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それが全能結晶の無能力者  作者: 詠見 きらい
episode-f. -それが全能結晶の無能力者-
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f-17 それが全能結晶の無能力者<7>

f-17 それが全能結晶の無能力者<7>


「生物の体内にでも放り込まれたからもっと肉壁だの肉袋だのグロテスクな場所にでも落ちるのかと思ったら……やけに普通なんだな」

 時任雪哉は喰われた。

 凰真の花晶である喰い潰し続ける憎悪ヴァクヴァイク・モノンに喰われたはずだった。だがこうして四肢は現存。無傷だった。

(理愛も生きてるってわかってから……まさかとは思ったが)

 理愛の能力を奪った際に理愛の存在そのものは消えてしまったと思ったが、何度か凰真は雪哉に対して能力の使用を拒んだ瞬間があった。

 理愛は生きていると思った。そう、思いたかった。

 それはただの一縷の望みなのかもしれない。それでも願った。そして取り戻すのだ。

(理愛は……どこだ?)

 視界は眩しく、本当にあの闇黒の獣に呑み込まれたとは思えないほどの輝きに満ち溢れた光そのものに包まれていた。

 そして、光り続けるその先に遂に辿り着く。

 そこは、やはりあまりにも不可思議な――

「なんだ、ここは?」

 それは本当に獣の胃袋の中とは思えない別次元が広がっていた。

 そこは雪哉が暮らす町だった。

 何もかもが同じで、戦いとは無縁の日常が雪哉の視界に映る。窓の向こうから町が見える。そして自分が立っているこの場所は……ベットがある。机やテレビ、本棚と日常用品も揃っている。そう、ここは雪哉の部屋だったのだ。

「皇凰真……どういうつもりだ……」

 まるで夢を見せられているようだ。

 意識はしっかりとある。夢だけれど意識はあり、自分の思い通りに動くことが出来る。それはまるで明晰夢を見ているような感覚。

 だが雪哉は一度たりとも眠ってはいない。ならば幻か? わからない。

 扉の向こうから足音がする。雪哉は警戒し、扉とは反対方向に進んで待ち伏せした。戦闘能力は皆無に近い。有能力者のような異能は持っていない。何が来ても応戦することは出来ない。窓は開く……いざとなればここから飛び出して逃げる以外の選択肢がなかった。だが、扉の向こうから現れたのはあまりにも意外な人物だった。


「兄さん、土足で何やってるんです?」


 その声を知っている。

 その顔を覚えている。

 そう、もう一度会う為に此処まで、来た――


「り、あ?」

「何ですか? 何をトーテムポールみたく突っ立って動かなくなってるんです? おかしいのはいつものことですけど、今日は飛び切りおかしいですね。死ね」

「ああ、ああ……」

 上手く言葉を口に出せず、薄い反応しか出来ず、それでも雪哉は理愛に近付く。そうこれだ。ここまで来たんだ。

 その目の前に立つ白く澄んだ透明な瞳。白銀の雪原にも似た美麗な銀髪。そしてそんな美しさから吐き出される凶悪たる猛毒。そう、これだ。これなんだ。

 時任理愛。

 愛しきヒト。邂逅を果たし、再び巡り会う。

「理愛、帰ろう」

「は? ……ここ(ウチ)ですよ? あと帰るんじゃなくて学校行かないと遅刻しますよ?」

 雪哉の言葉に怪訝そうな表情を浮かべ、理愛はそのまま背中を向けた。でももう逃がさない。このまま行かしてしまえばまた会えなくなってしまうような気がして。だから雪哉は後ろからギュっと理愛を抱きしめた。

「な、ななななな、何をするんですかっ!!」

 顔を真っ赤にして理愛は雪哉をそのまま巴投げした。受身を取ることもなくそのまま背中から床に向かってダイブする。大の字のまま天井を見上げれば、そこに目を細くした理愛の姿が見えた。剣先のように鋭い視線、見るモノ全てを蔑む瞳。雪哉の額から冷たい汗が流れる。

「兄さん、頼みますから他の女性の方にそういったことはなさらぬように……兄さんじゃなかったら脊柱をへし折ってそのまま地の底に埋まってもらうところですよ?」

「いや、あの……理愛、俺はだな……」

 言いたいことがある。ここに来るまでにどれだけの困難を乗り越えたというのだ。どうしてもその顔が見たくて、その声が聞きたかったから、だから此処まで来れた。だが理愛の表情は酷く冷たく氷のようで――雪哉はそれ以上何も言えなかった。

「……はぁ」

 そして時間さえも凍結したような感覚の中、理愛の嘆息が凍止した時間を動かした。雪哉もそのまま立ち上がって、理愛と対面する。

「もういいです……さっさと準備してください。学校……行きますよ」

「あ、ああ……」

 今はそんなことをしている場合では――と、言いたかったがとてもじゃないが言えるような雰囲気ではなかった。単純に理愛に気圧されて何も出来なかったと言った方が正しかったのかもしれないが。

 だが、ここから脱出しなければいけない。ここは別のどこか。

 雪哉の知っている町に似て、何処か遠い世界。別の次元。

 雪哉は喰われたのだ。凰真の異能によって呑み込まれ、こんな場所に来てしまった。だが、今目の前にある理愛を見て、雪哉は行動できなかった。一番会いたかったヒトに会えた。それでもう、十分じゃないのか? そんな、そんな――

「ははっ」

 雪哉は小さく笑った。その笑い声は理愛には届かなかった。雪哉はそのまま頷いて、理愛を追いかけた。

 理愛と並んで学校へ行く。望んでいた瞬間が今、現実になった。雪哉は微笑みながら理愛の横を歩いている。

 いつもとは違う雪哉の表情や態度に理愛は警戒したままだった。けれど雪哉は改めることもなく理愛と歩き続ける。下手すればそのまま理愛の手を取ってしまう程だったがそれは堪えた。また投げ飛ばされるわけにはいかない。

「なぁ……理愛」

 雪哉は理愛に声を掛けるものの完全に無視してそのまま通学路を歩いていく。このままではいけない。わかってはいるつもりだった……だが雪哉も理愛を追いかけるように歩いてしまう。そして学校に到着してしまった。

「理愛、もう……帰ろう」

「何を言ってるんですか? まだ学校に着いたばかりじゃないですか……サボリはいけませんよ」

 違う、そうじゃない。

 雪哉はそう言いたかった。でも、それが言えなかった。今、自分たちがどういう状態で、状況なのか――これは普通じゃない。これが普通なわけがない。

「理愛、目を醒ませ……何をやってるんだ?」

「兄さんこそどうしたんですか? 大丈夫ですか? いきなりわけのわからないことを……いつもの厨二病(びょうき)か何かですか? それならわたしを巻き込まないでくださいよ」

 雪哉の言葉に聞く耳持たずにそのまま校舎へ入っていく。だが、もう我慢の限界だった。少々乱暴だったかもしれない。それでも今は強引に雪哉は理愛の手を引いた。

「俺はお前に会いたくてここまで来た。その願いは叶った……多少強引なやり方だってのもわかってる。でもそれでもお前を取り戻したかった」

「に、兄さん……痛いです……」

 強く握る雪哉の手に理愛は苦悶の表情を浮かべたがそれでも雪哉は止まらない。

「お前に会えた。話すことも出来た。願いは叶った……でも、それじゃあダメなんだ。このままじゃまだダメなんだ」

「兄さん……何を言って――」

 理愛が口を開くよりも早く雪哉は声を上げていた。

「ここがどこかわかっているか? ここは俺たちの帰る場所じゃないんだ。そうだろう? なんで俺たちしかいない? 俺とお前しかいないんだ? 誰も、いないじゃないか。こんな不気味な世界に居るなんて俺には耐えられない。理愛……お前は、何をしているんだ? お前の世界は此処じゃないだろ……」

 此処は何処か遠く、違う、現実からは乖離された世界。

 この青空も、校舎も、何もかもが虚偽であって現実からはかけ離れたモノ。そして雪哉と理愛以外の人影は見えず何もかもが消えて無くなってしまった非現実。そんな壊れた世界の中でいつもと変わらない日常を過ごすなんてことはできなかった。

「わたしは……」

 小刻みに震える理愛は何かに怯えたまま雪哉と視線を合わせることなく唇を開く。

「わたしはヒトじゃ、ないから。だから、ここでいたいの……またここから出てしまったらわたしはまた他とは違う。拒絶されるから、それが怖いの」

 人間ではなく結晶。ヒトの形を模した人外。

 どれだけヒトの真似をしたところで、それは所詮贋物でしかない。者ではなく物のまま足掻いても足掻いても物はやはり物なのだ。(ヒト)にはなれない。

 それは知っている。そんなことはとうに知っていたことだ。寧ろ今更かと言いたくなるほどに雪哉にとっては瑣末(、、)すぎた。

「俺がどうして此処に来たと思う? 俺は何の為にお前に会いに来た?」

 そっと雪哉は強く握っていた理愛の手を離した。雪哉の問い掛けると理愛はそこで初めて雪哉にそっと視線を向けた。

「そんな恐怖からお前を守る為だろう……お前は独りじゃない。誰も彼もがお前を否定しても、肯定する俺たち(、、、)のことを忘れないでくれ」

 理愛を支えるヒトがいる。

 理愛と生きるヒトがいる。

 数える程に少なく、世界をまともに相手するには些か人数が少なすぎるかもしれない。それでも、孤独ではないと――理愛は独りではない。雪哉が独りでないように、理愛もまた独りじゃない。

「でも、でも……わたし……」

「俺を信じろとは言わない――それでもお前を守りたい。でもそれは俺の願いだ。だから俺を見ていてくれ。お前が恐れる否定(きょうふ)とずっと一緒に立ち向かうから、だから!」

 雪哉は手を伸ばした。

 今度は強制じゃない。無理矢理に手を引くような真似はしない。ここからは理愛の選択だ。だから雪哉はそれ以上何も言わない。

「わたし、わたしは……でも、それでも……」

 理愛はグルリと雪哉に背を向けてそのまま校舎の奥へ靴も履き替えずに進んでしまった。そんな理愛の行動を前に雪哉は何も言わずにただ理愛の背中を見つめていた。

 そう、見つめていた。ただ凝視し、言葉を発することなく理愛が小さくなるまでただ見ていたのだ。

 そして理愛の姿が消えたのを確認してから雪哉もまた靴を履き替えずに校舎の中へ入っていく。誰もいない校舎、土足で入り込んだとしても咎める者もいない。そしてそのまま校舎の中へと進んでいく。どれだけ辺りを見渡しても理愛以外の人影は見えず、まるで世界に一人取り残されたような気がした。

 誰にも否定されない世界。誰もいないのだ……拒まれるわけがない。

 だが、そんなものは夢や幻と同じだ。生きていれば誰であろうとも拒絶される。雪哉もまた無能の烙印を押され、差を別けられた。だから雪哉は現実から目を背ける理愛の姿を見て悲しかったのだ。

 ポケットに両手を突っ込んだまま雪哉は前へ前へと進んでいく。無言のまま、無表情のまま、ただ進むべき場所は決まっていた。解っていた。


 そして辿り着いた場所は、屋上だった。


「もう、いいか?」


 屋上のフェンスの方を向いて理愛が背中を見せている。雪哉の言葉に反応はなかった。しかし無視されたとしても雪哉は止まらない。理愛の背中に向かって歩を進める。

 雪哉は理愛の後ろで立ち止まった。理愛は何も言わなかった。何を思っていても、雪哉がここに来た理由はただ一つだ。必ず理愛を連れ戻す。もう一度、一緒に歩く為に。

「兄さんは……どうして止まらないんですか?」

 一瞬、雪哉は理愛の言葉の意味を理解することが出来なかった。

 何故、立ち止まらないのか? 生きていれば止まることなんてないと雪哉は思っていたから。進まなければ何も変わらないのだけは知っていたから。

「無能力者のくせに、か?」

「……はい」

 ほんの少しだけ顔をこちらに向けて理愛は頷く。

 そしてその言葉に対しての答えはあるが、もう何度言ったかわからないほどだ。正直答えるのも億劫だった。

「無能なら諦めるのか? 無意味だから動かないのか? 何もせずに石のようにしていた方がいいか? それを認められれば俺だって地蔵のように世間を見ているだけだったろうな」

 だけど、それは違う。それが間違っているとわかっているから。

「お前に出会った、お前を悲しませた、傷つけた……そしてお前が俺にくれた。今は奪われてしまったけれど左腕をくれた。お前は俺と一緒にいてくれたじゃないか」

 幼き頃の雪哉は何度も理愛を拒み、否定してしまった。幾度と無く言葉で心を傷つけたこともあった。それでも最後まで雪哉の傍を離れずに居てくれたのは理愛だった。支えだった。そんな妹を奪われたままではいけない。失うわけにはいかないのだ。

「未来なんて誰かが決めるものじゃない。俺は生きていたい。自分で選んで、一緒に……理愛と生きたい。最初から解った未来(あした)なら俺はいらない。わからないから、だから足掻くんだろうが」

 雪哉は一歩進んだ。そっと理愛の首元に両手を伸ばして――

「だからお前を取り戻す。お前の心を取り返す。それまで我慢してくれ。絶対、絶対にだ……お前の元へ往く。だから、だから――」


 首元に伸びた両手が頭と顎に、雪哉の表情はどこか冷めていた。

 そして冷え切った雪哉の心がこの残酷な夢に終わりを告げた。


 ゴキリ(、、、)と、骨が折れる。

 折れたのは首だった。理愛の首が、折れた。雪哉がその両手で理愛を殺害した。

 雪哉は両手を伸ばし、理愛の首を掴みまるで独楽でも回すようにグルン(、、、)と理愛の首を一回転させたのだった。 

 即死だった。

 理愛の身体が転がっている。そんな死体となった最愛を前に雪哉の瞳は冷たいままだった。自分の行いに一切の後悔がなかった。そんなとんでもないことをしでかしておいて雪哉の呟いた言葉は感謝だった。

また(、、)俺に理愛を殺させたか……でも、これでいい」

 自分の行いに何の責任も感じずに、ただ溜息を吐き散らかした。

「甘美だったよ……いい、とても居心地の良い夢だった。ありがとう――でも、これじゃあぁないんだ。これじゃないんだ」

 まるで気でも狂ったのかと、雪哉は死体と化した理愛を踏みつけている。

 しかし雪哉はいたって冷静だった。心は冷え切ったままだった。

「これは理愛じゃない。ここは俺の場所じゃない。こんな夢じゃない。俺は妄想を見たいわけじゃない。俺は俺の理想(げんじつ)を見たいんだ。だからこれは違う。返してくれ。贋物(うそ)はやめてくれ。付き合うこっちの身になってくれ」

 空に向かってそんなことを言い出した。

 するとどうだろう……誰も居ないはずの世界、虚空から声が返って来た。

「き、キミは……なんだ? 最初からじゃあ、最初から気がついていたというのか? これが幻想(まぼろし)だということを、か?」

「俺も人間だ。甘えたいさ……このままこのぬるま湯に浸かって諦めたっていいのかもしれない。それでも、それでもやっぱり傷ついて苦しい想いをして、その先の本当の理愛に会わないとダメなんだ。だから凰真……理愛を、返してくれ」

 その声の正体は皇凰真のモノだった。

 理愛を喰らい尽くした、雪哉を呑み込んだ張本人。全ての元凶。最後の敵。

 これは凰真の見せた幻。

 凰真が喰らった存在に夢を見せ、そしてゆっくりとその夢に溶け込ませる。甘く優しい、誰も傷つくはずがない世界へ迷い込ませる。そしてその夢を肯定した者は凰真の糧となる。

「憎悪の名を冠する割には慈愛に満ちているんだな……楽しかった。嬉しかったよ。ただそんな人の心の弱みに付け込むとは――最低の能力だな」

 雪哉は軽蔑し、空に向かって睨み付けた。

喰い潰し続ける憎悪ヴァクヴァイク・モノンに喰われてこの夢から醒めたのはお前が始めてだよ。気持ちが悪い……キミは何者なんだい?

「ただの人間だ。何も持たない、最も弱い――ただの人間だ」

「能力を持たない無能なニンゲンの分際で、どこまで狂ってやがる壊れていやがる」

 空から雪哉が毀損すされる。けれど雪哉は鼻で笑う。何も狂ってなどいない。何も壊れてなどいないのだ。勝手にそんなことを言われたところで雪哉には効かない。

「ありえない、ありえないんだよ……キミみたいな生き物は。気色が悪い。不快もここまで来ると嘔吐しそうになるんだよね。何も無い、何も持たないってわかっててこれだ。此処まできやがる。進んで来やがる。妹の為? 仲間の為? 他人だろ? 所詮他人だ。どうしてそこまで出来る。お前はホントにガキかよ? 出家してんじゃねぇのか? 何時代だよ。お前いつの時代から来た人間なんだよ!?」

 空から立て続けに降り注ぐ侮辱の雨。

 そんな雨に打たれながら雪哉もまた声を荒げる。

「なぁ、誰かの為に頑張るってことは……そんなに気味が悪いことなのか? 一生懸命なんだ。それだけなんだ。何も持っていないから何も出来ないって解ってて、それでそのまま諦めて終わってしまうのがイヤなだけなんだ。生きる為に足掻いていたいんだ。俺は無力で無能で無意味なのかもしれない。でも、俺が生きる理由なんて、生きる意味なんてたった一人の家族(いもうと)と俺と一緒に歩いてくれる仲間(ともだち)の為だってのが……そんなに不気味で気色悪い怪物のようなモノだってのか? やめてくれよ……生きているんだ。俺だって、生きてるんだぞッッッ!!」

 フェンスに向かって思いっきり拳を突き立てる。金属が軋む音がした。ただそれだけだ。どれだけ怒りを力に変えても雪哉の力ではフェンスを突き破ることすら出来ない。でも、それでも雪哉は叫ぶ。

「皇凰真……理愛は必ず返して貰う。そしてこんな腐った世界から出て行ってやる。今度は俺がお前から奪い返す!」

「やってみろ! お前がボクを拒絶した。ボクの夢を否定したんだ。歪曲しろ! 割れ目に落ちろ! 消えて無くなれ!!」

 空が赤く染まった。さっきまでいたはずの屋上とは違う場所に移されていた。ここは凰真の腹の中、何が起こるかわからない。

「に、イ……サン」

 足元に違和感。何かに掴まれている。その違和感に視線を向ける。そこには兄の名を呼ぶ赤い肉塊が雪哉の足を絡みとっていた。

「これがお前の本当の世界か。やっと本性を見せたな……皇凰真。やはり見せ掛けか。ハリボテで作った幻想なんてこんなものだな」

「お前の大好きな妹だろ? 愛してやれよ」

 赤い空から凰真の声が聞こえる。だが雪哉は笑った。

「この肉は理愛じゃない。愛する相手を間違えるわけにはいかない」

 そのまま掴まれていない方の足で肉塊を踏み潰す。雪哉の力で十分破壊が可能だった。あまりにも脆いその肉をそのまま磨り潰し、周りを見渡した。

「なるほど……悪夢というわけか」

 世界が一変した。何もかもが変わった。床はまるで肉の上を歩いているようだ。青かった空から血の涙を流すように真っ赤に染まっている。

 そして肉の壁や床から死屍(ゾンビ)のように腕が生え、ドロリと溶けて腐ったような顔。しかしどれだけ変貌していてもそれが何なのか雪哉にはわかる。

「理愛……ああ、なんてことだ。ここまでするか……皇凰真――」

「にいサ、ン、ニいさん、にイさ、さんンさ、ににニにニに、いさん、サん、にいさン、ににいさ」

 肉になった理愛たちが一斉に兄の名を呼んだ。

 その声はどれだけ変わり果てていても理愛のものだというのがわかる。それでも雪哉はそれに手を差し伸べることはしなかった。振り払い、蹴り払い、表情一つ変えずに肉の海を進む。

「どいてくれ、お前たちは理愛じゃない」

 溶けて崩れていく理愛を蹴り飛ばしていくのはやはり心が痛んだ。どれだけ贋物であっても理愛の形をしているのだ。それを自分の手で傷つけるのはやはり苦しい。

「それでも……俺の理愛はお前じゃないんだ」

 そうして腕を振り上げて、肉細工の理愛を吹き飛ばす。ただ動いているだけの理愛の肉を叩き潰しながら前に進んでいく。

「へぇ、キミってほんと残酷だね。それも理愛じゃないの? それなのにキミは腕を振り回して、足を振り上げて、叩いて潰して……前に進もうとしてる。キミの大切なモノじゃないのかい?」

 凰真の言葉が空から響く。雪哉はそんな言葉の刃を潜り抜ける。そんなものは効かない。到達しなければいけない場所がある。取り戻さなければいけないモノがある。だから、立ち止まれない。

「無駄だよ。どれだけ進んでも、どれだけ歩いたところで……キミの願いは叶わない」

「だったら、さっさと俺を処理しろ。ここはお前の世界なんだろう? 俺という存在を消してしまえ。そうしないと、俺は絶対に諦めない。俺は歩くぞ。お前の願いを妨げてやる」

「ボクの能力は喰らったモノを己のモノにする。でもそれは相手の心そのものも自分のモノにするんだ。夢を見せてやったろう? ……その夢の中で眠ればよかったんだ。でもキミは眠らなかった。拒んだろう? だからキミの心の全ては呑まれず、残滓がこうしてボクの中で動き回っている。こんなことは初めてだ。キミのような人間は初めて見たよ」

 雪哉は笑った。

 何せ夢を見せられるのはこれで二度目(、、、)だ。

「凰真……切歌を殺した時、お前は切歌の能力は要らないと言っていた意味がわかったぞ。お前は元々、同じタイプだったんだな」

 夜那城切刃の姉、夜那城切歌の『かの古傷を穿つ歌(ペイン・セェングス)』の能力にも似ている。あれもまた生きる者に幻想を見せ、その心傷(トラウマ)を穿つ凶悪な攻撃。

 そして凰真の能力はどちらかと言えば上位互換。

 幻想を見せて精神的に追い詰めるだけしか出来ない切歌とは違い、凰真の場合は喰らうことによる物理的な攻撃手段を使うことも出来れば、その喰らった相手の能力も奪うのだから圧倒的に切歌の花晶としての異能を上回っている。

「そうかもね。でもキミにこの能力は敗れない。何も無いキミには……」

 雪哉はもう何も言わない。

 その言葉は聞き飽きたし、反論するのはもう面倒だ。

 そしてそんな最中でも雪哉は理愛の形をした肉を払いのけていく。

「キミには届かない。キミじゃあ此処まで来れない」

 確かにどれだけ歩いても、進んでも何も見えない。同じ風景しか見えない。同じ理愛の肉塊を叩き潰していくしかない。

「いいや、行くさ……必ず理愛の所へ」

 雪哉の瞳には失意も失望も無かった。そして目を瞑って、立ち止まった。

「諦めたか?」

「諦めるか!」

 雪哉は叫んだ。

 もう動いていても意味はない。どれだけ進んでも終着が見えないのならこれ以上進んでも仕方ない。

「よって集って理愛を模った肉人形で俺を足止めしやがって……」

 感情の無い人形が立ち止まった雪哉の両足を掴んでいる。そしてゆっくりと腕にも絡まり、雪哉の動きは完全に封じられる。

「に、ににいニにいいイさ、ン、サン、さん、サんにいいさんサン、に、ににいイ、イイイイイイイイイ」

「理愛……何処にいる。理愛、俺の声が……聞こえているなら、理愛――」

 ここが夢だ。一つの夢。雪哉だけの夢ではない。喰われた全ての生命が繋がった夢。

「どこだ……どこに……」

 夢なら他の夢はどこにある?

 誰でもいい。その夢を見せろ……

 見えたのは見ず知らずの老人の夢だった。

 不老不死を願い、永遠の命を欲した老人の夢。

 違う。それじゃない。

 もう一度――

 やはり見えたのは顔も知らない老若男女。そして誰もが叶うことの無い常識を超えた願いを抱いている。

「お前はそんなヒトたちに希望(チカラ)を与えたのか……」

「なんだい? ボクの喰った他の人間の夢を見たのかい? そうさ。そいつらは見んな願いを持った人間たちさ。ヒトを超えたチカラ、欲しいだろう? 何だって出来るチカラ、手に入れたいだろう? 自分以外を犠牲にしてでも、それが欲しい。人間は弱い。欲する心を抑えきれない。だからそんな弱い心だから扱いやすい」

「聞き飽きた。お前が上から見下ろして人類を侮るのは勝手だ……」

「ならキミは違うと? キミは優れてるかい? キミは強いのかい? 弱くない?」

 弱い――時任雪哉は最弱だ。

 優れているわけがない。違うこともなく、強くもなく、心はやはり弱い。だから雪哉は凰真に反論することも論破することも出来ず、黙殺するしかなかった。

「弱いさ……俺は弱いから、弱いから俺の手から大事なモノが零れていくのが見ていられない。でも、それだけなんだ」

 弱いことはとっくに解ってた。

「それ以上を……俺は望めなかったんだ。弱すぎたから、だから俺は願うことなんて出来なかったんだよ」

 あまりにもそれは簡単な理由だった。難しいことなんて考える必要も無く、ただあまりにも大きすぎる力も願いも抱くことが出来ない程に弱かっただけだ。

 心から何も願うことも出来なかった。

 ただ一つ願ったのは、理愛と一緒に生きること。仲間と一緒に進むこと。

 それ以外を願わないからこそ、雪哉の心は呑み込まれることがないのだ。雪哉は力を求めることも、奇跡を欲することもなく、ただ理愛や仲間と生きる未来だけを求めた。

「つくづく驚かされる……異能が絡まった世界の中で、無能を受け入れるなんて――劣等を認め、けれど力を手に入れることもせず……キミはどうしてそこまでする?」

「どうして? 同じことを何度答えさせるんだ? 俺は、俺はさ――」

 聞こえる。

 声がする。耳を傾け、小さくか細い声をしっかりと聞き入れる。

「理愛の声が聞こえる……だから理愛を助ける。理愛ともう一度やり直すだけだ……だからそこまでするんだ」

「な、ば、ばか……な?」

 理愛の声のする方へ心を向けた。ただそれだけだ。理愛の声を探し、聞き、そして目を開いた。

(そんなこいつはただのニンゲン、ただのニンゲンなんだろう? ふざけるな……そんなそんなことが、こいつは何者なんだ? 本当にニンゲンなのか? じ、実は何か隠された能力が、い、異能を持っている? 窮地に陥ったことによる覚醒? ば、かな……そんなことが、いや、そうなのか? そんな都合良く――)

「……捉えたぞ」

 肉壁に縛られていたはずの雪哉がそこ(、、)にいる。

 跳躍した。

 ここは喰われた生命の夢が混同する亜空間。皇凰真の腹中。夢の世界。

「なにを、なにをした……なにを? どうしてここにいる、ここまでこれる!?」

 そこは先程までの悪夢とは違う。まるで天界に住まう者たちの楽園。空中庭園のような神秘的な空間が広がっていた。

 宝物庫のように無数の結晶が宝の山となってあちこちに築き上げられている。そしてその結晶の中心に凰真が立っていた。その背後には……、

「ここが中枢か……今度は楽園か。お前の中はまるでパンドラの(はこ)だな。さしずめここが希望(ゴール)というわけか?」

「減らず口を……ここまで来れたことは褒めてやる」

「本当に悪党を絵に描いたようなヤツだ。俺は別に理愛の声がする方に向かって意識を飛ばしただけだ。それだけだ。簡単なものだよな……理愛の声に従って進めば此処に辿りつけるんだから」

「どうすればそんなことが出来る? キミは、ホントウに人間なのか? 何か能力を隠しているんじゃないか? ボクの知らない力を……キミは!!」

 雪哉は頭を掻いて、どう返答すればいいのか迷っていた。

「本当に申し訳ないんだが俺はただの人間で何も持たない無能力者だ。挙句に借り物だった左腕もお前に持っていかれて更にただの人間に成り下がったわけだから完璧に俺は無能な無意味なただの人間だよ」

 それでも凰真には信じられなかった。喰い潰した全ての生命が夢に溺れたまま沈んでいった。この凰真の創り上げた世界の中で夢を達成し、永遠にその中で生きていく。

「言ったろう? 俺の夢は俺の中に無い……外にあるんだ」

 そう言って、雪哉は凰真に指を差す。だがそれは凰真を指差したのではない。その背後に見える――

「理愛を、返してもらうぞ」

「いいや、これは渡さない」

 ありとあらゆる結晶の中に一つだけ人の形を模したモノ。結晶の中に人が……それが、

「お前のじゃない、これは俺のだと言ったはずだ」

 結晶の中にまるで胎児のように眠る理愛の姿があった。今度は贋物じゃない。正真正銘の本物だ。声が聞こえる。寝言のように、けれど確かにその声は理愛のモノだった。

「さて、どうすればいい……」

 見つけることは出来たが正直な話はどうしていいのかわからない。

「どうすることも出来ないよ。キミじゃどうすることもできない」

 何の力も持たない雪哉が凰真を力で屈服することは出来ない。でもそんなことはしない。此処に来たたった一つの理由は、理愛を取り戻すことだけだ。

「理愛、目を醒ませ……さっさとこんな箱庭から抜け出すぞ」

「聞こえないよ。キミの声はこの子に届かない」

「五月蝿い、お前は黙ってろ」

「黙るのは、キミの方だよ!」

 そして凰真が飛び出す。凰真の拳が雪哉の頬を殴りつけた。

「……こいつ!」

 殴られた拍子に姿勢が崩れたが、そのまま回し蹴りを放つ。だがそれは凰真の手に阻まれ、そして掴まれる。

「しまっ――……」

「遅いね」

 そのまま放り投げられる。白い床に叩きつけられて意識が遠のく。夢の中だと言うのに痛覚がはっきりと働いている。そしてそのままうつ伏せになった雪哉の頭に凰真の足裏で踏みつけられる。

「ほら、やっぱり何も出来ない。キミは、何も出来ない」

「ああ……そうだったな……」

 雪哉は肯定した。

 だってそうだったから。これまでも、これからも自分自身の力で進んでは来れなかった。誰もがきっと時任雪哉を臆病者の最弱者だと罵られようとも、雪哉はそれを受け入れなくてはいけない。

 戦う力も、進む道も、何もかもが用意されたモノだ。自分で切り開いたわけじゃない。では、雪哉は何をした? 何も持たない時任雪哉が出来たことは?

「それでも俺は進むさ……お前がどれだけ俺の道を阻んでも歩いてやる」

「でももうキミは歩けない。そうやって床の上を転がっていろ」

 凰真の見下す視線を受けながら、反撃すら出来ずに雪哉の願いは絶たれてしまう。

 雪哉には何も出来ない。けれど諦めるわけにはいかない。

(理愛、お前はどうして此処にいる……何に怯えている? 思い出せ。思い出してくれ……お前は独りじゃないと)

 この場所に来るまでに既に理愛が夢の中に沈んでしまっているのはわかっていた。凰真の世界に呑まれていることもわかっている。

 理愛が目を醒まさないのは夢の中で目を醒まし、贋物に出会ったときから理解できた。雪哉の見たあの贋物の理愛は雪哉の見た夢でもあり、そして贋物であってもあの理愛の口から出た言葉は嘘じゃない。

「きっと外に出てしまえば敵しかいないかもしれない。誰もが否定し、拒絶するのかもしれない……それがどうした? 独りなら潰れていい。瞑っていい。けれど理愛……お前は独りじゃない。何度だって戦って来たじゃないか。独りになったから諦めたのか? じゃあまだ諦めるな! 独りになってから諦めろ!!」

「よく喋る口だ……」

 そのまま思い切り後頭部を踏みつけられる。額を強打し、思い切り顔を床に押し付け上手く口を開けない。

「キミの言葉は届かないと、言っているだろう? 一度その夢に溺れてしまえばこの世界から出られない。キミのような狂人とは違う。キミのように無能力者の分際で強靭な心を持っていることは驚いたけれど、この子(、、、)は違う。キミとは違う。だって同じだから。ボクと同じヒトではないから。怪物だから、化物だから。外の世界は地獄だよ。だから敵のいないこの世界で生きていけばいい。ボクの中で生きていけばいい。誰にも傷つけられない世界で――」

 雪哉の身体が震えていた。それは悲哀でも絶望でもなく、ただの憤怒だった。ただただ許せなかった。守りたい、取り戻したいはずの最愛を許せそうに無かった。

 これが初めてじゃなかったはずだ。

 何度も戦い続け、その度に思いの丈をぶつけたはずだ。それが届いてなかったのだ。怒りも湧く。時任雪哉の覚悟は、理愛の心に全て届いていなかった。

 だからこんな夢に沈んでしまったのだ。皇凰真に奪われてしまったのだ。怒りと同時に段々と悲しみすら湧き上がって来る。

「くそったれ……なんだか悲しくなってきた」

「キミはいつも唐突にわけのわからないことを言うね」

「理愛は俺を信じてくれていると思ってた。だからこんな甘ったるい夢を見せられたところで簡単に抜け出せると思ってた」

「そりゃキミがおかしすぎるんだよ。キミの信念や覚悟がイカれてるんだよ。誰もがキミのように強く生きてはいけない。弱いくせに強い……矛盾してるよキミ」

「理愛、起きろぉ! お前、俺を悲しませんなよ……お前と一緒に帰るんだ! 思い出せぇ! 俺の言葉を、俺が弱いからか? 俺が無能だからか? だから信じられないのか? やっぱりお前は俺のことが――」

 けれど結晶の中で理愛は眠っている。動かない。雪哉の声はやはり届かない。

 所詮は無能力者。状況を覆すことも出来ない。だからか、本当は何も無いから……何の力も持たずに覚悟を叫んでもやはり心に届かなかったかのか?

 もう、駄目なのか?

 これは効いた。今までで最も強烈な衝撃だ。心をへし折られるほどの威力だ。それもそうだろう。守るべき、信じていたヒトに裏切られた。やはり理愛は、理愛は雪哉の決意も覚悟やはり――

「なんだい……急に死体みたいに静かになっちゃったね? どうしたのかな? 腕をもぎ取られてもどれだけ傷つけても騒いでいたじゃないか? それなのに急にそんな絶望して笑えてくるよ。妹に自分の声が届かないのがそんなに辛かったかい?」

 辛かった。

 どんな鋭利な刃物に斬り付けられることよりも痛く苦しい。取り戻すべき者にその声が届かないなんてあまりにも悲しすぎた。

 ここまで無能であることを恨むことはなかった。けれど今はとても悔しい。力があれば、なんて。そんなことを思ってしまう。

「もう無理だよ諦めろ」

 そこでいつもすかさず声を上げて、諦めるなんて選択を選ばなかった。でももう駄目だ。今回ばかりは完全に敗北だ。もうどうしようも無い。

 活動が停止する。もう動けない。後悔で涙が出そう。それはとても無様な姿だった。これまで幾度となく戦い続けた無能力者の成れの果てだった。

「はは! あの大口を叩いていた時任雪哉はどこへ行ったんだい? 認めたのか。やっと自分の立場を認めたか! そうさ、キミは何も出来ない。何も取り戻せない。そうやってそこで潰れてしまえ!!」

 高らかに凰真が笑う。勝利を手にしたように盛大に笑っている。敗北し朽ち果てる雪哉を前に余裕綽々だった。もう雪哉は何も言わなかった。生きてはいるがこれではもう死人と同じだ。もう抵抗することも無く、反抗も反逆の意志も今の雪哉には無かった。

「現実なんてクソだろう? だったら夢幻の狭間に墜ちた方がずっと楽だ。だからいい加減、楽になりなよ。キミの大切なモノと一緒に墜ちてしまえばいい」

「り、あ……俺は、お前と――」

 それでも声は理愛には届かない。雪哉の双眸がゆっくりと閉じられ、失望し絶望する。もう終わりだ。全てが台無しだ。何もかもが終わってしまう。

 もう何も考えられなかった。考えたくなかった。だからそれは逃避だった。この結末を認めらぬ故の逃亡だった。拳を上げて地面を叩き、額をぶつけ、ただ暴れた。

「思い通りにならないから子供のように当り散らす、本当に最後の最期まで格好の悪い男だったよキミは」

 そして雪哉はそのまま動くことを止め、無言のまま震え上がった。そして支配者である凰真は蟻の如く力を持たない雪哉を蔑み、嘲笑を繰り返した。


 もう、これで、本当に。


「ああ、ああああがあああか!!」

「阿呆のように叫んだところで……え?」

 ガラスにヒビが入るような音がした。その音に凰真は立ち止まり、振り向いた。その音のする方に、その音の方にいたのは赤子のように眠ってる理愛がいる。結晶の中で眠る理愛が、自分の額を結晶に打ち付けていた。

「な、にをやっている? キミはそこで眠っていればいい。眠ればいいだろう!? 何をやっているんだ!」

 つい先程まで余裕だったはずの凰真が驚愕し、絶叫している。何が起こっているのかわからない。だが眠っていたはずの理愛が結晶に頭突きを繰り返している。まるで雪哉と同じように狂い、壊れたように暴れまわしている。

「なんで、ボクの思い通りにならない……甘んじていたじゃないか。受け入れていたじゃないか。こちら(、、、)を選んだじゃないか。それなのに、キミはキミはどうして、キミまでどうして!?」

 凰真は倒れたまま動かない雪哉に視線を移した。諦めていたはずの花晶(しょうじょ)が再活動している。まだあれは無意識のまま、まるで悪夢に魘されているようにもがき苦しんでいるだけなのかもしれない。それでもそんなことはしなかった。ずっと眠ったまま動かなかったのだ。それなのに、時任雪哉が来た途端に歯車は狂い始めたのだ。こんなことがあってたまるか。凰真は理愛の元に駆けつける。

 何を焦る必要があるのか。これは凰真の世界。凰真の創り出した夢の中。なのに今の凰真は酷く焦っていた。

 焦燥するのも無理はなかった。

 喰い潰したところで自分の糧にするには相手に依存される。相手の心が弱ければそれでいい。夢を見せ、そのまま沈んでしまえばいい。しかし違う。夢に溺れなければ自身の血肉には変えられない。

 そしてそれが今だ。雪哉だけでなく理愛さえも目覚めようとしている。雪哉はいい。どの道この無能力者は心を喰らったところで力を得られない。しかし理愛は別だ。彼女を失えば全てを得られることは出来ない。半端な力では意味がない。意味がないのだ。

 ……こんなはずは、こんなことには。

(時任理愛の心を完全に磨り潰すはずが……時任雪哉を沈黙させることができれば、全てを終わらせることが――)

 雪哉を能力で殺そうとすれば理愛が無意識に力の使用を拒んだ。わからないことが多すぎる。答えを知ることも無いだろう。ただ雪哉を奪った異能で殺すことは出来ず、だからこそ凰真自身の花晶の異能によって喰い、呑み、見せた(、、、)。心の脆い、弱い人間だからこそ甘美な、願望を、希望の夢を、幻を見せることで終結するはずだった。

 それが、どうして……叫んだだけで、訴えかけただけでこんなにも状況が一変するというのだ。

 理愛が結晶の中で暴れ回り、小さなヒビが少しずつ伸びる。増える。大きなヒビが出来上がる。何をしている。夢を抱いたまま深く、深く沈んでいったはずだ。それなのにこの少女はどうして眠りから醒める。額から血を流して、笑っている?

「やめろ、キミは、キミはここにいていいんだ! ボクの中にいていいんだ! 外に出たところでキミの居場所なんてない。ここならキミの望んだ全てがあるんだ。傷つくこともなく、苦しむことも、悲しむことも!」

「うる、さいよ……」

 そしてそこでやっと動けなくなったはずの雪哉が凰真の足を掴み、顔を上げていた。血塗れの顔を上げて、けれど真っ青になっていたはずの、失意によって光を失っていたはずの、そんな死体と化していた表情はどこへやら。彼もまた再び起動を開始する。

「キミは、キミは本当に、本当にどこまでボクの邪魔をおおおおおおおおおっ!」

「俺はお前の邪魔なんてしちゃいない……俺はただ取り戻しに来ただけだ。お前が俺のモノ(、、)に触れなければ、奪わなければ、お前の前に現れることなんてなかった!」

 そして立ち上がる。

 これもただの偶然だったのかもしれない。こうなることを知っていたわけでもなく、未来を読んでいたわけでもない。だが、動く。時任雪哉は声を上げた。

「お前の願いは叶いやしない。お前の望みの通りにはいかない。やはり俺が諦めきれないからだ」

「黙れよクソ無能力者ァ!! 何もかもが都合良くことが進んだら調子に乗るのはやめろ! 時任雪哉……キミさえ、キミさえいなければ……ボクの、ボクは――」

 凰真が拳を振るう。そして雪哉はやはりその拳を防ぐことは出来ない。どれだけ高言を垂れたところで雪哉はやはり弱いままだ。そして吹き飛び、無数に広がる結晶の上を転がっていく。

「殺す。ここで殺す。夢の中でキミを殺すことは出来なくても、心は殺し尽くしてやる。ボクがここで力を振るえないのを解っているから強気ならば後悔させてやる。藁人形のように腕や足を捻じ曲げて、殴打を繰り返し、やめろと叫んでも止めてやるものか。キミの妹をもう一度取り込んで、お前はぐちゃぐちゃになるまで叩いてやる」

「おぞましい……ああ、おぞましいヤツだ。自分の目的の為に一切合財をモノにするのか。ああ、俺にはもう何もできない。お前を止められない。お前に勝つことはできない」

 しかし、もう遅い。

 破砕する結晶。結晶の器を壊したのは雪哉じゃない。雪哉はやはり声を出すだけ。倒れたまま起き上がれない。

「頭に響く、この声。迷いの無い、その瞳――やっぱり来てくれたんですね」

 メリメリと音を立てて、卵の殻を破るように、そこから小鳥か生まれるように再現されるのは少女。

「遅い、遅すぎるぞ……」

 なんとか立ち上がる雪哉。そして手を伸ばす。その手が届かなくても伸ばさずにはいられない。だってやっと到達した。邂逅を果たした。

「助けに来たぞ、理愛」

「助けに来ただけですね、兄さん」

 それに関しては言葉を返せない。来ただけだ。それだけだ。それしかしていないし、それしか出来ない。いつだって手を差し伸べるだけだ。それ以外は雪哉には出来ない。

「ボクを挟んでお喋りしてんじゃねぇよ……まだだ、まだだよ。キミたちはここから出られない。ここはボクの腹中なんだぞ?」

 そうだ。雪哉も理愛も凰真の力によって呑み込まれてしまった。理愛と再会を果たせたもののここからが本当の戦いだ。

「まずは……もう一度眠ってもらおうか、時任理愛」

「申し訳ありません。もう一度情けないお姿を見せたくはありませんので、あの……兄さんとここから出していただけませんか?」

「キミもか……キミも時任雪哉と同じでよく喋るんだね。眠っていたときのキミはよかったのに、残念だ」

「アナタにどう思われようとわたしの勝手ですから」

 そう言って理愛は雪哉の元に駆けつける。雪哉の手を掴み、二人寄り添いながら凰真と対峙する。

「理愛、俺は怒っている」

「そうですね……兄さんを裏切ってしまいましたね」

 理愛は弁明しようとはせず雪哉の怒りを受け入れた。

 夢に逃げた。現実から視線を逸らした。ヒトでないから夢に溺れた。

「凰真の見せる夢は性質(、、)が悪い。お前が逃げたくなる気持ちは解らんでもない……けれど、もう少し俺を信じてくれてもよかったんじゃないか?」

「本当に、ごめんなさい。わたしは、強くないですから……」

「強くなる必要なんかない。弱いお前を守るのは、いつだって俺だ」

 理愛の表情が見る見る暗くなっていくものだから、雪哉は理愛の小さな頭を撫でてそう言った。だが、そんな雪哉の言葉を訊いた理愛は突然笑い出したのだ。

「何も笑うことないじゃないか……」

「だって兄さんがわたしを守るだなんて……何も無い兄さん。力を持たない兄さん。誰よりも弱い兄さん。それなのに今までもこれからもずっとそんな自信満々でわたしを守るって言うんですから」

 嘘で塗り固め、心を誤魔化し、そんなこと理愛は知っている。雪哉も解っていてそんなことを言っている。理愛は笑い、雪哉も笑う。やがて理愛は笑うのを止め、雪哉の手を取った。ボロボロに傷ついた右腕。大きなその手をギュっと握り締めて、

「それなのに、そんな兄さんの言葉はとても心強くて――暖かい」

「ああ、そうさ……何人(なんびと)たりとも俺の築いた世界を侵すことは出来ない。俺の大切な――そう、お前の為に俺はいる」

 無能なことも、矮小なことも、脆弱なことも、全て承知している。だからとてそれで歩みを止めてしまえば終わってしまう。終わりたくないから進むのだ。そして一緒に進む為の手を掴んでいる。もう離さない。絶対にこの手を離さない。

「ここから出ることは絶対に出来ない。そしてもし出られたとしてもキミたち二人はまた苦しむしかない。痛みに耐えなければならない。足掻き続けるのかい? 誰も認めてくれない現実(セカイ)の中で生き続けることが出来るのかい? ここに居れば悲しむことも無い。ボクがキミたちと一緒に生きてあげる。だから、もう止めるんだ。ボクと一緒に……」

「もし、兄さんがいなければ……わたしはきっと貴方の手を取ったかもしれません」

 凰真の訴えに理愛は返した。

 きっと孤独ならば凰真に共感し、共に生きることが出来たかもしれない。そもそも夢に甘えたことも、沈み溺れたことも、雪哉を信じられなかったからだ。兄の覚悟を受け止められなかった。外の世界は苦しくて、恐ろしいのかもしれない。孤独ならその恐怖に慄き、震え、耐え切れずに目を背いてしまったかもしれない。

「だけど、わたしには兄さんがいます……わかっていたことなのに、わたしも弱い。弱いから、だから――」

 凰真の声はもう理愛に届くことはなく、凰真の夢に理愛が甘えることもない。雪哉の存在が理愛の心を強化する。だから折れない。迷うことも、悩むことも無く、雪哉の手を取るだけで全てが救われていく。

「わたしと歩いてくれる(ヒト)。わたしを守ってくれる(ヒト)。わたしを助けてくれる(ヒト)。わたしと一緒に戦ってくれる(ヒト)。もうアナタには負けません。アナタの願いの為にわたしの花晶(ココロ)を渡すわけにはいきません」

 その表情は力強く、光り輝く瞳。真っ白な瞳には一切の曇りは無く、どうして戦えるのか。挑むことが出来るのか。凰真の言葉に偽りは無い。きっと外界は脅威で溢れて、理愛という存在を否定する者ばかりなのかもしれない。ヒトでなければ、異端とされ。異質だからこそ省かれる。

 けれど雪哉が教えてくれる。その世界に理愛が独りで生きなければならないという恐怖は無い。一緒に歩いてくれるヒトがいるから。そしてそんな自分を待っているヒトもいる。

「みなさんにもお礼を言わないといけませんし」

「ああ、そうだな」

 そのまま雪哉は理愛を守るように一歩前に飛び出し、凰真と対面する。

「わかった。もういい……ここから消えろ、不純物」

「なに?」

「どうせここじゃ殺し合いも出来ない。キミがボクの中で消化されていれば全て終わっていたんだけれどね。もういいよ、今のままでも十分ボクの願望は成就できるさ。でも、それにはキミらが邪魔だ。キミたちが邪魔をするから、ボクはキミらを殺してから行動を起こす」

「そうか……わかった皇凰真。なら、何度目のラウンドになるかわからないが、もう一度戦おう」

 雪哉の言葉は無視し、凰真は理愛の方を見つめた。

「ボクも少し優しすぎたな。キミの蟠りを消してやろうと時任雪哉をボクの中に招いたのが最大の誤算だった。挙句にキミは中でなく外を選んでしまった。それはキミの誤算になるだろうけど、もうここからは躊躇や慈愛なんてものは無いよ。あるのはただの殺戮だ。ボクも疲れた。もうキミたちのような狂った兄妹の相手をするのは精神的に辛いんだ。だからボクの記憶からも消え去るほどに、キミたちの存在を抹消することにする。いいね、次で最期だ。ボクももう終わりにしたい」

「ええ、そうですね……わたしもそうして欲しいです。こんな血みどろの戦場で声を荒げて、叫んで、戦い続けるなんてわたしも苦しいです。だから早く終わらせて、また兄さんと一緒に学校に行く――あの日常に帰りたいんです。だから終わりにしましょう。兄さんと一緒にアナタと戦います」

 お互いの感情がぶつかり合い、そして分かり合えることは無く。凰真は背中を向ける。それと同時に視界を開いていられない程の眩しい光が広がっていく。

「夢から醒めたキミたちに待っているのは……終焉だ。奪われるんじゃない、終わるんだ。そして何もかもを終わらせてやる」

 そんな凰真の言葉で、この夢はやっと終わりを迎えた。眩い光の中でけれども雪哉と理愛は手を離さない。もう離すことも無く、

「さて、散々やられたんだ……やっとここから反撃だな」

「ええ、そうですね……わたしも格好の悪いところばかり見せてしまいましたからね。行きましょう兄さん」

「ああ、さっさと終わらせて……みんなと帰るぞ」

 もう自分らどこを向いているのかもわからないほどに視界は塞がり、そのまま墜ちていく。踏んでいたはずの床が消失し、雪哉と理愛はそのまままっさかさまに墜落していく。それはまさしくこの空中庭園からの追放だった。

 そしてもう二度とこんな甘い夢を見ることは出来ない。この優しい夢の中に逃げ込むことは無い。二人はその夢幻を拒絶したのだから。

「歩いていく……兄さんと」

「進んでいく……理愛と」

 もう光に呑まれて顔も見えないけれど、それでもこの腕の中にある温もりが雪哉と理愛を繋いでいる。顔を見合わせることが出来てなくても、もう大丈夫。今はこんなにも勇気で溢れている。恐怖が消えていく。どんな困難も独りで立ち向かうこともせず、弱いと解っているからこそ手を取り合って進んでいける。何があっても、もうこの二人ならどんな敵にでも――


 ――無能力者(雪哉)は再び花晶(理愛)と共に戦うことが出来るのだろう。

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