1―9 嗤う白衣
1―9 嗤う白衣
不満を抱きつつも雪哉は図書館の整理整頓、及び清掃に励んでいた。
今更こんな古い建物。本などという紙媒体は今や過去のモノだ。全てデータ化され、書籍も全て今や機械を用いて閲覧することが可能となっている。今や片手で持ち運ぶ情報端末でいくらでも落とすことができる。図書館はとっくの昔にその役目を終えてしまった。今ではまるでお化け屋敷だ。埃を被り、陰気な人の近付かぬ場所になってしまった。雪哉もまた学校へ入学してから一度も足を踏み込んだことがなかった。
一冊一冊、本を取り出し、正しい順番に並べていく。読まれることのなくなった書物らの埃を取り落とし、再び直す。それでもこの町でも一番大きかった図書館だったこの場所を一人で全てどうにかできるとは思えない。一日では明らかに無理だった。最初の一時間ほどは真面目に取り組んでいた雪哉も気がつけば机の埃を綺麗にし、そこに座りこんで携帯電話のディスプレイを眺めていた。
「こんなの一人で出来るわけがないだろう」
本の量や、部屋の広さから一人で綺麗に出来るわけがない雪哉は椅子に座り込んで恨み言を呟いた。しかし自分のした行為の大きさを考えればこれで済んだのなら安いものなのかもしれない。自分から暴力を振るったことに変わりない。自分のした行為に後悔はないけれども。
「はぁ……」
どれだけ嘆息を撒き散らしても、状況が一変するわけがない。
さっさと掃除を始めることにした。ここで腐っていても何も始まらないのだから。
「雪哉くぅん、なにやってるんですかぁ? こんなの一人でやってて終わるわけないじゃないですかぁ。そんなのはやめてさ、一緒にお喋りしませんかい?」
「――!」
いつ、そこにいた?
椅子から立つと、それはそこにいた。
「先生、まるで次元跳躍したみたいに現れるのはやめてくれないか?」
「そんなおもしろいことしてないですよ、オラチンはちゃんと入口から、階段を上がって、雪哉くんの前に座っただけだよぉ?」
そんなわけないがあるか。
老朽化した玄関の入口は錆付いて金属が擦れるような厭な音がするはずだ。そんな音もせずにやって来た。しかも自分の前に立っているのなら視界に入って当然のはずなのに、瞬きした後に現象のように唐突に出現した。それが普通なら、相当この世界はファンタジーだ。
そんな普通ではない現れ方をした男は、瀧乃曜嗣だった。
カードのような束を何度もシャッフルし、かき混ぜた後に古びた机の上に並べている。雪哉はそれを黙って見ていることしか出来なかった。曜嗣はタロットカードを机の上に並べ、一枚だけその中の伏せられたカードを捲る。そこには足を縛られ逆さに吊るされた男が記された絵柄のカードが雪哉の目に映った。
「雪哉くんは今の試練の時なのですよ、耐えなさい。ずっと耐えてなさい。いつか良い方向に変わるためにも」
「はぁ……」
雪哉はタロットカードの絵柄が複数あることは知っているが、一枚一枚に込められた意味まではさすがに知らない。試練だの耐えろだの言われてもピンと来ない。相手にするのも面倒なので雪哉は瀧乃を放置して本棚に向かう。
「いいんですか? もう一時間目始まってますけど」
「なにそれ皮肉ぅ? オラチンただの校務員。先生って呼ばれてるけど授業とかしないから、そこんとこ勘違いしないでよね」
皮肉だ。雪哉は心の中で吐き捨てるように言った。
瀧乃曜嗣。雪哉の通う学校の校務員を務めている。先生と呼ばれる所以は単純に白衣を常を羽織っているだけの理由で、生徒らが勝手につけたあだ名でしかない。それでも担当教師が突然休んだ場合の穴埋めとして曜嗣が教壇に立つことがある。しかも全科目可能。どの授業でも教えることが出来る辺りは博学多才であるといえよう。
しかしそんな博識な曜嗣に雪哉が頭が上がらない理由があった。
「今年であいつが死んで六年目かぁ、お空の向こうでもいろいろ難しいこと言ってそうだ」
「……そうですかね」
雪哉の父と曜嗣は古い友人だったそうだ。
あの六年前の事故で両親を失った時任兄妹を引き取ってくれたのは、この胡散臭い白衣の男だったのである。とはいっても放任され、それ以上のことはしてくれなかった。それでも雪哉は恩人である曜嗣にいつか恩を返そうと思っている。この人がいなければ、今頃どうなっていたかなんて考えるだけでもおぞましい。そんなこともあってか感謝するだけでは返しきれない借りを作った雪哉は曜嗣の前ではいつものような調子で話をすることもできないというわけだ。
「随分、変わっちゃったね」
「はい?」
「雪哉くんと理愛ちゃん、理愛ちゃんは不思議結晶が見つかちゃって色々あったんじゃない?」
「それは――」
無いと、言い切れなかった。
理愛の身体の中に種晶があると知ったその日から、まだ一ヶ月も経っていないはずなのに、これまで変わらずに一定を保っていた日常が、いとも簡単に崩れてしまったから。本当に、一瞬の出来事のように、たった一つ違いがあるだけで現実が離れてしまう。
「まぁ、それはそうと理愛ちゃん盗み聞きは感心しないぞー。ってか授業サボってこんなとこに来るのはもっともーっと感心しませんなぁ」
「きゃ!」
図書館を支える柱の一つに向かって曜嗣が声を上げた。
するとそんな柱の向こうから小さな影が見え、理愛が転がり込んできた。雪哉は顔に手を当てて、肩を落とした。何をやっているんだ。曜嗣の言った通り、今は授業中だ。学生としての仕事である学業を疎かにして、図書館に潜入している妹を見て雪哉は呆れてしまった。
「理愛……」
「ご、ごめんなさい、兄さん……心配だったもので――」
「それは嬉しいが授業はどうした?」
「そ、その、えーっと、お、おなかが痛くなったって……」
どう見ても頭を押さえている。それだと腹痛ではなく頭痛だ。寧ろそんなジェスチャーをしている理愛を見て、雪哉の頭が痛くなった。
「もう、ダメだなぁ理愛ちゃんは。お兄ちゃんのことになったらイケないことも平然としちゃうんだね」
「ご、ごめんなさい瀧乃さん、でも兄さんわたしのせいで……こんなことになったから」
「気にするな理愛、俺はあいつの言葉が許せないからそうしただけで何も後悔はしてない。だから授業を受けて来い」
「え、えーっと……イヤ、です」
言葉こそ弱々しいが、はっきりとそれは拒否された。
曜嗣はいつものようにいやらしい笑みを浮かべて椅子を引く。そこに座れという意味だろう。理愛はそのままその椅子に座る。雪哉も本棚の整理と清掃は止めて、席に着く。
「このダメダメ兄妹。仕方ない、理愛ちゃんは後でオラチンが誤魔化しとくか。まっ、いっかな。これの方が話しがしやすいだろうし」
そうして曜嗣は一人納得し、ポケットから小さな封筒を一つ取り出す。
そのまま投げ捨てるようにして、机の上に滑らせた。それを無言のまま指差し、理愛と雪哉はその封筒まじまじと見つめる。開けろということなのだろうか。雪哉はその封筒を手に取り、ゆっくりと封を切る。
「なんだこれは?」
封筒の中には『Ark』と記されており、そこに理愛の種晶を研究したいという文章を長々と小難しい言い回しで書かれている内容の手紙が入っていた。
「保護者はオラチンだしね、オラチン宛てで来たんだぁ。なんでも理愛ちゃんの種晶とやらは他とは違うらしいんだよね。それを『Ark』が直々に研究の為に招待してくれたってわけだ」
Ark――六年前のあの日、結晶が降り注いだ夜、人が異能という新たな才能に目覚めるという世界が構築された日、突然、その名前を翳し現れた。種晶を研究し、様々な能力を発掘し、種晶というものをたった六年で世界の一部に組み込んだ巨大な組織である。そんな常識を遥かに超越した叡智を人間の科学で調査できたのは奇跡だが、この組織はそれをやってのけた。
もはやこの世界のブランドの一つといってもいいだろう。種晶に関してはシェア100%。種晶を検査する為の装置もこの『Ark』が開発したものだ。犯罪に手を染める有能力者たちを捕らえる為の戦闘に特化した軍隊のような集団も『Ark』内部には存在する。能力による暴力が世界を跋扈しない理由は『Ark』の活動の賜物だそうだ。確かに、能力を行使すれば過去の警察や自衛隊など無力だろう。
そんな有能力者が能力を使い、世界を支えることのできる万能の力を開発する為に日夜動きを見せているのだが、組織自体は公にされておらず、どういった研究をしているのかは一般の人間が知ることはない。
そんな謎の組織が、理愛の種晶に注目している。当然、研究に協力すればそれ相応の報酬が用意されているそうなのだが、そこまで雪哉は読んでいなかった。ただ理愛を自分らの研究の為だけに利用しようとするその考えが気に入らなかった。
「ふざけてるのか? 理愛はなんだ? こいつらからすれば理愛はモルモットだと言っているようなものだろう?」
雪哉の口調が荒々しいものに変わっていた。今にも便箋を引き裂いてしまいそうな剣幕だった。それでも曜嗣はふざけたような顔をして、
「でも、選ぶのは理愛ちゃんだ。ってことで理愛ちゃん、どうする?」
「嫌に決まってるでしょ」
即答だった。
全くの他人に身体を調べられるなんてどうかしてる。きっぱりと拒否した理愛を見て曜嗣は笑う。
そしてその封筒を丸ごと掻っ攫って、ぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に捨てる。
「この話はおしまーい」
そして指差し、
「行きなよ」
「いや、何言ってるんですか……まだ授業終わってな――」
雪哉はどうでもいいが、理愛はまだ授業がある。だが曜嗣は首を横に振る。
「理愛ちゃんも授業サボってこんなとこ来たから同罪。帰って大人しくしててね
理愛は反論せずに素直に頷いた。
「同罪って……」
「雪哉くん、罪に大きいも小さいもないのだぁ。悪いことをした人は平等に裁く。それがオラチンのポリシー、おっけぇですか?」
雪哉も何も言わなくなった。
曜嗣には何を言っても無駄なのだ。この男は自分の世界を中心に事を進めるから、雪哉がどれだけ奔走したところで何も変えられないのだ。
「でも、俺は図書館の掃除をしろって――」
「意味ないよ。ないない。なぁぁんにも、ないよ。ないんちぃ。ちょっとしたオラチンからの罰だねこりゃ」
久々だろう、あんぐりとしたまま目も口も開けっぴろげて馬鹿っぽい表情をしたのは。だがそうなるのも無理はない。罰として掃除をしろと言われたから言われた通りしてみれば、一時間も経たない内に終了した。
「さっきも言ったでしょ? 一人でこんなの終わるわけないっしょぉ?」
「そりゃそうかもしれないが……」
「はい、じゃあさっさと早退。雪哉くんは暴力沙汰起こしたことは変わりないから一週間ほど謹慎の方向で」
「謀ったな」
図書館の掃除なんて、最初からさせる気がなかったのだ。
それでも、理愛に宛てられた手紙を見せる為の口実だと良い方に考えたから、まだそれほど怒りが沸かなかったのかもしれない。
「その通り! 今更気づいても遅すぎ、遅すぎすぎ! 残念でしたぁまた来週ぅ!」
「……酷い人だ、仕方ない理愛……帰るぞ」
「え、ええ……すぐ帰ることになるとは思いませんでしたけど」
「仕方がない、俺もお前も規則を破ったのだ。罪は償わねばな」
「そう、ですね」
登校して一時間で下校だなんてふざけてる。
しかし、悪いことをしたことに変わりはない。
雪哉はこれ以上文句を言うことはなく、曜嗣に挨拶し帰ろうとした。
「雪哉くん、ごめん。さっきのタロットカードの占いなんだけどさ」
「はい?」
出て行こうとした時、いきなり呼び止められてつい気の抜けた返事を曜嗣にしてしまった。すると曜嗣はカードを見せながら、
「逆位置だわ、ごめんねぇ」
吊るされていた男の絵柄を逆に持てば、まるで重力に逆らっているように宙に浮いているように見えた。だが正位置であろうが逆位置であろうがどのような違いがあるのかわかっていない雪哉にとっては曜嗣に謝られたとしてもどう反応していいのか困るだけだ。
「あの、帰っていいですか?」
「ああ、そうだね。帰れって言って呼び止めるのも悪いよね、オラチン失態ぃ! じゃあね、ばいばーい、一生ばいばーい」
「……そうなったらどれだけ楽か」
と、出ると同時に雪哉は憎まれ口を叩き、図書館を出た。
雪哉らが図書館を後にすると、図書館全体に静寂が漂い、曜嗣は一人になる。そして錆付いたパイプ椅子にどっしりと腰掛けて机に足を乗せて座る。胸ポケットから煙草を取り出したが中身は空だった。残念そうに溜息を吐き、その空箱を握り潰し胸ポケットに戻す。眼鏡の位置を正し、天井を見上げた。
「全く、家族揃って戦いたがるかね……『時任』の姓が付くヤツは本当に救いようがない」
椅子にもたれ天井を見つめる曜嗣は呆れているように見えた。だが、その口元は歪み、悦に浸るように妖しく微笑んでいた。
「まっ、見守りますか。どうなるかね、無能力者が全能結晶にどう立ち向かうか、おもしろいじゃない。これ異能バトルモンだと熱いとこだろうし、もうすぐなんだろうなぁ。もうすぐ始まるんだろうなぁ」
そして、曜嗣は誰もいない図書館で一人子供のようにはしゃいでいた。
「なぁ、時任。お前の息子なら、お前の願いを叶えるかもな?」
誰もいないはずの空間の中で一人、曜嗣は呟く。
もちろん返事が返ってくることはなかった。