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【プロローグ】滅びゆく雨の街で

≪プロローグ≫


 その日は、土砂降りの雨が降っていた。


 バケツをひっくり返したなんて表現じゃ飽き足らない、滝に身を投げ込んだかと錯覚するような篠突く雨。

 暴風に煽られ、正面から吹き付ける豪雨に視界を閉ざされながら、僕は雨具の一つの身につけられないまま、凍える体に鞭を打って一歩一歩足を動かしていた。


 いや、凍えるなんて感覚はもうなかったかもしれない。

 寒暖を感じ取るセンサーは少し前から機能しなくなっていたから。


 皮膚感覚もだいぶ鈍くなっている。

 踏み出した一歩が、はたして地面を捕らえているのかも怪しいほどだ。


 呼吸が熱い。頭痛が響く。

 考えがうまくまとまらない。


 脳天に針を突き立てられたような痛みが断続的に頭を貫き、僕の脳から言葉を奪い去っていく。

 だんだんと、自分が何をしているのかがわからなくなる。


 どうして僕はここにいるのか。

 どうして僕は歩いているのか。


 我を失うほどの激痛に、意識を――自分を奪われそうになって。

 そしてその度に、自我を放棄しそうになる度に、背中に抱える少女の温もりが、既の所で僕がここにいる意味を思い出させるのであった。


 逃げろ。逃げ続けろ。

 彼女を幸せにするためにも、ここで止まるわけにはいかない。


 けれども、思いの強さに反するように、肉体はどんどんと力を失っていく。

 彼女を支える腕が震えを通り越して痺れ始めている。


 そして、ついに限界を迎えた足が何もないところで躓く。

 疲弊した手足では己を支えることなど出来るわけもなく、転んだ僕の体は雨風に後押しされるようにして、顔から直に地面へと叩き伏せられていた。


 頭蓋骨に鈍い音が伝播し、脳が縦横無尽に揺さぶられる。

 この痛みが額を強打したことによるものなのか、あるいは人体の許容値を超えた高熱に耐えかねた脳の悲鳴なのかは、今の僕には判断がつかなかった。


「……もういい……もういいよ、導夜くん。私をおろして……私を置いて逃げて」


 背中に乗った彼女が――花織が、僕に囁きかける。


「……いやだね。言っただろう? 僕は君を幸せにするまで、絶対に君を離したりしないって」


 涙でかすれた花織の言葉に、精一杯の虚勢を張って否定を返す。

 無様にすっ転んだ体を起こすため、後ろに回していた腕を前に置いて、出せる力のすべてを振り絞って持ち上げる。


 不意に背中から、重さと温もりが消失した。


 最初は、いよいよ重量を関知する感覚すらも鈍ったかと思ったが、すぐにそうではないことを理解する。

 ほんの数秒前まで肩に回されていた手が何故かほどかれていて、彼女の体は雨ざらしの地面に仰向けで転がっていた。


「花織……ほら、僕の肩をつかんで」


 そばに屈み込んで手を伸ばすが、彼女は首を横に振って僕を拒む。

 その代わりに、彼女の手は自身の懐に伸び、そして――――鈍色に光る凶器を取り出し、僕の手にぎゅっと握らせてきた。


「もういいの。私はもう、十分幸せを味わったから。だから、これ以上あなたを不幸にする前に、これ以上私が不幸になる前に――――」


 


「――――私を、殺して」


 


 鞘から取り出され抜き身になったナイフは曇天の隙間を走る雷光を反射させ、僕の手の中で激しく瞬いている。

 それはまるで、僕に何かを語りかけるように――殺してしまえと叫ぶように、眩しいくらいの光となって僕の網膜を焼きつけていた。


「そんな……僕は君を、幸せにしたくて……君を、不幸にさせたくなくて……」


 幸せにしたかった。けれども、それが叶うことはなかった。

 色褪せた記憶。不器用な少女の、ほんの小さな願い。


 思いは報われない。待ち受けていたのは、破壊と滅亡の結末だった。

 ならばせめて、もう一つの望みだけでも、叶えてあげるべきなのだろう。

 

 ――――僕はこの手で、君を不幸から解放するのだ。

 

 身震いはとうの昔に止まっていた。おかげで、手元が狂う心配はなかった。

 雨なのか涙なのかわからない何かが頬を伝う。それが意味する感情を捉えるには、今の僕では心の余裕が足りなかった。


 ナイフを滑り落とさないように、両手で柄を強く握りしめる。

 視界を塞ぐ雨と涙の入り混じった液体を腕で拭い取り、彼女の瞳をじっと見据えた。


「……ありがとう、導夜くん。あなたのこと、心の底から愛していたわ」


「……ああ、僕もだよ。花織のこと、誰よりも強く愛していたよ」


「あはっ、嬉しいなあ……きっと今の私は、世界で一番幸せな人間よ……」


 そんなこと、言わないでほしかった。幸せなんて、知らないでいてほしかった。

 だけど、もう全ては取り返しがつかない。


 花織は今、幸せの最中にいる。

 だから今、僕は花織を殺すのだ。


 逆手に構えたナイフを振り上げる。視線を彼女の瞳から心臓に移す。

 興奮に沸き立つ鼓動がうるさいくらいに全身を脈打っていた。体はこんなにも熱いのに、頭の中だけは妙に冷え切っていた。


 そして僕はナイフを振り下ろし、心臓めがけて振り下ろし、彼女の一生を、生命を、幸福を、不幸を、最高にくだらない僕という人生を、全部、全部、台無しにして、そして、そして、そして――――

 



「――――さよなら、花織」



 

 僕は、現実から逃げ出した。


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