第二話
為朝主従が着いたのは、伊豆大島の西側の港の外れの砂浜だった。
港には、溶岩石で埋め立てた上に板を何枚か貼った簡素な桟橋が、何本か海に向かって伸びている。
桟橋の奥には、灰褐色の砂浜が広がっている。やはり火山灰が積もって出来た砂浜だ。
その砂浜のはるか向こうには、この灰色の砂浜を作り出した火山がそびえ、山頂からは依然として黒煙を吐き出し続けている。
為朝たちの乗った船は小さく、桟橋からは上陸できないので、奥の砂浜まで進み、砂浜から上陸した。
砂浜の奥の道沿いにはあばら家が十数軒も立ち並んでおり、まばらな人影がこちらに興味を向けていた。
為朝たちは、船頭の助けを借りて、船の縁から海に飛び降りた。
水は膝くらいまでの深さだったが、晴天の海を一刻も揺られ、熱くなっていた体には、九月の海の水の冷たさはちょうどよい心地よさだった。
船頭は為朝たちの先に立ち、砂浜を上り、藁の屋根と薄い木の板でできたみすぼらしい漁師小屋へ案内した。
為朝たちが漁師小屋へ入ると、中には火鉢が一つと長椅子が四つあるだけで、あとは水がいっぱいに入った樽が置いてあり、その上に柄杓が浮かんでいた。
為朝は躊躇なく樽に向かうと、左手で柄杓を取り、樽の水を三度掬って三度飲み干し、続いて柄杓で頭から水をかぶり、ついには我慢ならなくなったか、柄杓を放りだし、左手で直接頭や体にざぶざぶと水をかけ始めた。
重季は心の中で、また不用心な、飲める水かもわからぬうちに、さらには私の飲む分などまた忘れておられるのだろう、と呆れやら諦めやらを呟きながら、放り出された柄杓を拾い、為朝の反対側に回りこみ、樽の水で柄杓を洗い、そして柄杓を使って水を飲んだ。
幸いなことに水は普通の清水で、虫が湧いている気配もなかった。
続いて柄杓で水を掬い、頭と体にちょろちょろと水をかけていると、重季の顔面を大量の水が襲う。
「そんな女子の行水のようにちょろちょろかけるな、武士ならもっとガバッといけ!」
「う…ゴホ……、八郎様、左様におっしゃいますが、この樽の水は漁師たちが使うために溜めておいたものでございましょう、われら二人で使い切っては迷惑というもの、加えて、もうじきこの島の代官の使いも参りましょう、代官の屋敷に行けば湯浴みなどもできましょう、ここでさように水をかぶる必要もございますまい。」
「おお、そう言えば、あの能面顔の押送人がいないの。使いを呼びに行っておるのか?」
「そのようです。」
為朝が重季の諫めとも小言ともつかない返しを受け流すのはいつもの事。
受け流された重季も、主人の気持ちが水浴びから代官へと向いたことを以てよしとしている。
二人はそこで水浴びを切り上げ、間もなく会うはずの代官のため、正装に着替えた。
正装といっても、直垂を着て、頭に立烏帽子を乗せただけの簡素な出で立ちである。
これから数十年もこの離島で生きていくだけの者たちに、都の貴族が着るような豪華な衣冠は用意されなかった。
二人は着替え終わると、やることもなく、長椅子に腰かけ、しばらくぼおっとした。
熱した体を冷やし、汗を流し、のどの渇きを潤したため、四半時も経たずに為朝がウトウトしだした。
重季はその有様を見ながら思いをはせた。
――右肘の腱を切られ、流刑に命ぜられ、これから暗澹とした蟄居生活が待ち受けているというのに、何とも呑気な、しかし、翻って考えると、これが八郎様の豪胆さでもあり、この豪胆が故に数々の戦場で勇名を馳せてこられたのだろう……
それから昔の思い出などに思いを巡らし、ふと気配を感じて小屋の入り口に視線を移すと、そこに人影が現れた。
重季は視線をちらりと為朝に向けると、為朝はすでに目を覚まし、とうに準備をしていたかのように、胸を張り姿勢を正して座っていた。
「拙者、当地の代官島三郎太夫忠重の郎党、網之上源吾と申す者、為朝様とその従者須藤重季様を我が主島忠重の元へ案内する役目で参りました。よろしくお願い申します。」
小屋に入ってきた男を細かく見ると、歳は三十を超え、背は低めだが、海の男らしく日によく焼けており、筋骨たくましく、但し顔の表情は乏しく、武士というより漁師という風体だった。
「この方が鎮西八郎為朝様である。私はその従者、須藤九郎重季である。出迎えご苦労である。案内よろしく頼む。」
ひと通りの挨拶を終え、四人は漁師小屋を出、網之上源吾の先導で道なりに歩いた。網之上は特別無口な男で、挨拶を終えたきり一言も口を利かず、後ろを振り返ることもなく一定の速さで為朝たちを先導した。
港近くは、ちょうど昼時で、人足の飯場やら干物を店先で干して売る店やらで多少は賑わっていたが、少し歩くと家がまばらになり畑が目立つようになり、川を超えると、塀に囲まれた立派な門構えの屋敷に着いた。
門の前には、男が立っていた。その後ろにやはり男が二人立っていて、恐らく伴の者であろう。
為朝たちが門の前まで来ると、男は前へ進み出て、名を名乗り、一礼した。
「私がこの島を預かる島三郎太夫忠重で御座います。お二方ともようこそお出でくださいました。ささ、まずは寒舎にて旅の疲れなどお取りください。」
島忠重は、年のころは四十、小太りで色は白く、田舎の貴族のような服を着て、満面の笑みからは如何なる表情も読み取れない。
為朝主従もそれぞれ名乗り、一行は代官の屋敷へと入っていった。
玄関をくぐると、白砂が敷かれた広々とした広場になっており、その先にはまた立派な母屋が広がっていた。
母屋の玄関を上がり、四十畳ほどの広さの広間に通された。
妙にがらんとした空疎な広間で、かような田舎では飾る物もなく無用な広さか、とも思われた。
為朝は広間の中央辺りの位置に案内され、そこに為朝が腰を下ろし、その斜め後ろに重季が腰を下すと、忠重は広間の奥の主人の位置に移動し、腰を下した。忠重の伴の者たちは、広間の入口の襖の両脇に控えている。
護送役人が文書を忠重に引き渡し、互いに儀礼を済ますと、護送役人は皆に一礼して素早く広間の入口近くに引き下がった。
「まずは、暑い中、都よりかような片田舎までの長旅、大変おつかれになられたでしょう。何にもない島ではございますが、精一杯の歓待をさせて頂きますのでどうぞお寛ぎください。」
島忠重は、朗らかな笑顔とともに田舎役人らしい慇懃さで、為朝たちをいたわった。
「うむ、世話になる。」
為朝はこれまで幾度となくしてきたように、型通りに鷹揚に返した。
それから、都からの旅路の話や、為朝の武勇伝や、都の風物、この島についてなどをとりとめもなく話し、そして話も一巡した頃合で、為朝主従のこの島での住居の話しになり、その流れでその住居を案内されることとなり、この会合は恙無く終わった。
案内役は、またもや漁師顔の網之上源吾だった。
為朝たち一行は、港で護送役人と別れ、さらに進んで為朝たちの住居に向かった。
住居は、山の麓の崖下にある、竹林で囲まれた武家屋敷で、石垣に囲まれ、母屋と離れの二棟がある、思いの外しっかりした家だった。
敷地内に井戸もあり、多少の間立て篭もることもできそうだった。
離れには使用人の老夫婦が住み、食事の支度や日常の部屋の手入れなどをしてくれるようだった。
為朝主従は母屋の奥座敷と茶の間でそれぞれ寝泊りすることとし、荷を解こうにも下す荷が何もなく、何もない部屋でそれぞれ手持ち無沙汰にごろごろしていたところ、寝入ってしまい、目が覚めるともう夕暮れだった。
重季が客間へ行くと、そこには代官屋敷へ帰ったはずの網之上源吾が控えていた。
「今晩代官屋敷にて、歓迎の宴を開くのでご参上いただきたい、という言伝てを島より頂いて参りました。」
網之上は、平伏しつつ野太い声で言った。
重季は、訝しがりながら了解したことを伝え、一旦下がって寝ていた為朝を揺り起こし、宴の件を伝えた。
そして為朝の着替えを手伝い、自らも着替え、帰りが遅くなると老夫婦に声をかけ、網之上と連れ立って屋敷の門を出た。