【22】初めての告白は苦い味だった
≪5日目≫
紅茶は、淹れ方一つで味が大きく変わる物である。
それが単純に茶葉や用いる器具の差だけではなく、技術的な部分においても大きな違いがあることは理解していた。
けれど、同じ器具と茶葉を用いて、同じ手順で淹れているはずなのに、ここまで味が違ってしまうなんて――――
「……一体、私の執事はどんな能力を使って、あんなにもおいしい紅茶を淹れていたのでしょうね」
開け放った窓から差し込む淡い朝日に当たりながら、ほのかに温もりの残った紅茶を一気に飲み干す。
せめて最後の一杯くらいは、繰主の淹れたものを飲みたかった。
なんて、もう届くことのない絵空事を思い描きながら、私は空になったカップを机の片隅に寄せ、慣れ親しんだ椅子から腰を上げた。
「ふふっ……ここも随分と、私の趣味に染まった部屋になりましたわね」
記憶に残っている過去と照らし合わせながら、部屋の家具を見て回る。
初めてここを手に入れた時はただの煤けた廃墟だったのに、いつの間にかたくさんのもので満たされた空間になっていた。
「ここの本は、半分くらいが雫さんのものですわね。あの子、本を読むのが好きですから。そして、ソファーで本を読む雫さんに、蛍さんが茶々を入れて煙たがられるまでが、いつもの風景でしたわね」
ふと本棚を眺めていると、とあるシリーズものの小説の上巻が欠けていることに気付く。
「確かこのシリーズは……少し前に読破した雫さんが、人生の中で三本の指には入ると、絶賛していたものだったでしょうか」
もちろん、彼女がもう一度読み返しているという線もあるだろう。
けれども一方で、妹の趣味を知ろうと思った蛍さんが、こっそり借りているという可能性も考えてみると、口元から自然と笑みがこぼれてきた。
「向かいのソファーには導夜さんが座っていて、そのお隣には界斗さん。あのお二人は毎日のようにくだらないお話で盛り上がっては、横に座るこおりさんに迷惑ばかりかけていましたわね。小百合さんのいた日なんかはこおりさんの制止を振り切って、『ホーム』を飛び出していってしまう始末でしたわ」
そして私は、そんな愉快な仲間達を見守りながら、繰主の入れる紅茶を啜り、彼にこう話しかけていたのでしたね。
「こんな平和な日々が、いつまでも続くといいわね……って」
一通り部屋を見終えた私は、最後にまたいつも座っていた愛用の椅子に腰を掛ける。
目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのは仲間達と過ごした何気ない日々。楽しかった日常が、幸せだった平穏が、鮮明に思い起こされる。
思い残したことがないわけじゃないけど、やれるだけのことはやったつもりだった。
「……皆さんとの時間は、かけがえのないものでした」
覚悟はもう決めていた。だからこれは、お別れの挨拶。
この部屋に、この『ホーム』に――そして、慕ってくれた仲間達に、感謝の言葉を。
「ありがとうございました」
誰に聞こえるわけでもない。それでも、言っておきたかったのだ。
一通りの想起を終えたところで、私はここを発つための後片付けを始める。
窓は閉じて、きちんと鍵をかけ、それからカップを洗って元の食器棚に戻す。
動かした家具の配置を元に戻し、自分が今ここを訪れた痕跡を全て消した私は、最後にもう一度頭を下げ、この場所に――仲間達に、感謝の意を示した。
「本当に、ありがとうございました」
そうして扉に手を掛け、この部屋を後にする。
木製の扉をゆっくりと閉めて、施錠を行うために鍵を取り出そうとしたところで、私は廊下を叩く靴音に――来客の存在に気が付いた。
「あら……来てしまったのね、繰主」
「……勝手な行動を取ってしまい、申し訳ございません」
護人繰主。私の大切な執事。
普段から口数が少なくて怖い顔をしてはいたけど、今日はそれに加えて、なんだかとても強張った表情をしていた。
「いいのよ。私のこと、探しにきてくれたのでしょう? 勝手にいなくなったのは私の方なのだから、放っておいてくれてよかったのに」
「そのような訳にはまいりません。自分は、姫様の執事ですから」
「ふふっ……繰主には家を出る前に、ゆっくり休んでいてちょうだいって言うべきだったかしらね」
「……やはり、そうなのですね」
私達の間に、重苦しい沈黙が流れる。
いつもの居心地の良い静寂とは違う、張り詰めた息苦しい空気に、私はどんな言葉を選べばいいのかがわからなくなり、何も言えなくなってしまう。
きっと繰主は、察してしまったのだ。
私の嘘に――私の裏切りに。
「……姫様」
いつまでも沈黙を貫いているわけにはいかないのは、繰主も同じだったのだろう。
動揺を悟られないようにか、堅苦しさを装ったままに、繰主はそう切りこんでくる。
「姫様は……これから、どちらへと向かわれるおつもりでしょうか?」
「それはもちろん、学校に向かうつもりよ」
「嘘をおっしゃらないで下さい」
私の進路を遮るように前に立ち、力強く、責め立てるような声で、繰主は言葉を続ける。
「姫様、まだ時間は残されています。まだ出来ることはございます。ですから姫様、そんな諦めるようなことは絶対にしないで――――」
「ねえ、繰主」
今度は私の方から、言葉を遮らせてもらった。
「私、ここのところ毎日のように夢を見るの。赤い眼に看取られる夢を、茨と共に朽ちていく夢を。真っ赤な薔薇の瞳が、ずっと私を見つめているのよ」
「それは……ここ最近、その夢を見てはいないと……」
その夢について、繰主には何度か話したことがあった。
私が見た、いばらの呪いの始まり。定められた運命を――末路を描く、悪夢のお話。
「そうね……もう少し頑張れば、あと一週間くらいは持つかもしれないわ。でもね……私はもう、疲れちゃったのよ。こうして気張っていられるのだって、今日が最後かもしれない」
泣きそうな顔をして俯く繰主の頬に手を当て、指先で彼の目尻をそっと撫でる。
「……ねえ、繰主。もしも貴方に、少しでも主を立てようという気持ちがあるのなら、私がみっともない姿を曝すその前に……そこを退いてもらえないかしら?」
そんな意地悪な言い方で――絶対に逆らえない、主という立場を利用した方法で、私は繰主を追いつめる。
「お願いよ、繰主……」
――――しかし、
「……申し訳ございません、姫様。この一件が解決した暁には、自分を捨てていただいても構いません。ですが、今だけは……今だけは絶対に、ここを退くわけにはいかないのです」
頬に当てていた手首が掴まれる。
握りしめる力の強さから、何があろうとも離さないという覚悟が伝わってくる。
それは、ただの一度だって逆らうことのなかった繰主の、最初で最後の反抗だった。
その行為が――心の底から私の身を案じてくれているその忠誠がたまらなく嬉しくて、私は思わず涙を流してしまいそうになる。
けれども、もう私は終わっているのだ。
涙を流すわけにはいかなかったし――彼の反抗を、受け入れるわけにもいかなかった。
「ありがとう、繰主。貴方の淹れてくれた紅茶は、とてもおいしかったわ」
「そんな、もったいないお言葉……を……!?」
そこでようやく繰主は、私の手を――絶対に離さないと誓ってくれたその手を、離してしまっていることに気が付いたのだろう。
『永眠童話』の一つ、触れた人間を眠らせる能力。
長い間、私に頬を触れられていた繰主は、もはや己の意志の力ではどうすることも出来ないくらい、眠気が限界にまで達していたはずだ。
麻酔にも似た強制的な睡眠欲求に襲われながら、それでも立ち上がろうと膝を震わせるも、朦朧とする意識の中で平衡感覚すら失ってしまったのであろう彼は、バランスを崩し、堅く冷たい廊下の床に倒れ込んでしまう。
「ひめ……さま……」
重たい瞼を必死に押し上げながら、悲痛に満ちた声で私を呼び止める。
けれども、やがて睡魔に抗いきれなくなった繰主は、静かに、急速に、意識を闇へと沈めていったのであった。
「……ごめんなさい」
唯一無二の想い人。私の大好きな執事。
いつもわがままばかり言ってごめんなさい。私のせいで、散々迷惑をかけてしまってごめんなさい。
でも私は、貴方という存在を断ち切れなかった。
やがて来る別れの時を知っていても、私は貴方を好きになる気持ちを止められなかった。
うつ伏せに眠る彼の耳元にそっと口を寄せ、別れを告げる。
「繰主、今まで本当にありがとう。貴方の事……心の底から、愛していたわ」
人生初めての告白は、とても苦い味だった。