまるにした。
「ミック、酷くない?」
「へ?」
今度はミックが眼をまるくした。若葉色をした猫目の瞳孔がキュッと細まる。
「何がだよ」
「今年の春宵祭に来てくれたら許してあげる」
「許すって。何に怒ってんだよ?なあ?」
「自分の胸に手を当てて、よおーく考えてご覧なさいよ!」
カンナは朗らかに笑い声を響かせた。ミックは納得がいかずに鼻に皺を寄せて眼を細めた。
ミックは小さな頃からカンナが大好きだった。龍の姿はかっこいいし、家業を手伝う姿は大人っぽくて憧れる。それでいて不器用な所もあるのが可愛い。飛べるようになるまで人よりも時間がかかってしまった。それでも懸命に練習を重ね、今では悠然と大空を滑ってゆく。
時々お姉さんぶってお説教をして来るところには反発もするが、それだって魅力のひとつだとも思っていた。
(同い年なのに、可笑しいなあ)
最近は身体に少し丸みが出てきた。青緑色の長い髪が風に煽られ、ちらりと覗く白いうなじにドキリとする時もある。
(でも、ホントに何を怒ってんだろ?)
先になり後になり険しい斜面を上へと進む2人は、しばらくは無言で春の陽射しを浴びていた。
ミックはその夜、家族と囲む食卓で文句を言った。
「カンナのやつ、変なんだぜ」
「なに、カンナちゃんと喧嘩したの?珍しい」
三つ子の姉ドリーが好奇心を見せる。
「今日さ、お城に納める物の材料を採りに行くって言うから、付いてったんだ」
「ふうん?」
「探しに行ったのは銀葛って言うんだけど」
「うんうん」
「染めに使う月影草ってやつがさあ」
ミックは言い淀んでパンを千切った。
「恋の花なんだって」
「へーっ!」
「きゃーっ」
「あらぁ」
テーブルにはひとしきり黄色い声が上がる。ミックは憮然としてパンを口に入れた。
「あいつが急に恋とか言い出すから、その、なんだ、好きなやつとかいんのかなって、聞いてみたんだけどよ」
「は?」
ドリーが虚をつかれたように手を止めた。
「え?」
三つ子の兄アースが眼を細める。
「何言ってんの?」
一つ上の兄キッドがまじまじとミックを見つめる。この家の子供達は皆お揃いの毛並みで、金茶色である。
「ばかなの?」
キッドと双子のセリが真顔になる。
「ミック」
母がため息をつく。父と祖母は無言で首を振った。祖母だけは金色の瞳だが、他の家族はミックと同じ若葉色の瞳をしていた。それが揃ってミックに向く。
「なんだよ、みんな」
ミックは居心地悪そうにすり身団子を齧った。
「カンナにも酷いとか言われたし」
ミックが非難される理由を理解出来ないまま、岩陰谷に春宵祭の夜が来た。猫族はもとより夜行性のため、夜中の遠出も特に禁止されることなく、ミックはカンナを呼びにきた。
「よー、きたぜー」
「今晩は、ミック。じゃ、行こうか」
祭装束は、男も女も刺繍で縁飾りをした、白い上着と白いズボンを身につける。祭のハイライトは武芸大会だ。そのため、動きやすい服装をするのである。
「今年はさ」
月の明るい谷間の里を、カンナは西に向かって歩き出す。
「ん?なんだよ?」
「会場に行く前に寄りたいとこがあるんだ」
「へー?」
カンナは悪戯なような、怯えたような、何ともいえない目付きで月を見上げていた。
西側の崖には、青白く月が照っている。遠目には何もない切り立った岩山だ。中腹には荷馬車も通れる道があり、キリバー大公が住む城へと続く。その上にもまたゴツゴツとした岩壁が、空へと伸びて山道に影を落とす。
「あの崖の上の方には、裂け目があってね」
ミックは道より上に登ったことがない。
「そこに行きたいんだ」
「裂け目になんかあんのか?」
カンナは目線だけ下ろしてミックを見た。
「行けば分かるよ」
「まあいいや。うん、行こうぜ」
カンナはぎこちなく笑う。ミックはなんだか胸が苦しくなった。
「わっ、ミック!」
しなやかに身をくねらせて、ミックはカンナに擦り寄った。眼を細めて鳴らす喉の音が月夜の道にゴロゴロと響く。
「歩きにくいよ」
苦笑いのカンナにまとわりつきながら、ミックは西の崖へと向かう。崖下でカンナは龍の姿へと変わった。服は特殊な繊維で作られたもので、するりと脱げて首に下げた鞄に収納される。人間の姿に変わる時には、自然に全身を覆うのだ。
「乗って」
言われてミックはひらりとカンナの背中に飛び乗る。ほっそりした金茶の四肢を踏ん張って、美しい青緑色の背中でバランスをとった。猫族の服は毛皮が変化するので、猫の姿でいる時にも特に収納用の袋は必要がない。
飛竜の背中に乗った金茶の猫は、月光に染まり銀緑に輝く毛を遊ばせる。翼を広げた青緑色の龍は、光の波を分けて浮き上がった。ミックの喉が盛大にゴロゴロとなる。若葉色の瞳は、美しく煌めくカンナの鱗に吸い寄せられていた。
あっという間に上昇したカンナは、目指す裂け目に到着すると、再び人の姿を取った。トンと軽い音を立て降りるミックは、物珍しそうに岩壁の裂け目を覗き込む。
「ほーうっ」
思わずあげた歓声は、月光に洗われる幻想的な白い花畑に吸い込まれて行った。
「月影草だよ」
「これが」
「綺麗でしょ」
「それに、いい香りだ」
「良かった」
カンナの凛々しい顔立ちがふにゃりと緩んだ。ミックはヒュッと息を呑む。目の縁が赤らんで鼓動が速くなった。
「龍人には良い香なんだけど、他の種族にはそうじゃないかもしれないから」
言い訳のようにゴニョゴニョと呟くカンナは、そそくさとかがみ込む。少し耳が赤い。ミックはめざとく赤みを見つけて頬を緩めた。
カンナは月影草を茎のつけ根から丁寧に手折ると、カバンから取り出した麻袋に詰めてゆく。
「手伝おうか?」
「えっ、うんっ、ありがと」
背中を丸めて俯いたまま、カンナの声は裏返る。
「なんだよ。変なカンナー」
「変てなによ、嫌なミック」
2人は顔を合わせず笑い声をあげた。
「あのね、ミック」
「ん?」
「月影草は、結婚の贈り物にする染め物にも使うけど」
「うん」
2人は手を止めずに話を続ける。横長に開いた岩の裂け目から銀青の光が絶え間なく注がれる。冷たい春の夜風が月影草の優しい香りを運ぶ。
「春宵祭の武芸大会では、意中の人へ贈るんだよ」
「へえ。そういえば、毎年選手が花を貰ってたな」
「あら、見てたの。武芸にしか目が行ってないかと思ってたよ」
「今年はカンナがその花を売るのか?」
カンナが凍りついたように動かなくなった。
「おい、カンナ?大丈夫かよ?どっか痛い?」
ミックは慌ててカンナの顔を覗き込む。
「うおぉっ!」
見た瞬間に、耳と髭が飛び出して尻尾はタワシのように膨らんだ。髪もボワっと逆だった。
「ねえミック、わざとなの?」
若い娘にしては元から低いカンナの声が、地響きのようにくぐもって岩壁に反響する。
「ひえぇぇ」
ミックは尻餅をついた。月影草の白い花がザザアッと音を立てて一斉に伏せてゆく。微かに漂っていた香りは、急な刺激で強くなる。
「な、なに?どうしたの?」
「私、今年は武芸大会にでる」
ミックがさっと蒼くなる。
「え、まさか、誰かに月影草を貰っちゃったの?」
絶望感を丸出しにして、ミックはカンナに顔を近づける。
「ん?でもなんで、怖い顔してんの?ふ?う?んん?」
カンナは眼を吊り上げて、ミックの顔を押し除けた。
「近いよ」
それから猛然と月影草の収穫を再開した。瞬く間に麻袋はいっぱいになり、カンナはさっさと龍になって崖から降りてしまった。
後に残されたミックは、ポカンとカンナの行方を目で追うばかり。
「なんだよ。なんなんだよ?」
全く分からない様子で、ミックは裂け目の縁から崖の下を見下ろした。月の下で黒々と流れる谷川の音が、聞こえ始めた祭囃子と響きあう。ミックは少し寂しくなった。
「カンナ、本当にどうしたんだろ」
大好きな幼馴染の気持ちが分からず、ミックはぼんやりと遠くの音を聞いていた。
ブーン、という小虫の羽音で我に返って、ミックは月影草の群落を振り返った。短剣を円く並べたような細い花びらが重なる八重咲きの花は、勇壮な龍に相応しい大輪である。茎は太いが、指を添えればぽきりと折れる。肉厚の葉は八ツ手に別れ白く葉脈が浮き出している。表面にはびっしりと銀の和毛が生えていた。
「意中の人に贈る」
ミックは魅入られたように、呆然と口を動かした。無意識に溢れたその言葉に自分でビクリとして、ミックは金茶の眉を情けなく下げる。
「意中の人かぁ」
ため息をつくと、一本の花に手を伸ばしてそっと折る。
ミックはもう一度裂け目の縁まで戻り、なんとなく月影草を月光にかざした。キッパリとまっすぐな茎に、豪華でありながら可憐な花が載っている。青い光の波にくっきりと縁取られて、月影草は匂い立つ。
「カンナみてぇ」
急に愛しさが込み上げて、ミックは居ても立っても居られなくなってしまった。
「渡すか!」
ニヤリと白い牙を剥き出せば、ふわりと風が金茶の髪をかきあげる。月夜に光る若葉色の猫目が、遠く祭の会場を求めて谷底を走る。
「突っぱねはしねぇだろ!」
カラリと笑うと、もう迷いはなかった。
「かっこいい龍の男に貰ってたっていいさ」
ミックの頭の中では、実在しないライバルが気高く武芸の構えをしていた。
「俺だって、カンナが大好きだ!」
月影草を片手に握りしめ、ミックは軽やかに崖を駆け下る。垂直に近い岩壁には、近くで見ると小さな草花が生えていた。夜は閉じてしまう花もあれば、夜しか咲かない花もある。葉陰に休む虫たちが、急に脇を走り抜ける脚に起こされて飛び出してきた。
「ははっ!虫たちも祭かよ!」
上機嫌で破顔するミックは、岩場を離れて川岸を行く。古い石橋を過ぎれば里外れについて、祭の喧騒が耳に愉しい。屋台の食べ物がさまざまな匂いを流している。
ミックは鼻をヒクヒクと動かした。
「龍人は草食だからなぁ」
毎年来るので解ってはいる。魚も肉も、チーズすらない。根菜スープ、焼いた野菜、薬草と漬け込んだ野菜、乾燥果物、ナッツのハーブ揚げ、飴がけ果物、花びら入りのねり飴。美味しいものはたくさんある。ただ、魚や肉だけがない。
里の道には人影が会場へと急いでいる。親子連れ、仲間と連れ立つ若者、そして恋人同士。去年までは微笑ましく眺めていたのだが、今年は少し胸が痛い。負けた気になっているライバルは、ミックの妄想の中にしかいないのだが。
「俺もカンナと手を繋いでみたかったなあ」
龍人は草食なので、ベタベタした様子はない。それでも幸せそうに寄り添って、時折互いに盗み見などをしているのだ。
「あれ?」
ふと、カンナと目が合った時のことを思い出す。小さな頃には平気だったのに、いつの頃からか気恥ずかしくて互いに目線を外すようになっていた。
「もしかして」
道ゆく恋人たちの甘く絡み合う視線は、月明かりにぼんやりとしか見えない。それでも、その様子には覚えがあった。
「やべえ」
ミックの背中に冷たい汗が流れる。
「早くカンナを探さねぇと!」
道ゆく人の波を縫い、ミックは月影草を揺らして走る。武芸大会は真夜中過ぎに行われる。今、会場では楽師たちが陽気な舞曲を演奏していた。大会の前には踊りの広場として使われているのだ。
踊りの輪の中に、青緑色の髪は見えない。特徴的なカンナの髪は、人混みの中でもよく目立つ。一体どこにいるのだろうか。ミックは伸び上がって辺りを見回した。
「カンナ!」
飲み物屋台の脇で、ピンと伸びた背中が見える。間違えるはずもない、カンナだ。ミックは走り寄りながら声をかける。
「カンナ、さっきはごめ、あっ、」
カンナの前には誰かがいた。見たことのない龍人だった。がっしりとした青年で、額には大人の証である円錐型の黒い角が一本生えていた。角は人によって形も色も本数も違う。カンナに角はまだなくて、どんな角が生えてくるのか楽しみにしていたのを思い出す。
青年の髪は黒々と艶やかで、岩陰谷の草食龍にしてはずいぶんと厳つい顔立ちの若者だった。龍人に比べれば遥かに小柄で細身な猫族のミックとは、正反対である。堂々と男らしい龍人に見えた。
ミックの足が、屋台の前で縫い止められた。
「ちょっと、猫さん、急に立ち止まらないでよ」
飲み物を求める客に迷惑そうに押し除けられて、そのまま人に流されてゆく。ミックは毎日のように遊びに来るので、大抵の里人には知られていた。龍人ばかりの祭の宵にひとり猫族が紛れていても、不審がる者はいなかった。
ミックは押されるままによろけて行った。耳鳴りがする。目は見えているのになにも見ていない。手にした月影草は、もみくちゃにされて花びらが半分になった。屋台を飾る灯籠の灯りがチカチカとして目眩がしてきた。
いつのまにか会場の隅まで押し出されていた。ミックは、大木に月を遮られた暗がりの中で前のめりに倒れた。土は冷たく、木の根は硬かった。
「いてえな……」
うつ伏せになったまま、ミックは力無く手足を伸ばした。
どれだけ時が過ぎたか分からない。月は高くなり、大木の下にも明かりが差す。ミックは瞬きをした。
「いつまで寝てても仕方ねぇしな」
ミックはノロノロと起き上がる。手にはまだ、月影草が握られている。無慚な姿ではあるが、香りは微かに残っている。2人で花を摘んだ群生地を思い出す。今夜のことなのに、遠い昔の出来事のようだった。
(なっさけねぇなあ、俺)
カンナに誰がいたとしても、花を渡そうと走って来たのに。岩陰の里を歩く恋人たちの様子を見て、もしかしたらと期待までして。関係性も分からない男と向かい合っていたというだけで、鈍器で頭を殴られたように気力も何もかも飛んでしまった。
(どうしよ)
ミックは改めて花を見る。ボロボロだ。とても他人様に渡せるような状態ではない。
空を見れば、月の顔に薄雲がかかって霞んでいる。ふと、出会った日のカンナを思い出した。あちこち擦り傷があり、人の姿になれば青緑色の髪はボサボサで。
「カンナみてぇ」
ミックはくしゃくしゃに千切れた月影草の花を見て、クスリと笑う。突然心のつかえが取れた。先ほどまでの絶望が嘘みたいに溶けて無くなる。
「行くだけでも行ってみるか」
終わっているかもしれない武芸大会の会場へ、ミックはしっかりとした足取りで向かう。ドーン、ドーン、とゆったりとした太鼓の音が耳に届く。武芸大会で選手を呼び出す時の太鼓だ。毎年聞いているので覚えていた。
(カンナの出番に間に合うと良いけど)
カンナは出番を待つベンチに座っていた。
(ミック、帰っちゃったのかな)
飲み物屋台の側で、ミックの声が聞こえた気がしたのだが。
(私、ちょっと短気だったな)
見上げる月はうっすらと涙に滲む。
(明日、謝らなくちゃ)
自分の気持ちばかり前に出て、不安で押し潰されそうだった。目が合うと恥ずかしく、胸が高鳴るのは自分だけかもしれない。そう思うと、ミックが思わせぶりな悪い男に見えて腹が立ったのだ。
こんな気持ちになるのはいつ頃からであったろう。仲良く飛び回ってきた猫族の幼馴染が、時折眩し過ぎて直視出来ない。隣にいるのは自分なのだと、嬉しくもあり誇らしくもあり。明るくて伸びやかで。すばしこくて。誰よりもかっこいいミック。
(やっぱり、好きだなあ)
互いに好きだと思っていたのに。ミックはなんだか恋そのものに興味がないみたい。どうにも他人事の返事しか返って来なかったではないか。そのくせソワソワと顔を赤らめたりして。
(なんなの。振り回して)
また沸々と怒りが込み上げて来る。
(けど、やっぱり好きだなあ)
「カンナ!」
足音と共に、横手の道から金茶の猫男が飛び出した。
「えっ、ミック」
「これ」
突き出して来たのは、ぐしゃぐしゃに潰れた月影草の花。
「え、ミック?」
カンナは、どういう意味だろうと首を傾げた。
「後で一緒に摘みに行こう」
「ミック」
「今は、時間ないし、これでごめん、我慢して」
「う、うん」
受け取らされた花とミックの顔とを見比べながら、カンナは混乱していた。
「カンナ、頑張れよ」
「うん、ありがとう」
戸惑いの中でお礼を言った時、名前が呼ばれて太鼓が鳴った。出番である。
月は傾き、西側の岩壁は灰色に聳える。満天の星空の下、龍の少女はつみたての月影草を手に、岩の割れ目に座っていた。ぴたりと寄り添う細身の人は、金茶色の猫族である。その手にもまた、つみたての月影草がそよいでいた。
「俺、武芸大会には出てねぇけど」
「恋の花なんだから、いつ交換したっていいでしょう?」
「そりゃ、まあ」
ミックは照れて首の後ろに手をやった。
「あのさ」
「今度はなに?」
カンナが警戒して声を尖らせる。ミックは思わず早口になった。
「えっとさ、飲み物屋台で会ってたの、だれ」
「ミック!やきもち妬いてくれたの?」
カンナは嬉しそうにニタニタした。
「うるっせ。で、だれ」
「里長のお客様だよ。遠い国の龍人さん」
「へえ?」
「飲み物屋台の手伝いしてくれてたんだよ」
「それで?」
「それでって、それだけ」
「仲良さそうに見えたけど」
「しつこいなあ」
カンナがため息をつく。
「あの人、肉食べるんだって」
「いや、俺も食うけど」
「ミックは違うよ」
「違うってなんだ」
「ミック、狩った獲物にその場で齧り付いたりしないでしょう」
「えっ」
ミックは言葉を失った。肉食龍という存在は全く知らなかったのだ。小さな猫族には想像もつかない。文化の違いなのだと頭では理解できても、やはり恐怖が先に立つ。
「そりゃね、龍人だもの。人にならない龍や野生動物とは違うよ?」
「うん、それは解る」
「人間や獣人を襲わないのを知ってる」
「知らなかったけど、そうなんだ」
「そうなんだよ」
ミックは決まりが悪そうに苦笑いをした。ミックはそもそも、肉食龍人の存在を知らなかったのだ。更に、人にならない龍も初めて聞いた。ミックにとって龍といえば、ここ岩陰谷の草食龍人たちなのである。
「あの人ね、私に、その、猫族の恋人がいるって聞いたらしくて」
カンナはもじもじしながら説明をした。
「え、うん」
改めて恋人という言葉を使われて、ミックはどぎまぎした。どうやら周囲には、2人が恋人だと思われていたらしい。それどころか、そう思っていなかったのはミックだけなのだ。
ミックは、勝手に自分の片思いだと決めつけていた。2人の関係に明確な名前を求めることが怖かった。大好きで仲良しの幼馴染として暮らしていたかったのだ。そのせいで皆に怒られ呆れられたのだが。
「飲み物屋台に行ったら、異種族交流について色々と聞かれちゃってさ」
「お、おう」
「同じ龍人でも肉食の種族とは初めて会ったから、私にとってはあの人のほうがよっぽど異種族だったよ」
「そうか」
ミックは安心してふっと笑った。
「ミックは肉も食べるけど」
「え?」
「私ね、その牙好きよ。なんか可愛い」
「はっ?可愛い?」
「うん。笑うと出てくるでしょ。可愛いなって思う」
「ええー」
「ミックは肉も食べるけど、その牙はすき」
「す、き?」
ミックは困惑した。
「怖くねぇのか?今更だけどよ」
「怖くないよ。ミックの牙だもの」
にこっと笑うカンナを、ミックは思わず抱きしめる。
「あっ、また月影草が潰れちゃう」
「ごめん」
「あははは!ミックったら!」
焦って必要以上に距離を取るミックに、カンナは屈託のない笑顔を晒した。笑うカンナを見つめるミックは、とても満たされた心地になった。
ミックは月影草をそっと脇に置く。それからカンナの分を受け取って、その隣に置いた。花は仲良く二輪で並んでいた。
ミックの手はカンナの頬に伸びる。自給自足の猫族なので、手のひらは決して柔らかくなかった。だが、触れられたカンナにとっては、何ものにも変え難い大切な手なのだ。
うっとりと見つめ合う2人の顔が近づいた。瞼は自然に下ろされて、温かく柔らかな感触が互いの唇に落ちる。
「大好きだよ、カンナ」
「大好き、ミック」
互いの気持ちを口にして、2人は満足気に肩を寄せ合った。