1-7 有能なる者の敗戦
1-7 有能なる者の敗戦
兄妹の絆が深まり、数日が経過した。
桜花は枯れ、地面に落ちたはずの花びらは姿を消した。
虹子に襲われたあの日、早々と家に帰ってからというものの雪哉とは話をした。
身体の中に種晶が見つかったということは前に話したが、能力は発現していないことをまだ話していなかった。それは嘘じゃない。本当に何も変わらなかったのだ。誰かが理愛の身体の中に種晶があると言った。機械を使って、調べて、そう結果は出た。けれど、何もわからないのだ。
自分の身体を見ても、何もおかしいところなんてない。おかしいのは銀の髪と瞳だけ。それは生まれたころからずっとおかしいことだ。そんな異常は理愛にとっての正常なのだから、もうそんなことは気にならない。しても意味ない。
だけど、理愛の身体の中にあるその種晶をどうして虹子は欲しいと言った?
そして、そんな疑問よりもわからないことは……月下虹子が飄々と学校にやって来たことだ。
人一人殺そうとしたはずだ。雪哉は警察に一部始終話したはずなのに、顔も身元もはっきりしているのだ。見えない犯人ではないのだ。事件は起こるより早く、決着していたはずなのに、どうして何も言わない。教師はそんな虹子を見ていつものように出席を取っている。どうして? 誰も何も言わないの? そもそも虹子が理愛に何をしたのかさえ周囲は知らないけれど、別に理愛は虹子は殺人者だったなんて言い触らす気はなかった。終わったことだと思っていたから。ただ単純に理愛がそんなことを言える相手がいないというのは言ってはならぬことだろうか。
それでも、今、目の前のこの奇怪さに嘔吐感がこみ上げてくる。別の世界にでも迷い込んだ気分だ。
「ひさしぶり理愛、さみしかった?」
理愛の横を通る最中、虹子はそう言った。
理愛は下唇を噛み締め、無視を徹底した。なんだこれは、どうして、こうも笑っていられるのか。その神経を疑う。
「話があるなら、放課後……聞くよ」
耳元で小さくそう虹子は言った。しかし相手の土俵に入り込む真似はしない。だから理愛は「なら屋上で」とそう返した。
授業のノートを写すものの、教師の声は頭に入らなかった。何の授業をしたか、どんな内容だったか。そんなことを気にかける余裕はない。この学校に、自分の憎む敵がいる。そんなのを前にしてよく平静を保っていたものだと自分を褒めたいぐらいだった。
筆箱からは取り出したのは何に使うかわからぬまま入れていたはずの使わないままで新品だったカッターナイフ。それを手早くポケットに忍ばせる。護身として、身を守る武器は必要だ。相手はナイフを携帯していた殺人者。それを前に何も持たずに立ち向かうわけにはいかない。
放課後のチャイムが鳴り、授業は終わった。
その音は戦いの鐘を鳴らしたかのようだった。理愛はそそくさと屋上へ向かう。自分でも思い切ったことを言ったものである。何故なら理愛の通う学校の屋上は漫画のように開放されているわけではないのだから。屋上の侵入は禁じられており、それを破れば処断されるのだからそう近付いていい場所ではなかった。そもそも新入生の分際で、屋上が頑なに施錠されていることを知っているわけでもない。けれどいざ行ってみれば、錠前は両断され、扉は開いていた。この扉を開けば、戦いは始まる。もう逃げられない。準備は万端ではない。即席で装備を整えただけでどうにかできるとは思えない。しかしやるしかない。逃げるわけにはいかない。兄を呼ぶべきだったか? それはダメだ。逃げない。一人でも、戦えることを兄に証明したい。理愛は兄にただ心配をかけさせるだけの存在にはなりたくないから。
「やっほぉ、来たね理愛」
「なんで、ここにいるんですか?」
「やだなぁ、脱獄して来たわけじゃないよ? ちゃんとポリ公には事情話したし、いろいろしてね、私はこうして釈放されたのでした」
あり得ない。
そんな馬鹿げた話があって堪るか。あの日、兄は警察に事情を話し、理愛も警察から話を聞かれたから、包み隠さず全部言った。それなのにどうしてこんなところに虹子がいる。
「ムリだよ」
「何が……?」
「私をどうこうしたかったら、力を見せないと」
意味がわからない。理愛は十分、兄の不思議電波を受信させられているわけだから、相当おかしなことを言われても感受することは出来る。それでも、虹子の発言だけは理解しがたい。どうして能力を見せなければいけない。そんなもの使えるわけがないのに。
虹子の瞳は黒から白へ移り変わり、やがて金色に輝いている。そしていつぞやのように胸ポケットから折り畳んだナイフを見せ付ける。
「あなた、馬鹿なんですか? こんなところでそんなもの見せて……わたしが悲鳴を上げたらおしまいですよ?」
「ふふっ、ホントにそう思う? いいよ、悲鳴でもなんでも叫びなよ」
虹子は狼狽することもなく、むしろ理愛の行為を許可したのだ。おかしいのはどうしてそこまで自信を持って、こんな狂った行為に及ぶことができるのかだ。理愛を襲ったあの日も、突然の出来事だった。この女は、本当に、どこか、壊れているようだ。
「ありゃ? 叫んでもいいんだけど、どったの?」
だから理愛は悲鳴を上げることはやめた。意味がない。あれだけのことをしておいて数日程で帰還されては、何らかの力が働いているとしか思えない。兄の影響だろうか、妹の理愛までここ最近、おかしな思考が働くようになってしまった。
あれだけ兄の発言も行動も卑下していたくせに、なんて、兄妹なんだからこうなってしまうのは当然か。これだけ異常な状況でさえ、兄のことを思い浮かべると笑ってしまう自分がさらにおかしい。
「月下さん、これ以上、わたしに関わるのはやめてください」
だから、これは戦闘だ。兄のよく言う、戦争か、闘争か。
手にはカッターナイフが取り出され、刃先が伸びる。
種晶が見つかったなんて知ってから、こんなにも変わってしまったのだろう。ましてや殺されるかもしれない場面にすら遭遇するなんて、お陰で日常なんてとっくに壊れてしまってる。銀の髪と瞳だけを恨むはずの世界に、憎悪がもう一つ、いや二つ加わるだけで、理愛の世界がおかしくなる。もう十分だろう。そんなに憎いのなら、壊し返してしまえ。わたしの世界から、消えてしまえと……理愛は刃をカチリと引き伸ばす。
「え? 何? いきなり? そんな突然? 話は? 何もないの? 聞きたくないの?」
「興味、ありません。アナタの、ことなんか。だから、消えてくれますか? わたしの前から消えてくれますか? お願いです、わたしをこれ以上苦しめないでください。アナタを見ていると疲れるんです。憑かれたみたいに苦しくて、重くて、目障りなんです。死んで、くれますか?」
どうしたんだろう、自分は何を言っているんだろう。おかしくなってるおかしくなってるおかしく――
なんで、身体が勝手に動くの。こうするってわかってた?
リノリウムの床を強く蹴り、跳躍した。まるで自分の身体じゃないみたいに、強く跳ねる。きっとこれはもう決まっていたこと。自分の前に現れた敵を、やっつけるためにすることだ。
どうして? なんでそんなことするの? 身体は動く。止まらない。震えが止まり、薙いだ刃が虹子を襲う。
「ひゃぁ! もっと驚くと思ってた! 理愛を殺そうとした女が学校にやって来ただなんて、普通おかしいでしょ? それなのにさぁ、じゃがいも見るみたいに目の色一つ変えないんだもん。やっぱ理愛、理愛、理愛理愛理愛、アナタ、『本物』なんだってぇ、だからさぁ、教えてよ。私に見せてよ。魅せてよぉ!」
何を持って本物と言うのか。それならば贋物は何なのか。
理愛にはわからない。わからなくていい。虹子を倒せばそれでいい。こいつが理愛にとっての障碍ならば、それを押し留めるのは理愛でしかない。兄に頼るわけにはいかない。妹の問題は妹が解決する。攻撃されたのなら、迎撃するだけの話だ。なんでそれに気づかなかった。
そう気づいただけで、身体はこんなに軽い。どうして? どうして今から人一人殺すかもしれないってのに、気持ちはこんなに晴々しいのか。その理由はすぐに気づいた。そうだ、兄を心配させることがなくなるからだ。不安を根底から断つことができる。素晴らしい。なんて素晴らしいのか、また元通りだ。こいつを終わらせれば。
「すごい、速い、はやぁい!」
「死ね」
縦横無尽に突出する刃がぶつかり合い、火花を散らす。工作用のカッターナイフが携帯武器のバタフライナイフと互角に刃を重ねている。当たり所が悪ければ間違いなく致命傷だ。薄いカッターナイフの刃だってきっと容易にへし折れるはずだ。それなのに理愛は銀の瞳でそんな紙一重の世界を直視する。
「なに、なになになに? 隠してたの? そんなの隠してたの? なんであの時そうしなかったの? もっと早く楽しめたのにぃ、びっくりしたよ、びっくりぃしたぁ!」
刃と刃が重なる度に、虹子の狂った顔が見え隠れする。そんな顔を冷酷な瞳で見つめる理愛。命を奪う銀の刃と同じ瞳の色で、虹子を一瞥し、再び跳躍。
「なっ……、速いぃ?」
そこで初めて興奮し続けた虹子の顔の色が変わった。瞳も赤から青へと変色している。だって、理愛の小さな身体が半月を描き、宙を舞っていたから。そのまま墜落する理愛は逆手に持ち直したカッターナイフで虹子に切りかかる。
だが、間一髪か虹子はそれを前転し、回避する。それでも背中の制服の布がバッサリと切り裂かれていた。明確な殺意を持って、その刃は振り下ろされたのだ。もし何もせずにその場でいたのなら、脳髄と血液で屋上が水溜りを作り描いていたことだろう。
「殺す、殺すつもりだった……私を、殺す、つもりだったの?」
「ええ」
掠れた声で呟く虹子に理愛は素っ気無くそう言った。
「そう、そうだよね、ここまでしてるんだ……覚悟、してるってわけだぁ!」
理愛の身体を穿たんと尖鋭な刃が襲い掛かる。けれど、その刃はまるでバターでもくり貫いたみたいに綺麗に無くなっていた。肝心の刃先は地面に転がり、ナイフとしての意味を失わされた。
「は、はは……すごいや、こりゃ勝てないかも」
「勝ち負けはいいです。だってアナタが消えればもう終わりなんですし」
「ふふ、おかしくなったね理愛。もう認めたの? 私たちと同類ってこと」
「一緒にしないで。兄さんがわたしを認めてくれるから、だから怖くないだけです」
こんなに早く、こんなに速く、これまでこんなにも素早く理愛は動けなかった。
どうしてこんなことができたのかもわからない。
それはきっと常識を超越したのだけははっきりとわかる。
だから、おかしくなったというのは正しいのかもしれない。それが嫌だった。そうはなりたくなかった。けれど、もう怖くない。逃げない。兄は逃げない。そして理愛に逃げるなと言った。その言葉だけで救われているのだ。力が無い無能と呼ばれるそれに兄も分類されてしまっても、理愛にとっては有能以外の何者でもない。言葉一つで心を救うことができるそんな兄を、理愛は決して裏切らない。裏切れるわけがないのだ。だから、自分も戦う。兄のように。
「ふふ、ふふ……」
そんな理愛を他所に虹子は笑っていた。武器を失った虹子にそんな余裕はないはずなのに、馬鹿にしたように笑う虹子が許せない。理愛はカッターナイフの刃先を向ける。
「何がおかしいの? もう、アナタは何もできない」
「そうかもね、でも、理愛のお兄さんはどうなのかな? あのいけ好かないクソ野郎。理愛はこうやって私をやっつける術がある。でもお兄さんはどうなるかな?」
「……死ね」
カッターナイフを持つ手に力が篭る。このま力を矛先を前に向ければ、虹子の人中を突き破ることぐらい容易く出来る。だが、それよりも兄の状況が気になってしまって思うように刃の位置を固定できない、理愛の手が震えていたから。
「私にもさ兄貴がいてね、今頃、ボッコボコにされてんじゃないかなぁ。ホント、あのチキン野郎。勝てないってわかってて先にサツ呼んでるとかつまんねぇことしやがってさ」
理愛はその言葉に反応し、虹子に覆い被さっていた。
背中から思いっきり転がされたっていうのに、虹子は平気な顔のまま勝ち誇る。おかしい、確かにさっきまで勝っていたはずなのに。だからこの女に少しでも勝利の余韻を味合わせる気なんてない。そのまま圧し掛かり、刃に殺意を乗せる理愛は虹子に密着したままこう言うのだ。
「次、兄さんのことを口にしてみなさい……わたしは躊躇いもなくアナタを殺すわ」
「ひぃーこわいこわい、なんだ、そっちの目の方がずっと綺麗。ずっとずっと死んだ魚みたいな目で怖かったんだよ。感情が欠落してるのかなって。でもそうでもなかったみたい」
押し付けられたカッターナイフの刃が虹子の頚動脈に当てられていた。それなのに虹子は汗一つ掻かずに煽りを止めない。
「その減らず口、引き裂きます」
「エラく強気だね理愛、どうしたの? 何を焦ってるの?」
「何を言って――」
パン。
そんな腑抜け音が屋上で鳴った。虹子はやはり終始笑いを止めることはなかった。青色だった瞳が黄色から緑色に変わり、また赤に戻り、そして銀色にと止まらぬ変色の瞳で理愛を見つめる。ほんの一瞬の出来事だった。理愛の手にしていたはずのカッターナイフの刃先が粉微塵に砕けていた。
何が起こったのかわからず、そのまま後退。その後退は無意識の内にした防衛本能から行ったものだった。今、この女、何をした?
「すごくよかった。初めてにしては、上手く動けてたんじゃないかな?」
その変わり続ける瞳が不気味に虹色を形成する。一色ではなく、複数の色を宿すその瞳で見透かされるだけで理愛の脳内に警鐘が鳴り響いていた。
「わからない? 何をされたか? 何が起こったか? わかるよ。理愛ならわかる。始まったばかりの理愛の力じゃ、まだ経験不足でムリかもしんないけど、でも大丈夫。理愛の『特別製』なんだよ? 問題ないって」
「何を言って……」
虹子は笑う。不気味に、不吉に、道化師のように。そしてくるりと一回転し、子供がはしゃぐようにステップを繰り返し、肩で小さく理愛に触れるか触れまいか微妙な力で接触する。
たったそれだけの行為で、理愛の身体は途端に吹き飛び、屋上からの落下を防ぐフェンスに叩きつけられたのだった。脳味噌を限りなくシェイクされたようだ。視界が揺らぎ、意識が途絶えそう。それでも必死になって立ち上がる。そんな姿を見て、虹子は驚きを隠しきれない様子だった。
「手ぇ抜いたから、そりゃそうなんだろうけど、立ち上がられると結構キツいね。私のだってそりゃもう『特別製』だからさ、そんじょそこらのカス能力とは違うんだけど、まぁ、さすが理愛なのかな」
「はぁ、はぁ……はぁ……」
荒く息を吐くことしかできない。けれど片手にはまだカッターナイフがしっかりと握られている。まだ戦える。武器があれば、戦える。さっきみたいにすごい勢いで近付いて、すごい勢いで攻撃すれば……なんて、すごい勢い? それだけしかできないのか? そのそれだけも、今はどうすれば出来たのかも覚えていない。
それでも立ち止まるわけにはいかない。屈服してはいけない。敵の前でうつ伏せで倒れていてどうする。自分の身体を叱咤して、無理矢理に立ち上がる。もう足がおぼつかないのか古時計の振り子のように左右に揺れ動いていた。
「でも、ちょっと熱すぎるのはおもしろくないかな。むしろ寒いっつーか、そのなんだ、そろそろ終わりにする?」
再び虹子の瞳が七色に染まる。
そして最大の暴力が今まさに理愛に襲いかかろうとしている。
「ずっと、変わらないままなんて、ないんだから。だからさ、諦めなよ」
何を、どう諦めろというのだ。そんなことできるはずがない。
「理愛、キミの未来は、もうずっと前から決まってたんだよ」
だから、自分の物語に他人が触れるなんてもっての他だ。これからの未来までも、自分以外の何者かに線を引かれるだなんて、そんな未来を誰が欲するというのだ。
だから――
「わたしの未来を、勝手に決めるな!」
だから、どれだけ力量に埋められぬ差があるとしても、曲げられない信念一つで、立ち向かう。
何の考えも持たず、何の技術も見せず、理愛は突きを繰り出す。
それでも力の無いその刃では、敵の牙城は崩せない。見えない壁に遮られるように、コマ送りのようにスローで再生されるように、小さく砕け散る理愛の武器をただ唖然と見つめることしかできなくて、そして、破壊し尽くされると同時に理愛もまたその場でペタンと座り込むことしかできなかった。
「決まるさ、アナタの未来は私が決めた。だからもう理愛、おしまいなんだよ。一つ勘違いしてるかもしれないから言っとくね」
小さな虹子の身体が理愛の前では巨大に見えた。あまりに圧倒的なその力が理愛の信念を崩壊させていく。
これが能力者としての能力を使用した姿だとするのなら、自分はとてつもなく矮小であるということを思い知らされた。
「理愛の力が目覚めるまでの余興だよ、だから私はここにいるんだよ」
「アナタは、何者なの?」
「Ark」
「……え?」
聞き覚えの無い単語。
理愛は首を傾げる。
虹子はまた不敵に笑い、口元は三日月を描く。
何も知らぬ、解らぬ、そのままで、一体誰に勝つというのだろう。
立ち向かうことで変化から逃れようとした。けれどそれは叶わなかった。
だからこの日、時任理愛は初めての敗北を喫することとなった。