【9】ラッキーアンラッキー
≪6≫
『陥穽の法則』穴をあける能力。
落とし穴に限定せずとも反対側に何もない空間が存在するならば、床も壁も天井も問わずに穴をあけることが出来る。それが、春雨途の使う能力の正体であった。
そして、『陥穽の法則』はその性質上、壁の向こう側に空間が存在するかを把握するためか、能力の副産物として指で示した先の状況をなんとなく見えるようになる。
けれども、それは本当になんとなくで――例えるならソナーとか、エコーロケーションとか、サーモグラフィーとか、そういう動体の位置関係が把握出来る程度であり、透視能力のように壁を透かして見るほどの精度は付与されていなかった。
「だから、その、決してわざとやったわけじゃなくて……篠森があのビキニ女を組み伏せていて、俺に『陥穽の法則』で落とさせようとしていたのまではわかったから、要望通り落としてやっただけで……まさか、そんな状況になってるとは……」
履物を脱いで居住まいを正し、三つ指をついて頭を垂れながら、カーテンにくるまった篠森に平謝りをする俺。
我ながら情けない姿だと思わなくもなかったが、やらかした事の大きさを考えれば、むしろこの程度の謝罪では足りないくらいであろう。
あらぬことか、同年代少女の素裸を見てしまった。
それだけでも大変なことだというのに、よりにもよってその相手は国内有数の巨大財閥――篠森財閥のお嬢様ときたものだ。
とっさに視界を塞ぎはしたものの、僅かな間とはいえ目に映してしまったことに変わりはない。
むしろ、ごく短い時間に視覚情報を集中させ過ぎてしまったが故か、数分経った今でも彼女のあられもない姿を鮮明に思い出せてしまう。
雪のように白く繊細な柔肌は、ゆるやかにウェーブした淡い金髪と合わさり、ヴィーナス誕生を彷彿とさせる甘美な艶やかさを醸し出す。
無駄なものは全てそぎ落とされたボディライン。
しかして優華ほどではないものの、しなやかな線をした体にはおよそ不釣り合いな豊満さを誇る双丘が、そのアンバランスさも相まって、彼女の体躯に人を虜にするような蠱惑的な魅力を付け加えていた。
「……顔を上げて下さい。わかっています、黒崎さんが悪くないことはわかっていますから。今のあなたがするべきは、一刻も早く私の裸を見たという記憶を消すことですわ」
「それが出来れば、苦労はないんだが……」
人形のような容姿に、美術品のような肉体。
海馬の一面に焼き付けられた須臾の肖像は、ちょっとやそっとの時間経過では忘れられそうにない。
「『狂言回し』でなんとかしてください。前におっしゃっていたでしょう、その気になれば記憶だって消せるって」
「いや、さすがに裸の記憶だけをピンポイントで消すような調整は……やるとしたら、篠森に関する記憶を丸ごと飛ばすくらいのことをしないと……」
「……それは、さすがに困りますわね。もういいです、なるべく思い出さない努力をして下さい」
「善処いたします」
寛大な処遇に最大限の謝意を示し、俺はようやく地に伏していた頭をゆっくりと上げる。
篠森は窓のない壁に何故か吊り下げられていたカーテンを引きちぎって身体に包まらせ、急場の間に合わせで素肌を隠していた。
だからもう裸は見えていないのだが、この状況で彼女に目を向ける勇気はなかったので、行き場を失った視線を逃がすように首を九十度右に回す。
「あっははははは! 黒崎くんすごいテンパってるじゃん! さっきまでの余裕綽々な様子はどうしちゃったのかなー? 女の子の裸を凝視した初心な男の子くーん」
春雨は黒板の下で身を横たわらせながら、喉の奥まで見せてゲラゲラと笑っていた。
「ちっ、負け犬は黙ってろ」
「あら、知らないの? 負け犬だって遠吠えくらいはするものよ?」
「……相手するだけ無駄だったな」
あまりに愉快そうに笑うものだから、殺意のままに一発どついてやろうかと死体蹴りを検討しかける。
が、流石に身動きの取れない敗者を嬲るのは道徳的によろしくなかったので、おとなしく無視を決め込むだけに止めておいた。
「……まあ、過ぎてしまったことは仕方がありません。黒崎さん、申し訳ありませんが、上の階に忘れてきてしまった私のドレスを取ってきていただけますか」
「仰せのままに使われましょう」
いつまでもお姫様を裸で座らせておくわけにもいかないだろう。
それに、このまま薄衣一枚で向き合っていては、時が移るにつれてますます居心地が悪くなってしまいそうだったから。
0組を知るためわざわざ篠森のお伴を買って出たというのに、こんな居たたまれない事故で気まずくなってしまっては元も子もない。
今はただ、こうしてお姫様の従順な犬となり、遜った態度で指示に従うことで関係の修復を図るしかなかった。
「なあ、春雨。本当にこの部屋には出入り口がねえのか?」
「本当よ。密室トリックの解決法が読者に提示されていない隠し扉だなんて、興ざめもいいところでしょう?」
まどろっこしい返答だが、どうやらこの部屋が扉も窓もない密閉空間であるというのは、会話の間を持たせるために吐いたでまかせの嘘ではなく真実であったようだ。
一体誰が何のためにこんな無意味な空間を作ったのかはともかく、出入り口がない以上、自力で壁に穴を開けて外に出るほかない。
幸いにして、春雨の『陥穽の法則』が偽装可能な能力であったおかげで、力技で壁を破壊する手段を考えずとも自由に入退室を行うことが出来る。
俺は動けない二人の少女を一旦室内に放置し、廊下側の壁面に穴を開けて教室から脱出した。
「この反則的な壁抜けを前にしちゃ、作家が苦労して作った密室も台無しだな」
どれだけ強固な錠前も、壁そのものをくり抜かれてしまえば元も子もない。
『超常特区』に来てからもうすぐ一ヶ月。
死を回避する特殊な法則――『デッドシステム』のせいで戦闘力の高さにばかり目が向きがちではあるが、こういった戦いの場以外でも十全に機能させられる汎用性こそが能力の真骨頂なのであろう。
こんな摩訶不思議な力を都市に住む生徒全員が持っているというのだから、それこそ外の世界から見てしまえば、0組所属など関係なしに等しく異常に思えても無理はない。
他校の能力者という新しい存在との対峙を振り返り、改めてこの都市の特異性を実感しながら、俺は落とされた一階分を上って第二会議室に到着する。
開けっ放しの扉から中を覗いてみると、自称余所行きのドレスを初めとした篠森の衣装は一カ所にまとまっておらず、部屋のあちこちに散らばってしまっていた。
「一体、どんな戦闘をしたらこうなるんだか……」
やはり、能力者というのは考えも及ばない。
転がっていた服を投擲武器にでもしたのだろうかと、戦闘の経緯を適当に想像しながら無造作に放られたお召し物を回収する。
無駄に煌びやかなドレス。無駄に手触りのいい靴下。
明らかに不釣り合いな普通の上履き。宝石が散りばめられた銀の髪留め。
それから、花の模様が綺麗なレースの純白ランジェリー。
――まあ、こいつに関しては想像に難くなかった。
彼女は一糸纏わぬ裸のままで落ちてきたのだから、衣服と一緒に下着が取り残されているのもまた自明の理であろう。
「こいつを渡したら、また気まずくなりそうだよな……」
篠森の方も、今頃下着を見られてしまうことに気付いて、顔を真っ赤にしているのだろうか。
何かうまく話を逸らせるような言い訳はないものかと、頭の中で悪あがきを続けながら、なるべく直視しないよう下着をドレスの内側に隠し、部屋をぐるりと一周して忘れ物を確認する。
お姫様ルックな彼女のことだから、指輪とかの装飾品を見落としている可能性もあるが、ひとまずはこれを届けた後でまた探しにくればいいだろう。
一通りの衣服を回収したところでそう結論付けた俺は、今度は命懸けの落とし穴ではなく正規の道順で隠し部屋へと戻るため、きちんと扉から第二会議室を後にして階段へと足を向ける。
と、その時、ちょうど廊下の曲がり角を折り返したタイミングで、俺は雛壇学園を訪れてから目撃する四人目の人間――黒子ではなくきちんと男物の制服を着用した男子生徒と鉢合わせた。
「なっ――――!!」
今回の会合において、雛壇学園の生徒会は事前に人払いを済ませていたはず。
ならば、眼前に立つ男こそが三人官女最後の一人――会計担当の役員かと、予期せぬ場面での登場に弛緩していた心がさざ波立つ。
このまま戦いに突入するのかと、畳んだ衣服を片手に持ち替えつつ利き手を懐のナイフに添える。
しかし、
「あっ、しまっ……す、すいません! もしかして、生徒会役員の方ですか? あの、今日は登校禁止だって知ってたんですけど、どうしても取りに来なくちゃいけないものがあって……だから、その……!」
男は俺を見るなり身体を固めてしまい、それから流れるように弁解を並べながら顔色をだんだんと青白く変化させていく姿を見て、全てが杞憂であったことを悟った。
どうやら彼は生徒会の関係者というわけではなく、たまたま通りすがっただけの一般生徒だったようだ。
よくよく考えずとも、三人官女なら最後の一人だって女子のはずだし。おおかた、人払い令が出ているにもかかわらず学校に侵入し、それがばれてしまい焦っているといったところであろう。
「落ち着け。俺は生徒会の役員じゃねえし、そもそもここの生徒でもねえよ」
「えっ……? あれ、ほんとだ。よく見たらその制服、うちじゃなくて符号学園のものだったか」
警戒すべき役員でないことがわかったからか、男は「よかったー!」と大げさなため息をつきながら肩の力を抜く。
「ん? あれ、符号学園の生徒さんがなんで雛壇学園に?」
「ここの生徒会に少々用事があってな」
「なるほど、お客さんだったか……ってことは、この近くに生徒会の役員がいたりするのか!?」
「ああ、まあ」
近くといっても、正確には二人とも階下の隔離部屋に閉じ込められていて、うち一人は『死亡』しているので警戒に値するほどではないのだけど、わざわざ詳細を教える必要もないので適当に頷いておいた。
「やべえ、早くここを後にしねえと! くそっ、これも亜美のやつが無茶振りするからで……おっとそうだった、符号学園の生徒さん、教えてくれてありがとな!」
対面してからおよそ二十秒――別れの挨拶も程々に、男は慌ただしく走り去っていく。
変な奴だったなと思いながらも、心のどこかではほっとしている自分がいることに気付いた。
なんとなくだけど、これ以上あの男とは話していたくなかったから。
ああいうタイプの人間は苦手だ。普通の人間を――満ち足りている人間を見ていると、どうしても心の奥底がチクチクと痛んでくる。
「もっとも、俺が苦手じゃない人間の方が珍しいんだろうけどな」
こういった時、決まって脳裏に浮かぶのは無垢で純真な彼女の姿。
最愛の少女であり、守りたい存在であり――そして、俺が最も苦手とするタイプの人間。
幼馴染という間柄でなければ、決して出会うことなどなかった――出会うことなど許されなかった奇跡は、時として俺に幸福をもたらし、そしていつだって俺に悔恨の念を抱かせる。
住んでいる世界が違う、画面の向こう側に映る人達。
俺にとっての優華が、別世界に映る輝かしい妄想なのだとしたら――こんな無価値な人間と同種に扱われては不服かもしれないけど、きっと俺という不適合は、あちら側よりもこちら側の方が適しているのであろう。
普通なる幼馴染よりも、異常なる彼女達にこそ共感してしまえる。
それがたとえ、現実逃避でしかないのだとしても。
「……嫌なものを見ちまったな」
こんな敵地のど真ん中でも発症する相変わらずの自傷癖に、自分でも嫌気が差す。
今の男との出会いは忘れよう。篠森の裸を見てしまったことと一緒に、頑張って忘れる努力をするとしよう。
そうやって強引に気持ちを切り変え、ついでに裸と一緒に彼女の下着を回収していたことも思い出し、どうにか穏便に済ませる方法はないかと考えながら、のんびりと階段を降りる。
わざと足取りを遅くして牛歩的に無駄な時間稼ぎをしたりしてみたものの、画期的なアイデアが空から降ってくることもなく、結局は無策のまま隠し部屋の前まで到着してしまった。
――仕方がない、もう一回土下座でもするしかないか。
なんて、己の中で謝罪行為への価値がどんどんと暴落していくのを感じながら、完全に引けた及び腰で『陥穽の法則』を使用し、開いた穴を潜ってお姫様の待つ密室に帰還する。
――――教室の中心で、篠森眠姫はカーテンに巻かれたまま『死亡』していた。
「…………は!?」
慌てて倒れ伏す彼女の下まで駆け寄り、かすかな望みにかけて生死を確認する。
両肩を掴んで前後に揺すってみるが、目を覚ます気配は見受けられない。
試しに軽くしっぺをしようとするも彼女の体は『死後防衛』に守られており、二本の指は腕まで届くより前に反射され弾かれてしまった。
「春雨、どういうことだ!?」
黒板の下から一部始終を見ていたはずの春雨に問いかけるも、答えはおろか笑い声の一つすら返してこない。
眠っている。彼女もまた、篠森と同じように『死亡』している。
俺が離れていたこの数分の間で、一体何が起こったというのか。
――そんなものは決まっている。
誰かが、この二人を『死亡』させたのだ。
「けど、誰がどうやって殺した?」
この隠し部屋に入るためには、『陥穽の法則』のように壁をすり抜けられる能力か、それに準ずる普通ではない方法を用いる必要がある。
しかし、そんな常識から外れたやり方を二度も見せられれば、篠森だってその存在には気付けるはずだ。
にもかかわらず、彼女の『死亡』した姿には一切の抵抗の後が見られない。
まるで触れることもなく自然と意識を失ったように、安らかな眠りについている。
気付かれない間に殺された?
いや、違う。その発想は間違っている。
だってそれは――その殺し方は、ルール違反になってしまうはずだから。
「……ん? なんだ、これ?」
ふと篠森の足元を見て、黄色いカバーに包まれた小さな手帳が落ちていたことに気付く。
拾い上げて中を確認してみると、どうやらこれは雛壇学園の生徒手帳のようであった。
それも、一般生徒のものではない――雛壇学園生徒会役員の手帳が。
判別出来た理由は簡単だった。裏表紙に雛壇学園の名前と、それから持ち主の名前が書かれていたから。
「……雛壇学園生徒会1年、会計担当の不知火桃子」
「――――そう、それが僕の名前だよ」
どこからか、中性的な少女の声が耳に届く。
しかし、その正体を探り当てることは叶わなかった。
背中越しに鈍い衝撃が走る。
気付いた時にはもう、鈍色の刃物は深々と身体に突き刺さっており、刃先は一直線に心臓を貫いていた。
(くそっ……やられた……!!)
自身の暗殺にようやく気付いた頃にはもう、正常な意識は深い闇の底へと引き摺りこまれていて。
最後に、殺した人間の顔を拝むことすら出来ぬまま――無抵抗のままに、俺は何者かによって『死亡』させられたのであった。