マドンナ
キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴り、本日の全ての授業が終了した。
時刻は15時30分。それから10分ほどが経って、再度チャイムが鳴ると、今度はホームルームも終了した。
ここからは、部活動をしている者は部活へ、学業に熱意を持つ者は自主的に勉強を続け、学外に用事のある者はそそくさと帰宅し、特に何もない者は適当に過ごす、そんな放課後が始まる。
「んじゃあな良照ーまた夜ー」
「あーそうだったね、よろしくお願いします」
加奈はバレー部に所属しているため、授業が終われば走り去るように部活へ行った。
良照は部活に所属してもいなければ、学業に熱心でもなく、毎日何かしらの用事があるわけでもない。そのため、適当に過ごす。加奈と別れを告げた後は、教室で15分ほど男友達と談笑し、そして帰宅するためにゆっくり教室から出て行った。
時刻は4時少し前。
6月のこの時間は、太陽もまだまだ高い。しかし学校の周囲の建物に隠れてしまっていて、見えることはない。空が明るいおかげで暗く感じることはないが、廊下の電気は全て点いていた。
昔ながらの設備が多く残る学校でも、流石に蛍光灯を見かけることはもうなくなった。2060年代生まれの良照などはむしろ、蛍光灯など見たことがない。昔から電気と言えば、天井パネルと一体化した電灯パネルのことだった。
教室と廊下の天井は、全てがそれでできていて、その時々の明るさによって、光量や光域を調節する機能がついている。太陽が差し込まないものの空が明るいこの時間は、ぼんやり光ることで、廊下を照らしていた。
だからか、そんな風に照らされる長い長い廊下は、吸い込まれそうなほど淡く見えるものだった。
とはいえそれが日常でる良照は、廊下に出ても何も思うことなく、ただぼんやりと、天井の電灯の光量よりもぼんやりと歩いていた。
だが、廊下の先に誰かを見つけた途端、その様子は一変した。
(あっ、さ、三条先輩っ)
心の中で声を上げた良照は、急に集中の度合いをあげていく。さらには頬を、ほんの少し赤に染め、正面を見ていた目線をキョロキョロと挙動不信に動かし始めた。見つけた誰かを見る際は、チラチラと盗み見るようにしか見れていない。
その不可思議な行動は、伝染したかのように、廊下を同じ方向に歩いていた男子生徒のほとんども行っていた。
頬や耳を染めながら、チラリチラリと廊下の先を見ていたのだ。
その様子を、なんと呼ぶか。無論、恋と呼ぶ。
彼等が盗み見る視線の先、廊下の向こうからは、コツコツとローファーが床に当たる音を微かに立てながら、1人の女子生徒が歩いて来ていた。彼女は、良照の想い人、そして学校のマドンナだった。
黒くぬばたまとも言える髪は腰ほどまでに長く、歩く度に毛先までがしなやかに揺らす。
今時珍しい紙製のノートを、抱え込むように持っているため、胸は隠れ上半身の凹凸は分かり辛いが、しかし全身のプロポーションは抜群で腰が細く足が長い。また、いつの時代も男子高校生といえば馬鹿なのだから、マドンナである以上、上半身の凹凸も遠目から分かる程にあるのは間違いない。事実、そこも含め抜群のプロポーションであった。
マドンナと良照の距離はどんどん縮まっていく。ごく、と良照は生唾を飲んだ。
廊下には幾人も生徒がおり、良照の前方にも男子生徒は何人もいた。そんな彼等はマドンナが通り過ぎた瞬間だけ、皆一様にチラリと一瞬だけ振り返っていた。そのため、廊下にいる男子生徒達が向こうから順々に振り返っていくという、ドミノのような、それはそれはとても面白い光景が見られたのだが、大笑いする者は廊下にいなかった。
男子生徒はもれなくマドンナしか目に入っておらず、女子生徒は不機嫌そうに眉をひそめるだけだったからだ。
マドンナの顔は、美麗、という言葉がよく似合うものだった。
肌は白く、目はキレ長で、唇が赤い。かと言って冷たさは微塵も感じさせず、まとう雰囲気は優しげで儚げで、慈愛に溢れる。
ナチュラルコードが一般に広く浸透し、しばらくが経ったこの時代、顔の美醜やスタイルは、生まれ持ったものではなく後天的に作れるものになっていた。それも、とても簡単に。
顔の設定値を弄るだけで、目の位置鼻の位置それから形が。体の設定値を弄るだけで、身長や胸、筋肉が。それから匂いや肌質など、とにかく全てが何でも変更が可能だったからだ。
それは整形とは違い、脳がそれを正しい状態だと判断し、細胞分裂などの人の代謝によって作り変えていくものであるため、安全且つ自然であり、抵抗を持つ者は最早いない。化粧文化がとうの昔にハッキリと廃れてしまったほどに。
加奈も、良照の手によって身長を高くし顔を可愛くし、肌を綺麗にし、体が細いままでもパワーが出せる筋力に変えるなど、見た目に関することだけでも様々なことを行っていた。
したがって、綺麗さやカッコよさは、全てお金次第だと言えた。
お金さえあれば、どんな風にだってなれるのだから、顔の美醜やスタイルで人を選ぶのは、馬鹿らしい、この時代の誰もが、そう思っていた。
しかしそれはあくまで理性の中だけの話で、やはり綺麗な人は綺麗で、カッコイイ人はカッコイイ。どういった理由で美しさを手にしているにせよ、自然と人の目と心を惹き付ける。
異性に人気があるのは、やはりそういった者達だった。
さらに、マドンナの綺麗さはそういった時代においても飛びっきりで、尚且つ魅力とは、凛とした姿勢や清浄な佇まい、品のある所作や高潔で可憐な性格が、顔や体の美醜に加わったものであった。
学校に通う大多数の男子生徒が憧れと好意と心臓の高鳴りを持つのも仕方ない話と言えた。
振り返っていく男子生徒達。
マドンナは彼等が振り返っていることに気づかない振りをして、一瞥もしないまま、コツコツと小さな足音を立てて廊下を進んだ。
(綺麗だなあー……)
良照もまたそれら男子生徒と同様に、鼻の下を伸ばしチラチラ眺めながら一瞥もされず、鼻呼吸多めで見送るはずだった。
ところがマドンナは、良照の隣で急に立ち止まった。
(な、なにっ?)良照は愕いて、心臓を掴まれたかのように固まってしまった。良照は一瞬呼吸もできないほどの緊張感に襲われた。それと同時にありもしない未来が想像されていく。(ま、まさか……)
随分都合の良い妄想だった。
だがすぐさま自分が、箸にも棒にもかからない地味系男子であることを思い出した。
(多分、何か別の要因があったんだな。僕は関係ないか)
良照は悲しい結論を出すと、立ち止まったマドンナの横を、歩いて通りすぎながら、いつも通りに横目でマドンナを見た。
マドンナは良照を見ていた。
「葉山君」
そして良照の苗字を言った。呼びかけている声色だった。
「へっ?」良照は素っ頓狂な声を出し、マドンナと目を合わせた。途端に良照の顔は真っ赤に染まっていく。「ななななん――」
何でしょうすら言えず、ただ顔色をどんどん赤に変える良照を見て、マドンナはくすっと笑うと、抱えていた本から片手を外し良照の下半身を指差した。
「ポケット。パソコン落ちそうよ」
「え――」良照はビックリして自分のポケットを見ると、確かに折りたたんだパソコンが半分ほどポケットからはみだしていた。「あっ」
それは愕いた拍子に落ちてしまった。
「わ、とっ、と」良照はそんなことを口にして、慌てて拾おうとした。「す、すみません――ああっ」
しかし、残念ながら拾おうと足を動かした瞬間、パソコンを蹴飛ばしてしまった。パソコンはマドンナの足元へ。あまりのカッコ悪さに、良照は顔を真っ赤にした。
けれどマドンナはそれを笑うこともせずに、膝を曲げてしゃがみ、パソコンを拾い上げた。立ち上がるのと同時に、ついていた埃を優しく払うと、良照に優しい微笑みと共に差し出した。
「はい、どうぞ」
「あああ、ありがとうございます、さ、三条先輩」
「あら、名前知ってくれてるの? ありがとう」マドンナ、三条は、良照が自身の名前を知っていることについて気になったのか、こう続けた。「でも、どうして?」
答えは恋をしているからだが、良照にそんなことを正面切って言う勇気はまるでない。
「い、いえっ、そんな。あははは、ぼ、僕の方こそ、名前知っていただけてたんですね」
「当然じゃない。有名よ? 葉山君、コードが上手って。本当は駄目なことだけどね」
マドンナ、三条は悪戯っ子のように笑った。
「す、すみません」
「良いのよ、皆やってることだし。それよりもパソコン、もう落とさないようにね。精密機器なんだから」
「は、はい。ありがとうございます、気をつけます。でもこれ落としても大丈夫なやつって売り文句の頑丈な……そう言えば、これ、パソコンって、よく分かりましたね。折りたたみとか、古いからあんまり見ない形なのに」
「そう? さあ、なんでかしらね? それじゃあ、今日は早く帰るのよ」
三条は耳に残るような優しく艶のある声でそう言うと、くるりと体の向きを変え、歩いていった。
体を動かしたことで、空気がフワリと動き、良照に当たった。
良照は、スーッと鼻呼吸多めでその空気を吸って、チラチラ振り返りながら赤い顔で廊下を歩いて、帰路についた。
なおその頃、加奈は、バレー部専用の更衣室で着替えながらムカついていた。
「どしたの加奈?」
「いや、なんか今イラっとして……」
「ええー、なんでー?」
「なんでだろう、でも、多分、……勘。女のっ」
2077年、ナチュラルコードもまだ、女の勘には及ばない。
「今日は良いコトあったなあー」
なお、良照の勘は、とても当たらない。フワフワした心で、良照は玄関で靴を履き、校門を出て下校した。
そう、良照の勘は、当たらない。
だから良照は、何も知らないと言えた。
5年以上に渡り、自身を監視し続けているその目を。組織を。父の死の真相を。
後ろを尾行する、その誰かを。
学校から良照の家まではそう遠くない。歩いて15分もあれば着く距離だった。
また近年は、大都市のみだが全ての歩道が屋内に移設されたため、信号はなく、行き交うのは歩行者のみ。この時間なら10割が学生であった。
良照の周囲には同じ学校の学生が大勢おり、同じクラスの男子生徒もいたが、良照は誰とも喋っていない。ずっと、手の平に投影された携帯電話の画面に書かれた、医療レポートの記事を読むことに集中しているため、そもそも気づいてさえいなかった。
「ふむふむ……っとと」良照は十字路を真直ぐ行きかけ、慌てて左に曲がった。歩き慣れたこの道さえ間違うくらいに熱中していたのだ。「あぶな」
良照は言った。
周囲にいる学生の数は徐々に少なくなっていく。
家の方向によって分岐することと、歩く速度の違いにより間延びすることが主な原因だが、良照の家の方向が少し特殊なことも、原因の一つだった。
良照が住む地区は、住宅の8割がマンションとなった今の時代には珍しい、一軒家が多くを占める地区。さらに言えば高級住宅街であった。
父親がコード関連の研究の第一人者であったために、かなりの高級取りで、家を買う際にそこを選んでいた。良照が通う高校は私立だが、学費がそう高くない一般的な学校であったため、その区画から通う者はほとんどいなかった。
特にこの時間に下校する者は、誰もいない。わざわざその区画から一般的な学校へ通う者は、強い部活に入るため、勉強をするため、遊ぶため、様々な理由があって入学することが多い。教室に15分残ってから帰る者は、良照ぐらいだった。
「ふむふむ。あいだっ。いたあ……」良照はアーケード街を歩いている時に、街路樹を囲う花壇に蹴躓いた。
慌てて、周囲をキョロキョロと見回したが、笑う者はおろか、人っ子1人いなかった。
「ふう」良照はホッと安心して、また歩き出した。
しかし、それは、良照から見えていないだけの話だった。
「ドンくせえ野郎だな」誰かが呟く。「あれを監視等級Dにしてる奴は、一体どんな気持ちで見張ってんのか。同情するぜ」
良照の後方遠くで発せられたその声は、本人へは届かなかった。良照はまたしても手の平に投影されたレポートに集中して歩いていた。
呟いた誰かは、その後ろをつけていく。
それは長身だが恰幅の良い、怪しげな男だった。
全ての犯罪が、監視カメラによって記録されるようになった現代。
家の中にいても、待機中のパソコンやエアコン、はたまた他の家電製品や置き物などのカメラから撮影されてしまうが、家の外ではさらに厳しく、町中には至るところにカメラが設置されており、もし不審な行動をとれば、即座に複数のカメラが対象を追いかけ、すぐさま警察に通報する仕組みになっていた。
ストーカー行為は、既に不可能。怪しげな男も、普通ならば既に通報され逮捕されているはずだった。
だが男はストーキングを続けている。警察は来ない。
監視カメラの映像は、AI監視の他に、人の目も必要だということで、警察へとリアルタイムで転送され確認されていた。今この場所の映像も、他の場所を映すたくさんの映像と共にであるが、巨大なモニターに映しだされていた。それでも警察は来ない。
「異常なし」
映像を見ている警官はそう言った。それは男が怪しくないからではなく、そもそも、男が監視カメラに映っていなかったからだった。
カメラが男を避けているのではない。男がいる場所をカメラは映しているはずなのに、映像に男が映っていないのだ。まるで透明人間であるかのように。
それを可能とする技術こそが、良照が監視される理由でもあり、そして、誘拐される理由でもあった。
「しかし臭う。臭うぜ」
男はニヤリと笑うと、良照へと近づいていった。
良照に不審な動きはない。身元もハッキリしており、特殊な政治的思想もない。そのため、カメラは良照を全く追跡しなかった。必然的に良照は、度々カメラの死角に入ってしまう。
その瞬間、良照は男に声をかけられた。
「おい坊主」
声に良照が振り返ると、男は言った。
「虚数コードって、知ってるか?」
「――はっ? どちら様――うっ」
男が良照の首元に触れた瞬間、手から首へ短い稲妻がバチリと走り、良照は膝から崩れ落ちた。
男はそれを物音1つなく抱え、肩に担ぐとその場を後にした。ほんの一瞬の出来事。それを境に、監視カメラは良照の姿までもを映さなくなった。
ブックマークありがとうございます。
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