良照と加奈
誰かが、屋上へ向かう階段を駆け上がっていた。
その足取りは軽やか、というよりも、飛び跳ねるようで、一歩で階段を何段も飛ばしている。
一歩毎に短いスカートはふわりと浮いて、程よく筋肉のついた太腿の、さらに上にある縞模様の布地がチラチラ見えてしまっているが、本人は全く気にした様子がない。
屋上では、腰を上げるために年寄り臭い言葉を発しながら、男子生徒が立ち上がっていた。
ゆったりとした動作で、折りたたんだノートパソコンと折りたたんだキーボードを、ポケットに突っ込むと、これまたゆっくりと歩き始めた。肩は随分落ちていた。
お尻部分がテカテカで、裾が地面に擦れそうなズボンは、パソコンとキーボードが入ったことでさらにほんの少しずり落ち、裾を擦るようになった。
階段を駆け上がる女子生徒は、両手に荷物を持っていた。赤い風呂敷と、青い風呂敷。
大した重さがあるわけでないが、それはあまり揺らしてはいけないものだった。振ったりなどは持っての外。そのため、本来なら女子生徒はゆっくり階段を上がらねばならなかった。
しかし女子生徒は、高校1年生の6月ながら、既にバレー部でエースとして活躍するほど運動神経が良く、2つの包みを揺らさないことと、階段を駆け上がることを両立できていた。
「なんの授業だったっけ……。しまったなあ」男子生徒は呟き、屋上から出るために、扉の方へと向かっていた。「まあでもやっちゃったものは仕方ない……かな? うんうん、昔の偉い人も過去を嘆くより未来をどうたらって言ってたし」
扉はドアノブをひねって手前に開ける古いタイプ。近年絶滅しつつあるこのタイプは、扉の向こうに人がいる際に勢いよく開けると、扉の向こうの誰かに打ち付ける可能性があった。大火扉であるため厚みがあり、反対側の音が聞こえないことも、その可能性をさらに高めている。
しかし幸い、屋上から出る際は手前に引く側であり、男子生徒が誰かにぶつける心配はなかった。
ぶつけられる心配は。
男子生徒が扉を開けようとした途端、その扉は勢いよく開いた。
ドアノブを持つためにと少し俯き加減だったからか、扉は男子生徒の額に勢いよく当たり、男子生徒は、「いたーっ」と言いながら大きく仰け反ることになった。
「あれ、すんま――、あ、良照じゃーん。良かったー、やっぱここにいたかーっ」
そうして、扉の向こうから、女子生徒が現れた。
2、3歩下がるようによろけ、額を押さえた良照は、声に反応して悲痛な顔を向けた。
「いたたた、いつからここは自動ドアに……。ん、加奈。なんで?」
「なんでって酷いやつー。教室にいないかったから弁当持って来てやったんだよ。どーせ屋上だろうと思って。これ、弁当っ」
そんな良照に、加奈は両手に持った2つの包みを、笑顔で顔の高さまで上げて答えた。
「あ、ありがとう。え、酷いやつって、え、痛あー、人にぶつけといてよく人にそんなこと言えるね」
「授業サボった天罰が降ったんだあ、可哀相に。神様はちゃんとドローンで見てる」
「いやドローン使わなくても神様は世界を見られると……って人災でしょこれはっ。加奈が見てないから」
加奈は最初こそ、申し訳なさそうな顔を扉の影から出したが、被害者が良照だと気づくと、すぐさまほころんだ顔に変えていた。
そしてぶつけた罪悪感などなんのその。
「めんごめんごー」謝っているかどうかすら定かではない謝罪1つだけで、万事解決と思っている様子を見せた。
だから2人は顔見知りだった。
いや、顔見知り以上の関係だった。
良照と加奈は小学校に入る前から、お互いをよく知っていた。
その頃から今に至ってもよく遊ぶ仲で、喧嘩こそ何度もしてきたが、仲の良さに陰りが出たことはない。付き合ってるんだろ、と、周囲から頻繁に言われるような距離間を保ちつつ、人生の大半を一緒に過ごしてきた。
2人の関係は、一般的な幼馴染よりも、もう少し深い関係の幼馴染と言えた。
ただ、付き合ってはいないし、付き合ったこともない。さらに言えば2人には、それぞれ好きな人がいた。
もちろんお互いのことではなく、良照は学園のマドンナのことが、加奈は野球部のイケメンエースのことが、それぞれ好きだった。
加奈はイケメンエースの試合に、同じく恋する友人達と共に必ず応援に駆けつけ、試合後はタオルを渡そうとするくらい熱狂的。良照は偶然見かけた際にチラチラと盗み見るだけであったり、隣を通り過ぎた後など妙に鼻呼吸をしたりするくらい地味。
だが、とどのつまり、良照と加奈の好きは、あくまでミーハーなものであった。
付き合いたい気持ちはほぼ無く、見れば満足、応援できれば満足、その程度。この学校に通う生徒の大半が持っているような、そんな程度の好きしかない。
向こうから告白されれば付き合う可能性もあるが、恋心と表すには少し微妙な思いだった。
だからか2人は最近、付き合ってるんだろ、と、からかわれても、否定しなくなってきていた。あるいは仲の良い友人達も、本当に付き合っていると思っているかもしれない。そのくらいに、2人は親密で密接な関係で、同じ時を歩んでいた。
一緒に弁当を食べるのも毎日の話で、2人きりで弁当を食べるのも、よくある話だった。
(ぶつけたの良照で良かったー)
「ぶつけたの良照で良かったー」
ニコニコ笑顔で加奈は思ったことをつい口にしてしまいながら、屋上に足を踏み入れた。良照は非難するような目で見たが、それを颯爽と無視して、加奈は足で蹴って扉を閉めた。
足を使ったのは生来の行儀が悪いからではなく、両手が埋まっているから仕方なく。右手に持っているのは、青色の風呂敷。左手に持っているのは、ピンク色の風呂敷。どちらも弁当を包んだ風呂敷だった。
「ほい、弁当」
加奈はそう言うと、改めて良照の弁当、青色の風呂敷の方を差し出した。
「感謝しろよな?」
そんな言葉も付け加えて。
「……あ、ありがと」
おでこを抑え数秒間目を細め、加奈を見つめた良照だが、ニコニコ笑顔が一切崩れなかったため、仕方なしと言わんばかりのため息混じりで受け取った。それでもきちんとお礼を言う辺り、人の良さが滲み出ている。
そんなお礼に気を良くしたのか加奈は、さらにニッコリ笑った。
「良い天気だなー」加奈は両手を上に上げ、気持ち良さそうに空を見上げながら、屋上の真ん中の方へと歩いて行った。
「釈然としないなあ」
良照は首をかしげながらそれを見送った。
2人の身長は、顔1つ分以上違った。男である良照の方が低く、加奈の方が、随分と背が高かった。
加奈の身長は、女子としては相当に高い180cm後半もあり、反対に良照の身長は、高1男子としてももう少し欲しい160cm前半。その差は25cm。
そのため、すぐ近くを歩いて行った加奈の、ニコニコ笑顔を見送った良照は、上を見上げることになる。良照の視界にも空が映しだされた。
(ああ、確かに今日は良い天気だ)良照は思う。(全然気付かなかったな。加奈はそういうのよく気づくよなあ)
そして少し笑った。
ほんの数秒空を見上げて、良照は先ほどいた屋上の隅へ向かった。そこは、フェンスにもたれかかれるだけの、屋上のどことも変わらない普通の場所。しかし中学時代から同じ校舎で過ごしている良照の定位置であった。日当たりは良くないので、春先や秋の終わりになると若干寒くなってしまうのが難点だが、丁度風が来ない位置でもあるため、寒すぎることはない。
何人かで屋上で話す際も、ここに集合する。
良照は床にそのまま座り、ポケットに入れていたパソコンとキーボードを脇に置いた。手の平サイズまで折りたたまれているが、風で飛んで行ったりしない程度の重さはある。そして、チラリと、未だこちらに来ない加奈を見た。
加奈はまだ屋上の真ん中辺りにいて、空に向かって伸びをしていた。ただそれを見た瞬間、良照はすぐに目をそらした。伸びをしていた加奈のヘソが丸出しだったからだ。身長が高い加奈は、必然的に胸も大きく、背を反らすように伸びをすれば、ブラウスは裾から抜けてしまう。
普通の羞恥心を持った女性ならば、やらない行為だが、今現在ここにいるのは良照と加奈だけで、加奈は脇が甘くなっていた。
視線をそらし、学校の隣に建つ一際高いビルを見つめるしかなかった良照は、1つため息をついて、自分のため息の多さにもう1つため息をついて、その視線を弁当へやった。
高校1年生。学校での1番の楽しみは、弁当だと言っても過言ではない。
青色の風呂敷をかいたあぐらの中心に置き、結び目に手をかけると、腹の虫が、途端に騒ぎだした。
弁当箱があらわになり、腹の虫がさらに騒ぎたてた辺りで、良照は加奈に話しかけられた。
「今日はなんだと思う?」
加奈は、いつの間にか良照の前に立っていた。
「えー、なんだろ。昨日は魚のフライだっ――」
良照は出題された問題を考えながら顔を上げて、加奈を見た。しかしパンツが見えたため、すぐにそらした。身長が高い加奈は必然的に足が長い。スカートも大分短くしているため、ほんの少し風ではためいただけで、座っている状態からだと見えてしまうのだった。
普通なら抑えるかなにかするだろうが、加奈は脇が甘い。
「よっと。ふふふーん、なんでしょうねー」
パンツを見られたことに全く気付いていない加奈は、良照の隣に座った。
隣と言っても、フェンスの土台になっている、高さ20cmほどのコンクリートブロックの上。
あぐらをかいて座ったり、正座をして座ったりすると、足が太くなるから嫌だ、という理由で、加奈は床に座らない。その辺りは女の子だ。
加奈は存外に器用な指使いでピンクの風呂敷の結び目を解き、良照に一瞬遅れるタイミングで弁当箱を開いた。
良照と加奈の弁当の中身は、ほとんど同じであった。
「あ、ハンバーグだ」
「な、なんと大正解」
「いやもう見てるし。いただきます」
「はいどうぞー」
違うのは品の個数や量くらいなもので、種類も作り方も同じ。強いて言えば、良照の弁当に入っている品にはコゲが少なかったり、見栄えが良かったりする程度。
作り手が同じであることは明白であり、どちらが作ったのかも明白であった。
「ん、美味しいね。ハンバーグも美味しいよ」
「まあハンバーグは冷凍なんだけどね」
「……ごめん」
「ウソ、作った。昨日の残り物だけど」
「へえー美味しい美味しい、やっぱどんどん料理上手くなってるよね。……え、なんで嘘ついたのっ?」
「えへ」
弁当が必須の高校に入ってから、まだ2ヶ月と少ししか経っていないが、良照の分の弁当も加奈が作っていた。
付き合っていると思われる1番の要因がこれであることに、実は2人は気付いていない。
「そ、それで授業、どんなだった? どこかテストに出るとか……」
「ん? 中学ん時と一緒一緒。つまんねー歴史だよ。もう覚えてるってのにねー」
「ああ、歴史かあ、なら良かった」
「サボるんなら言ってくれたらいーのに。あたしもサボリたかったー」
「2人でサボってるとまた何か言われるよ。それにわざとサボったわけじゃないって。コード書いてて集中してて……。僕がいないことに先生何か言ってた?」
「いや、多分気づいてなかったんじゃないかなー。良照影薄いし」
「え、嘘でしょ? それはそれで悲しいんだけど」
2人は会話しながら弁当を食べ進めていく。
そうして屋上に良照と加奈以外にも、まばらに人が来た頃、2人は箸をケースの中に戻した。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま。美味しかったです、明日もよろしくお願いします」
「これはこれはご丁寧にどうも。明日も頑張らせていただきます」
良照が敬語を使って頭を下げると、加奈もまた丁寧な言葉遣いでお淑やかに頭を下げる。特に笑いどころのないやり取りだったが、そう言った2人は耐え切れないとでも言わんばかりに、揃ってクスクスと笑った。
会話はまた再開され、2人はどうでも良い話を、おもしろおかしそうに話しながら、弁当箱を片付けていった。
屋上には徐々に人が増え、中にはカップルもちらほら見受けられ、学生同士のカップルらしくイチャイチャする者達も多かったが、良照と加奈も負けてはいない。他の者達には出せない、長年連れ添ったがゆえの夫婦感が、常に漂っていた。
しかし弁当箱を風呂敷に包みなおしたところで、急に加奈は真剣な面持ちで良照を見つめた。
「さて、良照。いや良照君。良照さん、良照様」
その声も、もちろん真剣そのもの。
一体どんな話が、と、普通なら身構えてしまうところだろうが、良照にはその顔や態度に見覚えがあった。
「え? もしかして……」良照はそう言って、途端に嫌な顔をした。
「違うな、良照先生、いや、まだ足りない、そう、ヨシえもん。ヨシえもーん、お願い! 変なコード入れちゃったから、とってえー」
「またあ?」