【11】黒崎浩二の父親
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黒崎創一。
それは、俺を育ててくれた人の名前。
それは、俺を捨てて消えた人の名前。
それは、俺の父親の名前。
六年前――小学四年生の夏の終わり、あの男は俺の前から姿を消した。母親が亡くなって、父親は蒸発した。
それから一度とだって、あの男の顔を見てはいない。
生きているのかすら定かではない――もう二度と、聞くことのない名前だと思っていたのに。
よもやこんな場面で――それも、符号学園の生徒会長の口から聞くことになるなんて、予想だにいなかった。
「こちらから呼び出した手前で申し訳ないのだが、この後にも二件ほど急用が入ってしまってね……失礼を承知の上でなんだが、書類の確認をしながらの会話となっても構わないだろうか」
「……ええ、大丈夫ですよ」
「すまないね」
転法輪先輩はそう俺に許可を取ると、生徒会室に入ってくる際、手に持っていた書類の束を小些内先輩に渡す。
「有紀、いつものように頼む」
「はい、わかりました」
書類を受け取った小些内先輩は、熟年の夫婦のような意志の疎通でこくりと頷き、そのまま部屋の奥――右方最奥にある扉の向こうへと入っていった。
「……えっと、書類は読まなくていいんですか?」
確認しながらと言ったその直後に書類を手放したことを不思議に思い、本題とは関係ないとわかりながらもつい尋ねてしまう。
「ああ、読みながら話させてもらうよ」
「え、でも……今、小些内先輩に渡したのが」
「確認する書類だが……そうか、君は知らないのだったね」
俺が何を知らないのか、その合点がいったらしい生徒会長は、「君の疑問点の理由はこの能力にあるようだ」と言って、自分の目を指さす。
目元に若干のクマが入っているその瞳は、緑と紫の入り混じった玉虫色の光を帯びていた。
「……もしかして、千里眼の能力?」
「惜しいな、だが近しい。もう少しだけ範囲の狭い能力だ」
そう告げると、今度は自分の耳に手を当てながら、ぼそりと彼女の名前を呟く。
「有紀、生徒会長の机にある書類も一緒に広げてくれ」
小声で独り言のように囁いても、扉の向こう側にいる小些内先輩には聞こえないのではないだろうか。
そんな当然の疑問は、しかして数秒も経たずに打ち砕かれる。
「はーい、あれも一緒にですね」
一体どのようにして情報をキャッチしたのか、小些内先輩は生徒会長の指示を完全に理解した様子で扉から姿を現し、命令通り机上の書類を手にして再び部屋の奥へと戻っていったのであった。
「……今のも、同じ能力なんですか?」
「『共有者』これは有紀の能力なのだが、彼女は自分が触れている者と五感を共有することが出来るのだよ」
『共有者』五感を共有する能力。
小些内先輩の持つその能力を使い、視覚を共有して彼女の読んでいる書類の閲覧を行い、聴覚を共有して彼女に指示を出したということらしい。
なるほど……確かに、その能力があれば小些内先輩に作業を並列して行ってもらうことが出来るだろう。
ただしそれは、『共有者』の他にもう一つ、なんらかの能力があればの話だが。
「ちなみに、轉法輪先輩の能力はなんですか?」
今の説明には一つ、不足している部分が――『共有者』だけでは実現不可能な部分が存在する。
『共有者』は、触れている相手の五感を共有する能力。しかし、肝心の生徒会長は小些内先輩に触れているどころか、壁を一枚隔てて分断されている状態である。
これでは、能力の発動条件を満たせていない。触れていなければ、五感を共有できないはずなのだから。
にもかかわらず、生徒会長は能力を実践してみせた。ならば、『共有者』の条件を満たすなんらかの手段が――なんらかの能力が使われていると考えられた。
「……さすが、抜け目がない。篠森君が言っていただけのことはある」
「篠森が俺の話を?」
「ああ。君が0組の依頼に協力した際、少し話す機会があってね」
0組の依頼。おそらくは、雛壇学園を訪問した時のことだろう。
その時からこの人は俺の存在を認識し――俺の父親のことを知っていたということか。
「君の考えの通りだ。『共有者』を遠距離でも使用可能にする能力――『緋色の手腕』を使わせてもらっていたよ」
生徒会長はそう言うと、今度は指先で目の前の机に置かれた湯のみを示す。
すると次の瞬間、机上に乗っていたはずの湯のみが独りでに浮かび上がり、まるで見えない手が持っているかのような人間らしいなめらかな動作を経て、轉法輪先輩の口にお茶を注いだのであった。
「君の目には見えないだろうが、このあたり一帯には不可視の手が百本ほど浮かんでいてね。この不可視の手を有紀の肩に乗せておくことで触れているという扱いになり、『共有者』の条件を満たすことが出来るのだよ」
『緋色の手腕』100の見えざる手を操る能力。
生徒会長の見えない手が触れていれば、『共有者』の五感共有能力を使用出来る。
更に言えば、小些内先輩の視界を介して見えない手を動かすことで、書類の整理などの作業も同時に行うことが出来るのだそうだ。
「その手は、どこまでも届かせることが……?」
「そうだな。さすがに、見えない場所で自在に操ることはかなわないが、動かすこと自体は可能だ」
どこまでも届かせられる、百本の見えざる手。
淡々と口にしているためすごさが伝わってきにくいが、俺が知る中でもトップクラスに強力な能力なのではないだろうか。
単純に百の手があるという物量もさることながら、他の追随を許さないほどずば抜けているのはその汎用性の高さ。
現在の世の中、大抵の物事は人間の手で操ることを前提にデザインされている。その手を――通常なら二つしかないはずの手を、追加で百本所持しているという時点で、日常生活において相当なアドバンテージとなるはずだ。
そしてなによりも、その百本の手を操りいくつもの作業を同時並行でこなせてしまうその頭脳――能力ではない、素の人間としての頭の回転の速さこそが、『緋色の手腕』を万能で強力な能力へと昇華させているのであろう。
『マルチタスクの天才』『脳が百個ある化物』か……。
いくつものことを同時に出来てしまえる頭脳を持っている天才を――この異常性を形容するには、なるほど確かに、的を射た異名であった。
「話が逸れてしまったね。本題に戻そうか」
その軌道修正を促す一言で、俺はハッと思い出した。
俺がこの場に呼び出された理由を――黒崎創一の名前が出されたことを。
「……最初に一つ、聞かせてください。どうしてここで、あの人の名前が出てくるんですか?」
「一度だけ、君の父親と会ったことがあるんだ」
「それって、一体どこで!?」
「一年ほど前、とある会議の場で顔を合わせる機会があったんだ。その時、君の父親は『超常特区』側の人間として、席に座っていたよ」
「あの男が、そんな場に顔を出した……?」
衝撃の事実に愕然とさせられる一方で、あり得ない話ではないだろうと思う自分もいた。
というよりも、俺はあの人のことを――あり得ないと言い切れるだけの人物像を、俺は知らなかった。
「黒崎君。君は父親のことをどこまで知っている?」
「……どこかの大学で、研究職につとめていたことくらいです」
大学の名前までは覚えていない。ただ漠然と、なにか大事な研究をしていたということだけが、記憶の片隅に残っているくらいで。
なにせ、最後にあの人の顔を見たのは、小学四年生の夏なのだ。小学生程度の知識では、そのあたりの理解が限界であった。
「黒崎創一。一度しか会ったことのないその名前を覚えていたのは、君の父親が相当な重役であるということが一目でわかったからだ。研究者の立場としてあの場には出席していたが、おそらく本質は管理者といったところだろうか。それも、かなりの高い地位にいる――第三区画を統率するレベルの管理者」
区画――この場合は、『超常特区』を分割する五つの区画のことを言うのだろう。
「それは、あの人にあった後に調べたことですか……?」
「いや、違う。今言ったことはあくまでも推察でしかないよ。君の父親の情報は、『超常特区』でも最上位の人間のみしか見られない領域で隠蔽されていたんだ。君が生まれたことから研究者であった経歴を鑑みれば……もしかすれば、この『超常特区』の創設に関与しているほどの、重要な人物なのかもしれないな」
「『超常特区』の創設……」
……なんか、すごい人なんだな。
唐突に、途方もないスケールの大きな話が持ち出されたせいか、俺は自分の父親の話をされているはずなのに、まるで雲の上の存在を見ているような、他人事で、つまらない感想しか抱くことが出来なかった。
「彼に息子がいることを知ったのは、本当に偶然のことだった。黒崎浩二という息子がいること。誘拐事件の被害に遭った経歴があること。そして――そんな君が、この都市に来るように勧誘されているということも」
「……そんなことまで、調べたんですね」
「すまない。君の父親を調査する課程で、知ってしまったんだ」
符号学園の生徒会長があの人と接点が持てるほどの立ち位置にいるのならば、そういった勧誘に関わる上層部の人間とも繋がりがあっても不思議ではない。
ならば必然的に、あのことも知っているというわけか。
俺がこの都市に来る際、餌として使われたあの言葉についても。
「君は自ら志願したわけではなく、管理者からの勧誘でこの『超常特区』にやってきた。そして、その時の誘い文句は――君の父親がこの都市にいることだったそうだね。もちろん、それだけが理由ではないのだろう。けれども、少しばかりは気になっていたのだろう? 君の父親の存在を――黒崎創一さんのことを」
「……別に、気になんてしてませんよ。俺が『超常特区』に来たのは、ただこの都市が俺と優華にとって過ごしやすい場所になると思ったから。それだけです」
自分でも思っていた以上に、ふてくされた態度が表に出てしまった。
強がりを言ったつもりはなかった。ただなんとなく、肯定したくなかったから否定しただけだったのに。
それなのに、不満をぶつけるべき相手を間違えた――先輩相手に不機嫌な口調を漏らしてしまったことに驚き、俺は慌てて謝罪の言葉を口にした。
「気にしないでくれ、今のは質問の仕方が悪質だった。気分を害して当然だろう」
「い、いえ、そんなことは……ただ俺が、変にムキになっちゃっただけで……」
本当に、なんであんなになげやりな態度をとってしまったのだろう。
あんな男――俺を捨てた人のことなんて、微塵も気にしていなかったはずなのに。
何も感じることなんてないと、そう思っていたはずなのに。
「……そうだな。今日のところは、これくらいで終わりにしておこう。残念ながら、もう時間も来てしまったようだ」
生徒会長が腕時計を確認するのと同時に、小些内先輩が書類を手に奥の部屋から出てくる。
どうやら、次の急用の時間になってしまったようだ。
「機会があれば、またゆっくりと話をさせてほしい。そうだな……今度は君の父親の話はなしにしようか。それを抜きにしても、外部入学からの0組編入というだけで、なかなかに興味をそそられる経歴だ。次に会うときは、そのあたりのこともじっくり聞かせて欲しい」
「……そ、そうですね」
形ばかりの頷きはしてみたものの、生徒会長には申し訳ないが、次の機会が来て欲しいとはあまり思えなかった。
存在としての次元の差に押しつぶされてしまいそうな、おちおち呼吸も出来ないほどの緊張感。
悪い人ではないのだろう。ただ、あのすべてを見透かすような冷たい眼差しへの苦手意識は、この先一生をかけても拭い取れそうになかった。