第九幕 葵
会話をするのに不自由がない程度に走る。
「あの死体だが、理に触れたのであろう」
「理?」
「さよう。この世を確立させる決まり事のことよ」
「それに触れたらどうなるの?」
「まず死ぬ。あの奇妙な死体が出来上がる」
人を食らう魔獣が何もしない。
そして、腐敗しない。
「あの死体が最近死んだと思っておろうが、あれは三月ほど前に死んだものよ」
「そんなに前に」
「魔獣は理の形だけなら見ることが出来るからの」
「俺も見れる?」
「人の合いの子では無理だ。人は理を見ないことで繁栄を選んだ種族ゆえに」
森の奥には人が近づけないほどに鬱蒼とした木の群集が広がっている。
獣は何かを感じているのか近づかないし、人はこの世を捨てたい者だけが足を踏み入れる。
「いつできたものかは分からぬが、そこにあるのは分かる」
「誰も知らないのか?」
「知らぬ。理の調停者であるエルフならば知っておるかもしれぬが」
「調停者?」
「我も噂でしか聞いたことが無いからの。確かなことは言えん」
「理、か」
ルルーシェを育てるためにルルーシェの一族に協力を求めたときのことだ。
族長から意味深な言葉を言われていた。
【森に近づくな。近づけば失うやもしれん】
何をと聞き返す必要はなかった。
失うとなればルルーシェしかいなかった。
「着いたぞ」
「助かった」
「ありがとう」
「では息災でな」
一瞬で見えなくなるほどの速度で来た道を戻る。
かなり手加減をされて走っていたのだと実感した。
「キィ」
「どうした?」
「堅パン、全部食べられちゃった」
「買いに行くか」
「なら、良い店知ってるぜ」
音もなく二人の背後に近づいた男は話しかけた。
警戒をして距離を取るが、男は動揺する気配すら見せない。
「誰だ」
「俺の名前はアンディ。エルフと人の合いの子だよ」
「何の用だ」
「用は、甥っ子に会いに来たんだよ」
「甥?」
アンディの目元がルルーシェとよく似ており、髪の色が同じだった。
「ルルーシェの母親が俺の異父妹なんだよ」
「それで何の用だ」
「だから会いに来たって言ってんだろ。別に奪いに来たわけじゃねぇよ」
「それを信じろと?」
「信じるかどうかは任せるけどよ。俺は心配してんだよ」
ルルーシェの伯父なら今になって会いに来ることに不信感を持つのは当たり前だ。
妹が子供を産んだことはすぐに知ることができたはずだ。
「少なくとも人である以上はルルーシェより先に死ぬ。そのあと一人になったルルーシェのことを考えておけって忠告だよ」
「俺の方が年は上だからな。それは考えているさ」
「それじゃ甘いんだよ。ルルーシェは純血のエルフ並みに生きるぜ。そんな長い間を一人にするのかって聞いてんだよ」
アンディを生んだ女性はエルフの加護を夫から貰った。
そのあとにルルーシェの母親となる女性を産んだ。
エルフの加護が移り、ルルーシェに渡った。
加護を持つ者は総じて長命になる。
今回はルルーシェ自身も合いの子であるから純血並みの寿命を持つことになった。
「それは」
「理の調停者として言ってやるよ。人の寿命では短すぎるのなら理に触れろ」
「ちょっと待て、それは死ねということか」
「あぁ、あの死体を見たんだな。あれは調停者の立ち合いもなく触れたからだ」
「お前がいれば大丈夫だと言いたいのか?」
「そうだ。急に言っても決められることじゃないのは分かってる。でも俺からすれば人の寿命なんて一瞬だ。今日決めるのも百年後に決めるのも俺にとっては一緒だということを忘れるなよ」
アンディは来たときと同じように音もなく消えた。