【0-6】壊れゆく世界の話
≪過去6≫
三度目の食事を最後に、この冷たい牢獄に食べ物が放り込まれることはなくなった。
最初の配給では、菓子パンを二つとペットボトルの飲み水が並べられた。
次の配給には、コンビニおにぎり二つと水道水一杯が与えられた。その次の配給は、一斤の食パンが無造作に転がされた。
そしてそれ以降、鉄の扉が次の食料を吐き出すことはなくなった。
時折、中の様子を確認するためか、誰かしらが部屋の前に寄ってくることはあった。
けれども、格子窓から気配を窺う程度で扉の鍵が開けられるまでには至らず、ましてや空腹を埋める何かがもたらされるなど期待すら出来なかった。
閉ざされた暗室――ここが地上なのか地下なのか、一筋の光も差し込まないこの部屋では、自分の在りかすら判断がつかない。
俺と優華は少しのパンと米で飢えをしのぎ、空いた時間の全てを睡眠に費やした。わずかな衰弱をも防ぐために――助かる可能性を高めるために。
食料の供給が断たれてからは、優華には俺のパンを与えて空腹を満たしてもらった。
家畜としての扱いすらなされなくなる事態を予想し、前もってパンを余らせておいていたのが功を奏した。
口に含まず隠し持っていたパンを、新しく供給されたものだと偽って与える。
俺は優華が寝ている間に食べたからと嘘をついて――嘘をつかなければきっと、優華は素直に受け取ってはくれなかっただろうから。
幸いにして、飲み水は併設された朽ちかけのトイレと洗面台から得ることが出来た。
人は水さえあれば三週間は生きていけるらしい。だから、せいぜい数日くらいの断食など、俺にとっては何の問題もなかった。
空っぽの胃が音を立てようとも――何の問題もないと言い聞かせた。
眠って、目を覚まして、優華の口に一切れのパンと水を含ませて、そしてまた眠りにつく。
風説の通り、ちょっとばかり食事を取らなくても死ぬことはなかった。
けれどもそれは、本当に死なないと言うだけの話で――死んでいないだけで、生きているとは到底言えない有様で。
肉体――そして精神にもまた、この極限の環境に適応しようとしてか、生きるために、死なないために、段々と狂いが生じ始めていた。
この頃になると、俺は睡眠の最中であろうと、物音ひとつで即座に意識を呼び戻せるようになっていた。
……いや、それは正確ではないか。
ただ俺は、風が吹いた程度の物音でさえ目を覚ましてしまうほどの、浅い眠りしか出来なくなっていたのだ。
眠っている間に、優華の身に何かがあってはいけないから。
いつでも対応出来るように、絶対に彼女を守れるように――身体は常闇に順応し、心は狂気で摩耗していった。
それから、また長い時間が経った。
もっとも、日の光さえ届かない空間に閉ざされた俺に刻まれた時の流れなど知る由もなく、長い時間というのは体感でしかなかったけど。
長かったかもしれないし、ほんの一瞬だったのかもしれない。
そんなものは、どっちでもよかった。この薄暗い牢獄の中で、時間など無用の長物だった。
大切なのは、俺達が時の概念を失ってしまうほどに時間が経過したのだということと、隠し持っていたパンが底を尽きてしまったということ。
そして、俺達の命が終わりを迎えようとしていること――ただ、それだけであった。
「……浩二。私達、死んじゃうんだね」
隣で壁を背にうずくまっていた優華が、消え入りそうな小声でぽつりと弱音を吐く。
その瞳からはもう、かつての彼女にあった純粋無垢な輝きは失われてしまっている。
無表情で、無感情。
映し出されているのは、魂が抜け落ちた空っぽな暗闇。
そこに少女の幸福はなく、そこに明日への希望はなく。
もう二度と、平穏だったあの頃には戻れないのだって――大好きな優華の笑顔が見れる日は来ないのだって。
少女の口から零れた諦観の一言が、潰えてしまった未来を強く実感させた。
「……大丈夫だ。俺が必ず、優華を助ける」
脳裏によぎるのは、一年前のあの日。
母親を亡くし、部屋の片隅で泣いていた俺の横で、何も言わずにそっと寄り添ってくれた少女の横顔。
あの時、優華がいてくれたから、俺はもう一度前を向くことが出来た。
優華がいてくれなければ、絶望の沼に沈み続けるだけの人間になっていただろう。
だから、今度は自分の番だって――彼女が俺を掬い上げてくれたように、俺が彼女を救う番だって。
そう思っていた。それを願っていた。
そうありたいと望んでいた。そうであってくれと祈っていた。
何度も己に言い聞かせ――その言葉だけを支えにして、俺は正気を保とうとしていたのだった。
――――守るべき少女の心は、とっくの昔に壊れたというのに。