【0-8】雨の日の話
≪過去8≫
転換点――血染めに穢れた最悪の日から先の話。
全てを忘れさせられた優華と、全てを忘れなかった俺の後日談。
監禁されていた家の電話から警察を呼び、身柄を保護された後――あれから俺は週に一回の頻度で、心の病院に通うこととなった。
お医者さんからは心の傷を癒すためなんて言われていたけれど、本当の理由は口にせずとも十分に伝わってきていた。
殺人鬼の経過観察――人間を二人も殺した子供なのだ、管理下においておきたいと思うのは至極当然のことであろう。
俺達の巻き込まれた誘拐事件及び殺人事件に関しては、正当防衛やらなにやらと裏でどういった措置が取られたのかまでは定かではないが、少なくとも表向きには、上記の事件はなかったことになっていた。
事件の全容を忘却した優華を刺激しないため。
そしてなにより、子供達が普通の生活を送る上で負の要因となりかねない風評が広がることを防ぐために、大人達は不適切な真実から目を瞑ることを選んだのであった。
しかし、火のないところに煙は立たず、人の口に戸は立てられない。
幸いにして、俺達の巻き込まれた誘拐事件の真実が広まることはなかったけれど、そのかわり、俺が引き金を引いた殺人事件の真実は――黒崎浩二が人間を殺したという噂だけは、真綿で首を締められるようにじわじわと学校中を侵食していった。
誰もが俺を殺人鬼だと罵った。
真相が伝播することはなく、人殺しのレッテルだけが独り歩きをして、蔑まれ、囃し立てられ、時には暴行にまで事が及ぶこともあり――そして最後には、誰しもが畏怖へと印象を歪ませていった。
年齢を重ねるにつれて、人間は命の重みというものを学んでいく。
軽々しく死を口にしてはいけないとか、行きたくても生きられない人間もいるとか、命がいかに大切で、尊いものであるのかを理解させられていく。
経験は知識となって積み重なり、知識は理性となって人格を形作る。
少年少女は命の重みを知ったが故に、大切な命を奪ってしまえる人間を――人間を殺すという行為を、恐れるようになっていくのだ。
誰もが俺という不適合に怯えた。
恐れ、戦き、中学校へと入学する頃にはもう、俺の存在は一種の禁忌として――いないものとして扱われていた。
そしてまた皮肉なことに、禁忌へと成り果てた副作用で俺へのいじめは次第に少なくなっていくのであった。
そこにいないはずのものを――存在しない非存在を、いじめることなど出来はしないのだから。
***
「あっはは、なるほど。命は大切に、実にいい言葉だ。けど違うね、君の語りには恣意的な誤読があって、都合よく解釈を捻じ曲げている――そうだろう、黒崎くん?」
今の今まで一言も口を挟まずに傾聴していた翡翠が、ここにきて初めて話の流れを遮ってそう問いかける。
「火のないところに煙は立たない? 人の口に戸は立てられない? その言い方はまるで、君の知らぬ間に噂が流出して、勝手に自分が追い込まれるような状況になったみたいじゃないか」
「実際、人殺しの話が流れ出したのは本当のことだ」
「けど、その噂は独りでに流れ出たものじゃないだろう。だって、人殺しの噂を流したのは、他ならぬ君なのだから」
「…………」
反対意見を論ずる口は、戦う前から黙秘を決め込んでいる。
翡翠の言い様は、まるで全てを見てきたかのような具体性を帯びていた。
「誘拐事件の真相を隠すために――意図的に、殺人鬼のレッテルを流布させた。子供の発想とは思えない妙案だ、同じ立場なら僕だってその道を選んだことだろう。火のないところに煙は立たない、まさにその通りだ。だってその事件は――黒崎浩二が人を殺したという噂は、偽ではなく真であったのだから。噂が定着するのも、時間の問題だったわけだ」
椅子から身を乗り出し、机を挟んで顔を近づけられる。
語りの主導権を奪った彼は、今度は自分の番だとばかりに言葉を捲し立てる。
「殺人というセンセーショナルかつ真偽の見えない噂だけを流し、誘拐事件の真実から好奇心の目を逸らさせた。そしてその結果、浩二くんはよくわからないけど人を殺したらしいというだけの――事実無根の殺人鬼へと化けた。通常なら、こんな馬鹿げた噂が定着することなんてないだろう。けど、君にはそう思わせるだけの力があった――レッテルを真実として信じ込ませるだけの騙りがあった。まあ、実際に殺してもいるわけだから、そう思い込まれてしまうのも無理はないんだろうけどね」
「……偶然だ、俺に人間の噂をコントロールするだけの力なんてありはしない」
「さて、どうだろうね? まあ、とにもかくにも、君はその殺人鬼の噂で誘拐事件が噂になる前の――煙が上がる前の火種すらも未然につぶし、そして同時に己の立ち位置を確保してみせた。人を殺したらしい男。冷徹で残忍な性格をしているらしい男。そういう印象論のみで、君は物語の外側に籍を置くことに成功したわけだ」
「……買いかぶりすぎだ、そこまで考えて行動していたわけじゃねえ。ただ事流れ主義に従った結果、嫌われ者の亡霊に行きついただけだ」
翡翠の言うように、全てを思うがままにして駒を進められていたなら、こんな惨めったらしい結末に辿り着くこともなかったのかもしれない。
それこそきっと――俺が異常であれたならば。
「……そうだね、これはあくまでも僕が描いた妄想だ、偶然に頼った部分もあっただろうさ。けれども事実として、君は世俗から離れた立場を獲得しようとして――――そして、それは失敗に終わった。だからこそ、あんなことが起こってしまったのだろう?」
「…………ああ、そうだよ」
彼の描いた妄想は何一つ間違ってなどいなかった。
一連の騒動で俺は、物語から外れられたつもりになっていた。
誰とも関わらず、誰からも干渉されず、一人慎ましく細々と生きていけるって――あの日の俺は、そう信じて疑おうともしなかった。
中学三年生の夏――優華が同級生に拉致され、廃工場に監禁されるあの事件さえなければ。
原因は、いじめが始まった頃から明白だったこと。
嫉妬と、恨みと、見当違いな憎しみ――そんな幼稚でくだらない感情に、最愛の幼馴染は巻き込まれたのだ。
幸いにして、彼女の身体に傷がつくことは避けられた。
連中がその身に指を触れる前に、存在の全てを叩き潰してやったから。
けれどもその代わり、彼女は心に残っていた古傷を――誘拐事件の記憶を、思い出してしまったのであった。
――――その日は、土砂降りの雨が降っていた。
廃工場から助け出した彼女を背負い、ずぶ濡れになりながら歩いた帰り道。
気を失った彼女の口から漏れるうめき声と、時折耳に届くごめんなさいという悲痛な呟き。
誰に届けるわけでもない謝りの言葉を聞きながら辿る帰路は、俺の誤った人生を象徴するような最低最悪の道であった。