Cry For The Moon
放課後の図書室、一番隅の窓際の席。
そこが俺の特等席だった。
いつもそこに座って1人で本を読んで、それから帰る。
けれど今日は少し違った。
いつもは無人の向かいの席に女の子が座った。見たことはないから、たぶん先輩。
まつ毛に縁取られた瞳は忙しなく上下し、時々止まる。それを繰り返しながら難しそうな分厚い本を読み進めていた。暫くすると彼女は本を閉じた。
「君、一年生?」
「あ、はい」
図書室という事もあってお互い小声でのやり取りだが、彼女の声はやけにしっかりと俺の鼓膜を震わせた。
やっぱり彼女は先輩だった。2年生らしい。
以前からよく図書室を利用していたみたいだ。知らなかっただけで、何処かですれ違っていたのかもしれない。それから少し話した後、「また明日、同じ時間にこの場所で」彼女はそう言い残して図書室を出て行った。
翌日、彼女は約束通り図書室に来た。お互い少し話してから各々好きな本を読む。そして時間になれば帰る。彼女との奇妙なこの関係は思ったよりも長く続いた。
会う度に、彼女の事を少しづつ知った。
よく読むのは洋書。日本文学も少し。好きな科目は英語。今度の試験前に勉強を教えてくれると言ってくれたので、苦手な俺としてはありがたかった。他にも好きなジャンルとか色々。彼女はいつも同じ本を読んでいた。
放課後のちょっとした彼女との時間が楽しくて、いつの間にか放課後を待ち遠しく思う自分がいて、気づけば図書室以外でも彼女の姿を探すことが多くなった。廊下や下駄箱、移動教室で2年生の教室の前を通る時、いつだって俺の目は彼女を探していた。けれど、一度だって彼女を図書室以外で見かけることはなかった。
そうして数週間が過ぎた頃、ある日を境に彼女は図書室に来なくなった。次の日も、その次の日も、彼女が図書室に姿を現わすことはなかった。それでも俺はいつもの場所で彼女を待った。ここ以外で彼女と会える場所を知らなかったから。
彼女が図書室に来なくなってから2度目の金曜日が来た。その日も俺は適当な本を見つけて、いつもの場所で彼女を待つつもりでいた。彼女がいつも読んでいた本を見つけるまでは。すぐにそれを借りて家に帰った。自室に籠もって辞書を片手に齧り付く様に読み耽った。彼女が読む本を読んだら、彼女の世界に触れられる気がしたから。
休日を丸々潰して漸く読み終えたその本は、妻に先立たれ、寂しい生涯を送る男と幽霊になった女の話だった。死別後、彼らは一度だけ言葉を交わしたが、男は結局独りでいる事に耐えきれずに自ら命を絶った。
必死になって読み終えたこの本に彼女の片鱗など見つかりはしなかった。
月曜日に返却ボックスへ本を放り込み、向かったいつもの場所には、先客がいた。
彼女だった。彼女は当たり前の様にそこにいて、あの2週間などなかったかの様だった。
俺が向かいに座ると「遅いから今日は来ないのかと思った」と笑った。
来なかったのはアンタだろ。言いたかったけど、言えなかった。
用事があったと適当な嘘をついて、本を読むフリをしながら彼女を盗み見た。そしてフと思う。好きだと伝えたら、この人はどんな顔をするのだろう、と。
「少し、休憩しようか?」
彼女が苦笑いしながら、そう言った。
どうやら俺の視線に彼女は気づいていたらしい。慌てて首を振って、逃げる様に意識を本に戻す。けれど俺の視線は気づけばまた、彼女の方へ向いていた。
肌が白くて、瞳が大きくて、それを縁取るまつ毛は長い。見れば見るほど、人形みたいだと思った。
沈みかけた思考を戻してくれたのは、顔の前を上下する彼女の細い腕だった。
「月が、キレイですね」
咄嗟にその腕を掴んで発した言葉は、自分でも驚くくらいに自然に俺の口から零れ落ちていた。もともと大きかった瞳をもっと大きくして彼女は少しの間、俺の顔を見つめていた。そして慌てて俺から視線を外した。
それから薄く笑ってから読み終えた本を閉じて「さよなら」と一言だけ残して去って行った。
きっと彼女はあの言葉の意味も、それに対する答え方も知っている。けれど彼女は何も言わずに去って行った。俺が望んだ言葉が彼女の口から紡がれることはなかった。
つまり、そうゆう事だ。
次の日、俺はいつもと同じ場所に座って、1人静かに本を読んだ。向かいには彼女がいつも読んでいたあの本が置かれていた。今日、彼女は来ない。なんとなく分かった。そしてたぶん、これから先もずっと。
最終下校時間になっても彼女が姿を現わすことはなかった。仕方なく、自分が読んだ本と向かいに置かれた本を棚に戻す為に立ち上がる。その時、ヒラリと本の隙間から何かが落ちた。その紙切れには確かに彼女の字でこう書かれていた。
“私もう死んでもいいわ”
これは後から聞いた話だけれど、3年前にこの学校の生徒が交通事故で亡くなったらしい。司書の先生曰く、その子は毎日図書室で洋書を読む2年生の女子生徒だったそうだ。