【14】エゴイスティックヒーロー
≪3≫
好きの反対は嫌いではなく無関心である。
それが本であれ講演会であれ、誰しもが一度は耳にしたことのあるだろうこの言葉。
元々の、オリジナルな出典がどこにあるのかさえわからないくらいには有名な一文だが、それ故にか、有名になる一言にはありがちな手法――伝えたいことを短く簡潔に記すために行われる事象の簡易化が、この言葉にも用いられている。
たしかに、好きの反対は無関心であろう。しかし、だからといって好きの反対が嫌いではないかと言われれば、そんなことはないのだ。
好きの反対が無関心というのは、つまるところ関心の有無を二元化して捉えた言葉であるだけで、対象に関心があることを前提とすれば、好意と嫌悪を相反するものとして捉えることが出来る。
例えば、もしも感情を数値化できるとしたら、好きはプラスであり、嫌いはマイナスであり、無関心はゼロであるといえよう。
関心があることを前提――すなわち、それがプラスであれマイナスであれ、なんらかの数字を持っていることが前提であるならば、プラスとマイナスを――好きと嫌いを反対の言葉として考えられる。
好きの反対は無関心であり、かつ、好きの反対は嫌いであるとも言えるのである。
ならば何故、好きの反対は嫌いではなく無関心であると言われるようになったのか。その理由の一つとして考えられるとすれば、好きと嫌いの関係は好きと無関心のように、二元論で語れないことにあるのかもしれなかった。
ある一人のそれなりに仲の良い友人を思い浮かべるとしよう。あるいは、ある一人のあまり関係が良好ではない知り合いを思い浮かべるとしよう。
その人を指差し、君は彼ないしは彼女のことが好きか嫌いかと問われたとき、回答者にはどのような答え方があるだろうか。
一つは、その人のことは好きであるというプラスの回答。
一つは、その人のことは嫌いであるというマイナスの回答。
一つは、その人のことは好きでもなくて嫌いでもない――無関心であるというゼロの回答。
そして一つは、その人のことを好きでもあり嫌いでもあるという回答だ。
好きでもあり、嫌いでもある。
一見すると矛盾した言葉のように思えなくもないが、何もおかしなことなどない、ごくごく当たり前の回答である。むしろ、大多数の人間は、知り合いや友人に対してこう思っているのではないだろうか。
先の例を――感情を数値化した考え方を用い、俺はその知り合いに対して、好きを50、嫌いを30抱いているとしよう。
その場合、俺はその知り合いを20だけ好きであると――その知り合いのことを好きであると言えるかと問われれば、そうではないと思う。
50から30を引いて20なんて、そんな四則計算でとらえられるほど、好意と嫌悪は二元的に作られていない。
50好きだからって、30の嫌いが帳消しにはならない。
好きと嫌いは共存しえる。
人間の感情は、収入と支出で家計簿を付けることなど――差し引きで考えることなど出来ないのだから。
好きも嫌いも、なかったことには出来ないのだ。
***
『葉月優華を誘拐した。返して欲しくば、逃げることをやめろ』
逃げることをやめろ。その文言が何を示しているのかは、一目瞭然であった。
逃げていた場所。避けていた場所。思い当たる節は一つだけ。この一週間、俺が学園内で一貫して避け続けていた場所など、一か所しかなかったから。
1年+3組の教室。
後列のドアを開いて入ったその先にいたのは、壁際に集まり、一斉に俺へと目を向けた+3組の生徒と、それから――――
「……ようやく来たか」
無作法にも堂々と教卓に腰を掛ける、白百合小百合の姿であった。
「……目的はなんだ」
「目的? そんなもの一つしかないだろ。てめえへの嫌がらせだよ」
「そうか。随分とくだらねーことしてくれたんだな」
白百合は教卓から降りると、そのまま俺に背を向けて窓際に歩く。
「優華はどこだ」
「…………」
無視。質問に対する返答はないまま、白百合は窓枠に足をかけ、ひょいと三階の窓から外に飛び降りる。
「……ついて来いってことか」
どうやら、初めから戦闘を避けるつもりなどなかったようだ。
一変した空気感にざわつく教室を尻目に、俺もまた窓際に向かう。あいつのように三階から飛び降りても無傷で済む肉体は持ち合わせていないが、『落花流風』なりを使えば移動自体は可能だ。
そう考えながら、白百合と同じように窓枠に足をかけ、飛び降りようとしたところで、後ろから夢野に腕を掴まれる。
見返った彼女の顔色は青白く、決して万全であるとは言えない枯れた声をしていた。
「あ、あの……黒崎くん!」
「……安心しろ。優華は必ず取り返してくる」
「それも、そうだけど……白百合さんのこと、あまり悪く思わないであげて……」
「…………ああ、わかってるよ」
その返答で満足してくれたのか、あるいはこれ以上の問答は無意味だと判断してか、夢野の手が離される。
そして俺は一カ月前のあの時――転校生討伐戦の四日目とは異なり、一ノ瀬雫の『身体転移』はおろか誰の助けもないままに、一人きりで、躊躇なく、窓から身を投げ出したのであった。
***
白百合のことを悪く思わないでほしい。
俺が3組を訪れる前に何かあったのか、もしくはそれ以前からの知り合いだったのか。夢野の口から白百合を――0組の少女を擁護する言葉が出てきたのは意外ではあったが、その内容については言われる前からわかっていたつもりだった。
この程度の猿芝居に騙されるほど、俺は0組をみくびってはいない。
嫌がらせなんて無意味なことのために、あいつらが優華に危害を加える――優華との交友を断つわけがないのだ。
他人を信じることなんてとうの昔に忘れた俺でも、0組の合理性については、信用にたるものであると思っている。
嫌がらせではない別の理由で、あいつらは誘拐事件を起こした。おおかた、導夜と篠森辺りが俺達の関係を見かねて企てたといったところだろう。
つい昨日、同じようなことをしたからこそ、あの二人の考えが読み取れる。
悪意ではなく善意。そしてだからこそ、余計に苛立つのであった。
そんな善意は不必要だ。価値観の押し付けでしかない。
余計な干渉はしないと約束しただろうに、これ以上のお節介がどこにある?
それに、たとえ冗談であったとしても、優華に誘拐というトラウマを突きつけたこと――そして、その言葉を俺の前で口にする行為そのものが、許せない事柄であった。
目的地に辿り着いたのか、一言も発することなく黙って歩いていた白百合の足が止まる。
本棟から少し離れたところにある裏庭。建ち並ぶ校舎の裏に隠されただだっ広いスペースは、誰にも迷惑をかけることなく殺し合うにはおあつらえ向きの立地条件であった。
「なあ、黒崎。どうしてあたしが、あんたを呼ぶ役に選ばれたのかはわかるか?」
「……ああ」
「だったら、あたしが言いたいこともわかるよな」
昨日の依頼を共にこなした-組――風上との道中会話が思い起こされる。
白百合小百合。0組の誰よりも積極思考で、誰よりも力強く、そして誰よりも曲がったことが嫌いな正義の少女。
正しさの権化ともいえる彼女の愚直さは、嘘つきの俺とは根本的に合わないものがあった。
好き嫌いの話ではなく、合うか合わないかの話。それ故に、折衷の余地はなく、永遠に価値観は交わらない。
そういった性格の異なる友人の存在は、人生において大事だとは思う。彼女は俺を嫌ってはいないし、俺もまた彼女を嫌ってはいない。
しかし、それをこんな状況で――こんな余計なお世話に、相性を利用してほしくはなかった。
そしてだからこそ、この配役にもまた苛立ちを覚えるのだ。どこまでも計算ずくに、俺の判断を――優華との離別を否定しようとする魂胆に。
「お前がなんて言おうと、俺は自分が間違っているとは思わねえぞ」
「ああ? 別に、あたしはあんたの考えを否定するつもりはねーよ。あんたのその嘘を武器にするスタンスは、あんたが今までの人生で積み重ねた生きる術だ。それを間違ったものだとは言わねーし、卑怯だとも思わねーよ。ただ、それを生きるための術ではなく、戦うための武器でもなく、逃げるための言い訳に利用しているってのが、あたしは気に食わねえんだ」
「逃げる? は?」
その挑発に、俺はわかりやすく不愉快な気分になる。
「黒崎さ……あんた、なんでも優華にこれ以上迷惑をかけたくないからとか、そんなくだらねー理由で別れたんだってな」
「くだらねー理由だ? お前は優華がこれ以上不幸になってもいいって言うのかよ」
「作為的に捉えるな。言い訳で言葉を捻じ曲げるな。まさかとは思うが、あんた本気で自分がいなくなれば、優華がこれ以上不幸にならないとでも思ってんのか?」
「……少なくとも、これまで以上に不幸になることはねえだろ」
全ての不幸は、俺に起因していたのだから。
俺がいなければ、彼女がこれ以上不幸になることはない。
そう思っていたのに、そう考えていたのに――白百合はそんな俺の意見を、真っ向から叩き割る。
「んなわけねえだろ!! 現に今、こうして優華は不幸な目にあっている。てめえが離れたところで、何も変わりはしねーんだよ!」
「はっ、誘拐犯の分際で、よくもまあぬけぬけと言えたもんだ。まさに今、お前らが優華に迷惑をかけてるんじゃねーか!」
盗人猛々しいにもほどがある。優華を不幸にしている張本人にそれを言うなど、論が破綻しすぎていて腸が煮えくり返りそうになる。
それに――――
「お前らが優華をさらったのは、俺への嫌がらせが目的なんだろ? って事は結局また、俺のせいで優華が不幸な目にあってるってことじゃねえか。俺はもう、こんなくそみたいな理由で優華に迷惑をかけたくないから、あいつを離別したんだ。それなのに、お前らのくだらないままごとのせいで、優華はまた――――」
「――――その考えが逃げだって言ってんだよ!」
俺の言葉を遮った白百合は、顔を真っ赤にして怒りをぶちまける。
「てめえは、自分さえいなくなれば全部解決するなんて、そんな夢物語を本気で信じてやがるんだ。まるで自分さえいなくなれば、すべてがなかったことになるかのような言い様だな。そんなわけねーだろ! なかったことになんて、なるわけがねーだろうが!!」
「……うるせえな」
愚直なる彼女の言葉に、だんだんと本気で苛立ってくる。
「残念だが、てめえがいくら優華から離れようが、てめえの影響は一生まとわりつく。どこまでいこうと、黒崎浩二と葉月優華が幼馴染だった事実はなくならねえ。その事実に目をそらして、勝手に全部なかったことにして、理不尽に離別する。そんなものは単なる逃避だ。自慰で自愛で自己満足だ。てめえはただ、自分が楽になりたかったから別れただけの……優華から逃げ出したクズ野郎でしかねえんだよ!!」
「もういい、黙れよ」
これ以上の対話は必要なかった。この女はもう、どうしようもなく実直で、救いようもなく潔癖なのだ。
自分の意見が正しいと思っている。正しいと思い込んでいる。
世の中には、正しさでどうにもならないこともあるというのに、その事実を否定して、無理矢理に正義を押し付けてくる。
だからもう、聞く耳なんて必要なかった。
議論は破綻した。いや、初めから議論という体すら成していなかった。
こんなものはただの人格否定で――くだらない自己否定だった。
「『狂言回し』」
言葉で位置を誤認させ、白百合の後ろに回り込み、背中に手を当て、行動と能力を封じる嘘を叩き込む。
いつも通りの手順。いつも通りの嘘をつく。それで今回も終わりになる――――
――――そのはずだった。
「なっ…………!?」
「言っておくが、あたしは一度だってあんたを見失っちゃいねーぞ」
俺の手は確かに白百合に触れている。『狂言回し』は機能している。
それなのに白百合は、四肢が封じられている様子もなく、堂々たる有様でそこに君臨していた。
「お前、怪力の能力じゃなかったのか……!」
「そういえば、あんたにはまだあたしの能力を教えてなかったな」
ぞくっ、と背中に悪寒が走る。白百合の放つ威圧的な空気に、額から汗がにじみ出し、全身が逃げ出せと警笛を鳴らす。
慌てて身を引こうとするが行動は一歩遅く、白百合に肩を骨ごと砕かれてしまいそうなほどの握力で掴まれ、逃亡を阻止されてしまった。
「『独りよがりの正義』誤ちを正す能力。それが本来の姿ではない――誤った事象であれば、問答無用で正しい姿に直す。それがあたしの能力だ」
空いている右手が静かに引かれる。
殴られる。そう直感が告げ、慌ててふりほどこうとするも、掴まれた右肩は万力に締め付けられたかの如くびくともしない。
「あたしがあんたと対面する役に選ばれた理由は一つだ。あたしの『独りよがりの正義』が、あんたの『狂言回し』をぶっ潰すのに一番適しているからだよ! 歯、食いしばりな!!」
その言葉と同時に白百合の右腕が振り抜かれ、とっさに守りに入った両腕ごと、俺の身体は大きく吹き飛ばされた。