【5】終わってしまった物語
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思えば、こんな風に初対面の人間に対して己の過去を語るだなんて、昔の俺なら――一週間前までの俺なら、間違いなく断っていたことだろう。
一度誰かに話したことで、口が軽くなっていた?
既に導夜と篠森に話しているのだから、今更もう一人増えようとも関係ないと思った?
あるいは、綴の推薦する人間だったから話していいと思った?
たしかに、そんな思いもあったかもしれない。
けれども、あくまでもそれらは俺の背中を押した要因の一つでしかなくて、根本的な理由は別のところにある。
優華がいなくなったから。
理由は、その一言に尽きた。
この一週間、優華と離れ離れの生活を送ったことで、俺は自分がいかに空っぽな人間であったかを思い知った。
心の中で自覚していたことを、現実のものとして再確認した。
生まれてから一週間前までの十五年間、優華を中心に生活してきた俺には、自分というものがまるでなかったのだ。
彼女のために生きてきた俺は一人ぼっちになった時、何をすればいいのかがわからなくなった。
自分が何のために生きているのかが、わからなくなってしまった。
だから、相談しようと思ったのだろう。
自分に最も近くて、最も遠い位置にいる存在に、意見を求めたくなった。
自分探し。そんな陳腐な言葉が案外、現状を一番よく表しているのかもしれない。
自分が何のために生きていたのかではなく、何のために生きているのか。
そんな傍から見たら笑われてしまいそうな不安を、真剣に知りたいと思っていたから。
「何のために生きているのかなんて、そんな理由はどこにも存在しないですよ」
瞳に一切の輝きを宿さぬまま、千里はそう断言した。
「そもそも、生きていることに理由なんてないのですよ。たまたま生まれたから生きている。なんとなく生きているから生きている。無意味に、無意義に、無価値に、人間は生きている。自分が生きていることには何らかの意味があるだなんて、そんなものはただの思いこみで――思い上がりでしかないのですよ」
それは-組の長に相応しい、達観した回答であった。
「そういった意味では、あなたの考え方もまた思い上がりでしかないと思いますよ。自分が傍にいたから……えっと、幼馴染の何さんはなんでしたっけ?」
「葉月優華だ」
「優華さんですか。……すみません、どうもこの場にいない人のことは覚えられそうにないので、幼馴染さんと呼ばせてもらいますね。それで、あなたは自分がいたから、その幼馴染さんが不幸になったとか、終始そんなことを口にしていましたけど、そもそも自分にそれだけの影響力があると思い込んでいること自体が思い上がりなのですよ」
人を名前ではなく記号で認識する。
そうして優華のことを記号化してインプットした千里は、今度は自分の番だと言わんばかりに、続きの言葉を捲し立てる。
「大体、あなたの何が幼馴染さんを不幸にしたというのですか? 不慮の事故であなたの母親が亡くなったことですか? 己に非のない誘拐に巻き込んだことですか? 避けようのないいじめを飛び火させたことですか? それとも、十五年間ずっと一緒にいたことですか? 馬鹿馬鹿しい。そんなもの、誰かが勝手に変わっていっただけでしょう。あなたは何もしていない。だってあなたには、他人を変える力なんてないのですから」
他人を変える力。
それがあれば――それを意図的に発揮できれば、どれだけ楽に生きていけただろうか。
「人が出来ることなんて、たかがしれているのですよ。あなたの影響で現象が生まれるのではないのです。現象は勝手に生まれて、そこに影響という理由があとからついてくるのです。あなたにも、その幼馴染さんにも――なんなら、あの完全無欠な0組のお姫様にも、誰かを変える力なんてない。人は勝手に影響を受けたと錯覚して、勝手に変わっていくのです」
「人はそれを――勝手に変わっていくことを、影響を与えられたと言うんじゃないか?」
「それこそ、単なる錯覚なのですよ」
完全無欠な0組のお姫様――篠森眠姫でさえも、他人を変える力がないと断言した千里は、そんな俺の疑問を真っ向からはね除けた。
「誰かを見たことで、自分の中の何かが変わったと思ったなら、それは生まれたときから自分の中にあった――潜在的な因子を自覚しただけなのです。共感という言葉があるでしょう? 人は、誰彼構わずから影響を受けるわけではない。共感したからこそ、影響を受けたなどと宣う。共感しなければ――そういう考えが心のどこかになければ、影響を受けたなどと錯覚することもないのです」
「共感、ね……」
「それを、元々持っていたものを、さも他人から貰ったかのように吹聴して、第三者に責任を押しつける。影響なんて言葉自体が、そもそもエゴでしかないのです」
そこまで言ってしまったら――立ち位置を偏らせてしまったら、彼女の意見は極論でしかなくなる。
すべての思想は元々自分が持っていた――潜在していた因子でしかないというのは、学習という概念を否定している。
性善説とか、性悪説とか、そういった根源的な部分を人のすべてとする考え方だ。
他人の影響を全く受けずに生きていくことなど、どだい無理な話である。
俺であっても、優華であっても、篠森であっても、他人の影響を受けて生きている。
影響力の大小の違いはあれど、誰もが誰もに影響を与えて生きている。
だから俺は、その循環から逃れるために――誰にも影響を与えないように、影響を与えられないようにするために、殺人鬼の汚名を被ってまで、輪から外れようとしたのだから。
けれども、だからといって彼女の考えがすべて間違っているかといえば、そういうわけでもない。
人知千里の思想にも一理はある。
人間は、思っている以上に他人のことを――自分のことを、見ていない生き物である。
自分が誰もに影響を与えているとか、誰もが自分を見ているとか。
それこそ、思い上がりも甚だしいエゴの塊であると言えるだろう。
しかし、だとしても、根幹の部分はやはり変わらない。
黒崎浩二の影響で――悪影響で、葉月優華は不幸になった。
それは不変の過去であって、絶対の真理でなくてはならなかった。
そうでないと、優華の人生があまりにも報われなさ過ぎるから。
「……少々、話がそれてしまいましたね。一度、間を置きましょうか」
そう言って席を立ち、空になった急須にお湯を注ぎに行く。
「出涸らしの茶葉ですが、よろしいですか?」
「構わねえよ。飲めるだけありがたいもんだ」
同じ茶葉で、二杯目の緑茶が注がれる。
一度煎じられた後の薄味くらいが、俺の舌にはちょうどよかった。
「本題に戻りましょう。……本題って何でしたっけ?」
「お前……相談の蒐集家名乗っておいて、肝心の相談内容忘れてんじゃねえよ……」
この女、人の名前に限定せず、根本的に物覚えが悪いだけなんじゃないか?
「相談……ええ、相談でしたね。ちゃんと覚えておりますとも」
本当か嘘かわからない――というか、十中八九嘘であろう強がりを口にする千里。
しかし、覚えてはいなくとも、思い出したことは本当のようで。彼女のスタイルなのであろう断定の文言から、話は本題に入った。
本題に。俺の相談に対する回答に。
「結論から申しますと、我々《わたし》から言えることは何もありません」
「…………は?」
あまりに投げやりな答えに、思わず素の反応が漏れてしまった。
「……相談役として、その結論はどうなんだ?」
「あくまでも私は相談の蒐集家であって、悩みの解決までは請け負っておりません。それに、大抵の悩みというものは、相談した時点ですでに解決しているものですので」
「全部吐き出して楽になったとか、そういう類の話か」
「それもありますが、単純に話しているうちに解決方法に気づくというパターンも多いのですよ」
すなわち、自己完結してしまうパターン。
たしかに、そういう例もあるだろう。
相談とは、自分の経歴を――考えを人に伝えることである。知らない人に内容を伝える為には、自分の中で一度話を整理する必要があるわけで。
その整理という過程で埋もれていた問題が可視化され、解決法が思いつくというのはよくあることである。
「解決法がわかっている人には、背中を押してあげるようなことを言う。やりどころのない感情を原因としている人には、責任転嫁をする先を教えてあげる。そうやって、あたかも解決したかのように見せかけることが、相談役の仕事です。そして――あなたの場合は、そのどちらにもあてはまらない。だってあなたの場合は、もう全部終わっているのですから」
終わっている。過去も、現在も、未来も。
完結し、完了している。
「自分が原因で、幼馴染さんを不幸にしていた。だから別れた。それがすべてで、それですべてです。一寸の余地もなく断絶して、一部の隙もなく根絶した。終わっているのです。あなたと幼馴染さんの物語は、もう終わっているのですよ」
それはまるで、死刑宣告のように――無罪判決のように、真っ黒な瞳で俺を見据えながら、千里はそう言い放った。