【10】踏み込まれた最悪の話譚
≪4日目≫
真っ赤な薔薇の瞳が、横たわる私の体躯を見下ろしていた。
紅血に彩られた、大きな大きな薔薇の花。その中心にて鮮やかに咲き誇る、緋色に染まったおぞましい眼。
その視線から逃れようにも、辺り一面の景色を蝕む茨が、私の体を縛って離そうとしない。
その視線から目を逸らそうにも、緋色の眼差しが魂までを絡めとり、背けることを許してくれない。
私はただ、その眼前の災禍と目を合わせながら、心に恐怖を刻み込むことしか出来なかった。
やがて茨は肉体をも蝕み、鮮烈な痛みに脳を掻きむしられながら、私の意識は深い闇に溶けていく。
泥のような赤の中に、己さえ忘れた心は浸り、そしてそのまま、私という存在そのものが、まるで初めからなかったかのように、血反吐の沼に消えてゆき――――
「――――そこで私は、目を覚ますのです」
もうこれで何度目になるだろうか、この最悪な夢の終わりを味わうのは。
全身が汗でぐっしょりと濡れていた。べっとりとした気持ちの悪い感覚に、今すぐにでも寝巻を全て脱ぎ捨ててしまいたくなる。
掻き立てられる衝動をすんでのところで抑え込みながら、私はまとわりつく嫌な汗を洗い流すため、ベッドから降りてそのままに浴室へと足を動かした。
洗面台の前に立つと、普段よりも顔の血色が悪くなっていることに気がつく。
いつものように熱いシャワーを浴びることで元に戻れるだろうかと、少し心配な気持ちになる。
慣れることも、忘れることも出来ない、悪夢に苛まれる日々。
寝巻を脱ぎ去り、姿見に素肌を映し出した私は、体に絡みつく茨の蔦を消しながら、誓いを――思いを、己に言い聞かせる。
「……大丈夫。私はもう、一人じゃありません」
その言葉を信じることだけが、私の生きる全てであった。
***
「ごめん浩二、今日はちょっと先に行っててもらってもいい?」
入学四日目の放課後。
昨日と同じように一緒に『ホーム』に向かおうとしたところで、優華が申し訳なさそうな表情で謝罪を告げてきた。
「ちょっと友達に見ていって欲しい物があるって言われちゃって……用事が終わったら、私もすぐに行くから!」
「おう、了解した」
友達に呼ばれたのなら仕方ない、ついていったところで迷惑なだけだろう。
途中で飲み物でも買いつつ、先に『ホーム』に行っておくかと、そんなことを考えながら適当に荷物を詰め終えた俺は、鞄を手に教室を後にしようとしたところで、
「ねねねね、黒崎くん! ちょっといいかな!」
後ろから、妙にテンションの上がっている夢野に腕を掴まれ、強引に呼び止められた。
「さっき、燕尾服のイケメンに声をかけられたんだけどさ、黒崎くんってあのイケメンくんと友達なの!?」
燕尾服のイケメンという言葉に、俺はかの寡黙な執事の顔が浮かび上がる。
護人繰主――この学園で燕尾服を着ている奴なんて、あの男くらいしかおるまい。
「友達ってほど仲良くはないが……それがどうかしたのか?」
「あのね、さっきその人から伝言を頼まれちゃって……てかなに、黒崎くんいつの間にあんなイケメン執事と知り合いに!?」
護人からの伝言――いや、この場合は護人を通した篠森からの伝言と考えるべきだろう。
ていうかそもそも、あいつ普通に喋れたのか。
執事に眼鏡に美男子にと、女子の心を高ぶらせる要素がこれでもかと詰め込まれた存在を目の当たりにし、興奮を隠そうともしない夢野。
そんな心理状態がかなりおかしくなっている彼女を何とか落ち着かせつつ、俺は頼まれた伝言とやらを聞き出した。
「えっとねー……『姫様が待ってるから、一人で『出会いの場所』に来てほしい』的なことを言ってたよ」
容姿にばかり目が向いていたせいか、肝心の内容についてはだいぶあやふやだった。
まあ、伝えたいことは理解出来たから、文句は言うまい。
一人で……か。あえて優華を外させる席を用意したということは、つまりはそういうことなのだろう。
場合によっては、後ろ暗い話も出てくるぞという警告。
この段階でする話となると、『転校生攻防戦』についてか、あるいはもっと別の――未来についての話か。
何にせよ、0組以外の生徒をメッセンジャーにしてまで知らせてきたのだ。たとえそれが罠だったとしても、訪問しないわけにはいかなかった。
役目を果たしてくれた夢野にお礼を告げ、残りのイケメン談義の相手は綴に任せて足早に教室を後にし、俺は目的地を『ホーム』から『出会いの場所』――屋上へと変更する。
そういえば、本校舎には+組の教室しかないが、0組と-組の教室は別の校舎にあるのだろうか?
なんて、そんな些末なことを考えている間に階段を上りきり、俺は形式的な立ち入り禁止の紙が貼り付く錆びた扉の前に辿り着いた。
三日前と同様、屋上への入り口に鍵はかけられていない。
開いてるって事は入ってもいいってことだろうと、俺は欠片の罪悪感も抱くことなく扉を開いて足を踏み出す。
お姫様は――篠森眠姫は、殺風景な空間の隅でフェンスに手をかけながら、たった一人でそこに立ちつくしていた。
「……一人とは、珍しいな」
その日は、風がとても強く吹いていた。
なにものにもとらわれることなく流れる強風に金色の長髪とドレスの裾を靡かせながら、頬に手を当てて空を仰ぎ見る麗らかなお姫様。
その表情はどこか儚げで、その佇まいはどこか弱々しくて。
一瞬、本当に一瞬のこと。
俺の目には彼女が――篠森眠姫という少女が、今にも消えてしまいそうなほどに、脆く霞んだ存在に見えた。
「いらっしゃいましたか……急な呼び出しに応じてくださって、ありがとうございます」
「あの執事はどうしたんだ?」
「繰主でしたら、今は別件で動いておりますわ」
「へえ、意外だな。お前らが別々で動くってこともあるんだな」
少なくとも、俺が篠森と接してきた三日間、あの執事は片時も離れることなく彼女の傍で待機していた。
「私達だって、四六時中行動を共にしているわけではありませんわ。それは黒崎さんと優華さんも同じことでしょう?」
「そりゃあ、そうだが……お前らのような主従関係とは違って、俺と優華はただの幼馴染なんだ。別行動をしているのだって、当たり前のことだろ」
「ただの幼馴染ですか……本当にそうなのでしょうかね?」
篠森はそこで意味ありげに言葉を止め、口元に小さく笑みを浮かべる。
「……なんだ、似合わないとでも言いたいのか?」
「いえ、とんでもない。私はとてもお似合いの幼馴染だと思っておりますわ。ただ、《《あれだけのことがあってなお》》、ただの幼馴染だと言い張る黒崎さんのお心に、感銘を受けていただけのことですわ」
不自由なく会話が出来る距離から、篠森が一歩足を踏み込んでくる。
薄氷を履むが如き繊細な足取りで、パーソナルスペースを侵してくる。
危うい気配を感じ取った。
触れられたくない領域に、手を付けられる感覚。
全身が逃げろと警告していた。
けれども、ひとたび彼女の妖艶な魔眼に見据えられてしまったが最後、俺は後退する意思そのものを封じられてしまっていた。
それは、能力による強制力などではない。
ただ俺の心が、逃亡の無意味さを悟ってしまったのだ。
「……何が言いたい」
「六年前の誘拐事件、黒崎さんはよく覚えておられるでしょう?」
後ろ暗い話。
未来ではなく、過去の話。
「なにせ貴方は……いえ、貴方達二人は、誘拐された被害者なのですから」
それは、俺が彼女の笑顔を守れなかった、最悪の話譚であった。