【7】二人分の卵焼き
≪2≫
ルーチンワークという言葉の意味を私に教えてくれたのは、小学生の頃の浩二だった。
いつものように私が問いかけて、いつものように浩二が答える。
思い返せば、私が知らないことの意味を浩二に聞くというのも、ある種のルーチンワークであったのかもしれない。あの頃の私は、毎日のように疑問を見つけては、余すことなく浩二に聞きにいっていたから。
手順。決まりきった作業。
要は、毎日同じようにやっている、日課のようなもの。
私の場合は、朝目を覚ましたらまずお手洗いに行って、顔を洗って、歯を磨いて、頭をシャキっとさせる。
それから、台所で朝ごはんとお弁当の中身を一緒に作って、作った朝ごはんは食べてお弁当は詰めて、身支度を整えて制服に着替える。
休日は時と場合によるところがあったけれど、平日に関してはこの朝の一連の流れが習慣に――ルーチンワークといえるくらいには、何年も繰り返していることであった。
何年も変わることのなかった、朝のルーチンワーク。
けれども最近その中、一つ新しい事柄が加わることになった。
鏡の前に立って、自分の顔をじっと見つめて、今日もちゃんと笑えてるって言うこと。
みんなの前では笑顔でいられるように、そう自分に言い聞かせること。それが私の新しい日課で――一種のルーティーンであった。
少し前に、栞ちゃんに指摘されちゃったから。
今の優華ちゃんは、無理して笑っているように見えるって。
別に、無理をして笑っているつもりはなかった。楽しい時、嬉しい時、面白い時、私はちゃんと心の底から笑っていた。
ただ、その笑顔に陰りがなかったかと聞かれれば、答えあぐねてしまうくらいには、いつも通りに笑えている自信はなかった。
ちょうど一週間前のあの日――浩二と離れ離れになったあの日から、心のどこかでもやもやした感情を抱えながら、それでもいつも通りに笑おうと努めていたから。
きっとそんな不安が、表に出てしまっていたのだろう。栞ちゃんは、いろんな人のことをよく見ている人だから、気付かれちゃったんだろうな。
「……うん、よし」
卵焼きのいい匂いが漂ってくる。
今日もおいしく作ることが出来たみたいだ。
さすがに、お弁当の中身を一から十まで作っている時間はないから、大半は昨日の残りものとかでお弁当箱を埋めることになるんだけど、こうやって朝に作って弁当に詰める品もある。
その中でも卵焼きは少し特別な品で、私がよく作るレパートリーの一つであった。
卵焼きは、浩二のために作った最初の料理で、浩二が最初に褒めてくれた料理だったから。
その料理を褒めてくれる幼馴染は、もう私の傍にはいないんだけど――――
「――――あっ」
そんな浩二のことを思い出して、感傷に浸っていたからだろうかお弁当箱に詰める過程で、私はあることに気がついた。気がついてしまった。
一人分のお弁当に詰めるにしては、量を多く作りすぎていたことに。
手癖か、無意識の発露か。
この一週間、意識して押さえ込んでいたはずなのに、それでも現れてしまった――――現してしまった未練に、私は膝の力が抜けてその場にへたり込んでしまう。
フライパンの上には、ちょうど二人分の――――いつも通りの数の卵焼きが並べられていた。
「浩二……浩二と、会いたいよ……」
恋々とした弱音と一緒に、大粒の涙が零れてしまいそうになる。
けど、すんでのところで我慢する。
ここで泣いてしまったら――心が折れてしまったら、もう二度と素直に笑えなくなってしまう気がしたから。
浩二に、顔向け出来なくなってしまう気がしたから。
必死の思いで涙を堪え、壁に手をついてなんとか立ち上がり、少し焦げてしまった卵焼きをお弁当箱に詰める。
余った分は朝ごはんと一緒に食べよう。そう思い、トーストをのせるお皿の隅に残りを移そうとしたところで、
――――ぴんぽーん、と、軽快なメロディーが鳴り響いた。
お客さん? けど、事前に連絡がきてた覚えはないし、だとすれば宅配の人だろうか?
早朝というほど早い時間ではないが、約束もなしに訪ねてくるような用事があったとも思えないしと、訪問者の正体を予想しながら、私はインターホンを出る。
「はーい、どちら様ですか?」
「眠姫ですわ。おはようございます、優華さん」
「……眠姫ちゃん?」
篠森眠姫ちゃん。予想外の人物の登場に驚きながら、私は急いで玄関の扉を開けに行く。
久しぶりに見る眠姫ちゃんは、相変わらずのお洒落なドレスを着こなし、後ろに執事の護人くんを従えていた。
「おひさしぶりですね、優華さん。突然の訪問となってしまい、申し訳ございません」
「ううん、全然平気だよー! けど、急にどうしたの?」
「急用と申しますか、優華さんに伝えたいことがございまして」
「伝えたいこと……?」
電話やメールじゃなくて、直接会ってまで――それも約束を取りつける暇もないくらいの急用とは、一体なんだろうか。
「端的に申し上げますと、私は貴女を誘拐しにまいりました」
「…………え? それって、どういう……?」
私の問いかけに、眠姫ちゃんは何も答えない。
けれどもその翡翠色の瞳を見れば、彼女が冗談を口にしていない事は理解出来た。
「大切な友人にこのようなことを言うのは非常に心苦しいのですか」
そんな心にもない前口上を添えた後、眠姫ちゃんは、いつも通りの綺麗な笑みで、鈴を転がしたような澄みきった声で、異常と日常の境界を越えて手を伸ばし、楽しそうに告げるのであった。
「かわいいかわいいお姫様。おとなしく私に、誘拐されてくださいませんか?」