1 仕事は有りますよ?
「ふいー」
プリスはちびちびと酒を呑む。左手では頬杖を突き、右手では掴んだグラスを人差し指で軽く叩いてリズムを刻む。気怠げなブルーの瞳の向かう先は、長椅子が並べられた空間と、その向こうの何も置かれていない空間。そしてそこを行き来する人々だ。
彼女が座るのはいつもの席。冒険者ギルドに併設された酒場の奥のカウンターにほど近く、尚かつ最も冒険者ギルド寄りの二人掛けのテーブルで、正面に冒険者ギルドの待合室を望む側の席だ。酒場の客席とギルドの待合室との間には柱は在っても壁は無いので、この席からなら待合室が一望できる。さすがに柱の陰までは見えないが。
そう、セントラルスの冒険者ギルドには酒場が併設されている。世界中からしてみれば、むしろ少数派だ。それにも拘わらず併設されたのは、意見を求められた有力な冒険者がこの手のギルドに馴染みが深かったからなのだろう。
建物の入り口から見れば、酒場はギルドの待合室の左に在る。隔てる壁が無いため、一見では待合室の一部のようにも見える。座席は四人掛けのテーブルと二人掛けのテーブルを合わせて七十席ばかり。詰めればその倍くらいの座席が配置できそうなフロアに、余裕を持って配置されている。
朝の喧騒が過ぎたギルドの待合室は今、のんびりとした空気が漂っている。
混み合うのは夜が明けて間もない朝の一時間ほどと、日暮れ近い夕方の二時間ほどだ。朝は一日仕事を朝一番で請ける冒険者が多いため。夕方は請けた仕事の報告をする冒険者と、翌日以降からの日を跨ぐ仕事を請ける冒険者が入り交じるため。報告場所が異なる狩猟や採取に携わる冒険者が、結果を報告した後に情報交換やその他で訪れもするので、夕方の方が混雑する。
つまり今は合間の時間である。
居残っている幾人かの冒険者にもせかせかした様子など皆目見えない。この時間の待合室は、仕事の都合でたまたまこの時間になった冒険者や、空いている時にゆっくり依頼を吟味したい冒険者がちらほら入れ替わりで姿を見せる程度でしかない。
依頼掲示板の前には貼り出された依頼に一つ一つ目を通す冒険者が佇んでいる。請ける仕事の物色か。いや、恐らく吟味しているのは彼自身。自分にはこの依頼を達成できるのか。できないなら何が足りないのか。その足りないものは獲得可能か。獲得できるとしたら、それはいつ頃か。そんなことを考えながら、自分に折り合いを付けてもいるのだろう。
居並ぶベンチの一つでは、一人の冒険者が眠りこけている。今朝、プリスがギルドに来た時にはもうあの状態だったから、あそこで一夜を明かしたらしい。ギルドも泊まる準備をして眠っているようなら追い出すが、着の身着のままに眠る程度なら見逃している。
別のベンチでは何やら話している冒険者達が居る。時折プリスの許まで声が届くが、「助手が欲しい」とか何とかの断片でしかなく、何を話しているのかはっきりとは判らない。きっと取り留めも無い話だろう。これが仕事の具体的な話ともなったら、他人に聞かれてはいけない場合も有るのだから、こんな場所では話さないに違いない。
そんな変わり映えのしない光景。重箱の隅を突くなら同じ日など無いが、いつもと同じと言っていい今日である。
「この世は事も無し、っと」
「仕事は有りますよ? プリスさんへの依頼がこんなに」
袖口の広い半袖シャツに膝丈のスカートと、涼しげな格好をして立っていたのは受付嬢のココットだ。いつものようにプリスの許まで来た彼女が十数枚の紙束を扇に広げた。
これは正確に言えば依頼の打診。上級冒険者ともなれば、数多の依頼が舞い込んで来る。仮に全部請けたとしたら身体が幾つ有っても足りない。だから先に請けるか否かの確認を取るのである。
「またぁ? 断っておいてよ」
「そんなことができないのはご存じではありませんか」
ココットが腰に手を当てて右に小首を傾げれば、右に束ねられた髪がふわっと揺れる。
当然ながら、依頼の打診を本人以外が勝手に断ることはできない。そんなことができたなら、何者かによる恣意的運用が可能になってしまう。例外となるのは、本人の死亡や行方不明等の理由で伝達が不可能だと客観的に明らか場合である。
「仕方ないわね……」
プリスが手を差し出せば、ココットが書類を手渡す。
プリスは嫌そうに溜め息を付きながら書類に目を通す。万が一であれ、請けなければならない依頼が混じってないとも限らない。
「見たけど、やっぱり全部東じゃないの」
プリスは目を通し終わった書類を纏めて、パタパタと仰いだ。
ここでの東は大陸東部を指す。この町が大陸西部に在るためだ。
大雑把に言えば、大陸は縦に潰れた楕円形をしている。古には人類がそのほぼ全域を支配していた。そうで無くなったのは歴史から見れば最近になってのこと。大陸のほぼ中央を境に西半分を魔物に奪われた。百数十年前の出来事である。
人類がその大陸西部の奪還を開始したのが約十四年前。未だ道半ばで、現状は停滞している。奪還しても人が住めるようにするには容易ではなく、手が回らずにいる間にまた魔物に占領されるなどするからだ。それでも、奪還した領域は大陸西部の過半に達している。
人類の現在の拠点はここ、セントラルスの町である。人類が最初に奪還して橋頭堡ともなった砦からほぼ真西、徒歩なら約三十日の平地に、計画的に建設された。開かれてから十年になる。
以前も軍の駐屯地ではあった。仮設の小屋が建ち並んで村の様相を呈してもいたが、往来するのが軍事関係者だけとあっては村からはほど遠いものだった。魔物も多くて危険でもあった。町を建設できるだけの安全を確保するのに一年が費やされた。その後に町の外形を整えるまでに、更に一年が費やされた。
そして町の建設に当たっては始めから植民を目的とし、行政を担うのも文民となっている。つまり、体制的には各国の軍が駐屯する以外は大陸東部の普通の町と変わらない。
「レムに頼んだって最低でも片道三日掛かるような場所になんて行ってられないわよ」
レム――小塚玲夢――とは召喚勇者である。その保有する固有魔法の特性から輸送に特化した道を歩んでいて、専用の荷車を用いることで、整地なら馬車の二十倍、不整地でも十倍の速度での輸送を可能としている。そしてこの上限は、これ以上の速度に荷車が耐えられないためであって、能力の限界からではない。抑えていてこの速度なのである。そして彼女はこの能力を以て、プリスも加わっていたパーティの一員として大陸西部進攻初期に活躍した。現在は運送会社を経営して、自らも運送を担っている。
「遠いですよね……」
冒険者ギルドとしても治療術士のプリスが長期に亘って不在になるのは好ましくない。プリスの滞在を前提に体勢を整えているなんてことはあり得ないが、滞在していれば安心感が違う。
「追加料金も洒落にならない筈なのに、何を考えているのかしらね」
移動が伴えば、冒険者はその期間を拘束され、その分だけ収入を得る機会も損失する。その損失の補填のため、冒険者は移動時間に応じた追加料金を請求することが可能とされている。プリスの場合は施術料金の最大値に、馬車で移動する場合の日数を掛けた料金だ。一回の施術料金が平民の四人家族が五年は暮らせる金額だから、馬車で往復六十日ならその三百年分以上になる。
これほどの高額設定の理由は打診の抑制だ。こうでもしなければ、十日に一度の頻度で届く主に郵便物を扱う軍の定期輸送の度、数百枚の打診に断りのサインをしなければならなくなる。そしてその抑制策は基本的には上手く機能している。
ところが、そんな追加料金をものともしない富裕層も存在するのだ。
「それだけ治療術師と呼ばれるプリスさんからの治療を望む方がいらっしゃると言うことですね」
誰しもが、同じ治療を受けるなら、できる限り腕が確かな治療術士を頼りたいと考える。ならばいっそと、治療術士を導くとされる治療術師を頼ろうとするのも道理だ。しかしそうして一部の治療術士に患者が集中しようものなら、選ばれた治療術士が疲弊する一方で、選ばれなかった治療術士が経験を得られない。結果として治療術の衰退まで招きかねないため、能力が高い治療術士ほど料金が高く設定されている。そして追加料金もその料金を元にして算出する。
「あたしのランクに釣られてるだけよ。東には治療術に限ったらもっと優秀な人が、あたしが居た国だけでも何人も居るもの」
プリスは頭を振りながら息を吐いた。
プリスは上級冒険者でも、数少ない上位に位置する。この上級上位のランクは席数に上限など無いのに長い間全くの空席だった。それが近年の大陸西部の奪還に伴う魔物との戦いの激化によって複数の席が埋まったのだ。その一つを占めるのがプリスである。
そしてこの上級冒険者は職業柄から有名になりやすい。プリスは治療術士と言う特異性故に特に有名になっている。この名声も加味することでプリスの治療術の料金は更に高額になっていて、何らかの割り引きが無ければ、小さな傷を塞ぐだけでも庶民の年収が吹き飛ぶことになる。
プリスが業腹なのは、最も有名だから治療術も最も優秀と思われがちなところだった。魔力の量や持続力に関しては誰にも負けない自負を持っているが、繊細な手捌きが必要な治療に関しては、長年に亘って治療術にのみ研鑽を積んだ優秀な治療術士に及ばない。かてて加えてこうした依頼の殆どは繊細な手捌きの治療を要する患者からのものなのだ。
そんな他の優秀な治療術士を差し置いた依頼が引きも切らない煩わしさも、プリスが大陸西部に拠点を置いた理由になった。
「それって、とんでもない腕前じゃありませんか?」
ココットから見れば、プリスの腕前だってとんでもないレベルにある。千切れた腕をあれよあれよと言う間に繋いでしまうのだ。大陸西部に限れば一番の腕の持ち主であることに疑いは無い。その更に上ともなったら想像もできない。
「とんでもないわよ。特に局長が凄かったわ。まるで魔法みたい……、って、魔法なんだけど」
局長とは、プリスが嘗て所属していた勇者庁と言う役所の治療術局局長のことである。ただ、プリスの出身国では勇者庁は既に解体されている。
その局長の治療術はプリスの目からも不可思議に見えた。死人を生き返らせているのではないかと疑うレベルだ。
「あー、だけどもう、その局長も居ないんだったわ。それでも副局長はまだ現役だし、局長に次ぐ腕前は衰えてない筈よ」
治療術局局長が故人になったのは、ほんの数年前のことだ。老衰だった。
「その局長さんを尊敬されてたんですね」
「まあね。それに値する人だったし。まあ、二番目かも知れないけど」
プリスには勇者庁を一度退庁して、後に復帰した経緯が有る。そして復帰後に師事したのが局長で、この時にプリスよりも遙か高みの治療術を目の当たりした。
「一番目は?」
「んー、英雄かな?」
「英雄? どなたですか?」
「それは秘密ぅ」
名前を出されたら絶対に嫌がる筈だからと、内心だけで呟いた。
「えーっ」
「それより、ほら、書類」
プリスはサイン済みの書類を差し出す。話ながらもサインは続けていたのだ。
「あ、はい。お手数をお掛けしました」
ココットは書類を受け取ってサインを確かめ、それを胸に抱く。と、その時。
カラン。
向こうで、ギルドの入り口に取り付けられている鐘が鳴った。
ココットはそれには気を留めずに、英雄のヒントだけでもと尋ねようとする。
「それでその、さっきの……」
「あたしはこれから仕事だから、またねー」
ところが、プリスが唐突に席を立ったことで中断を余儀なくされた。
プリスはギルドの方へと歩いて行く。その行く先を見て、ココットは叫ぶ。
「プリスさん、また!? それ、仕事じゃありませんから!」
プリスの行く先には今し方ギルドに入って来たらしい十歳くらいの少年が佇んでいた。小綺麗な少年だ。そしてその小綺麗さが、単に近所の子供が紛れ込んだようにも思わせた。