f-8 ウタガキコエル<後>
f-8 ウタガキコエル<後>
「……月下雨弓、まさか君がこんなところにいるとは思わなかった。姿を消したから何処へ行ったのかは気になってたけれど、いやはや……驚いたよ」
切刃は一瞬だけ驚いた表情をしていたが、それもすぐに元に戻し、月下雨弓に似た何かに対して刃を向けた。
御面は既に真っ二つに割れ、地面に落ちていた。それと一緒に手にしていた銃型のARKもまた砕けて転がっている。
「消エルワケニハイカナイダロウ……オレニハヤルコトガ有ル。時任雪哉ヲ解体スルトイウ使命ガナァ……」
「使命……ね。君の口からそんな言葉が出てくるとは。君が消える前はもっと威勢の良い不良のようだったが、なんだいそれは? 今の君はまるで機械人形だ。人としての威厳は完全に無くなってるいよ」
人間のように二本の腕と脚を、表情も人間と何ら変わり無い。だが、その腕も脚も銀色に染まり、顔の半分もまるで鋼鉄で出来ているように思える。声も機械から発する電子音のようで、所々ノイズが走り、耳を傾けるのも嫌になるような声質だった。
「チカラヲ得ルニハ、コウスルシカナカッタカラナ」
「へぇ……いや、そこは感心するよ――そうまでして、君は果たしたい目的ってのがあるんだろう?」
「ソウダ、オレハ必ズ時任雪哉ヲ殺ス。ソレガ、オレガコウシテコノ世界に現存スルタッタヒトツノ意味ダ」
それはもう、人ではなく、人の形をした殺戮人形でしかなかった。
「君の憎悪は認める……だが行為を理解することは出来ないなぁ……半分以上、鉄屑になってしまった気分はどうだい? 僕には恐ろしくて手が出せないよ――」
「最高ダ、コレナラモウ老イルコトモ朽チルコトモナイ……時間ニ追ワレルコトモナク、時任雪哉ニ復讐ガデキル」
「たった一つの感情だけで、全て投げ捨てたわけか……覚悟、しているわけだね。なら、僕だって迷いわしない……」
切刃は手にした湾刀を構え、雨弓に立ち向かう。
「ここで、君の憎悪を終わらせる」
大切な友の為、そしてその友を守る為、切刃は対峙する。そもそも雪哉を最果てに辿り着かせる為に、雪哉に襲い掛かる魔手を掃う為にここに来たようなものだ。
敵が何処の誰であれ、敵が如何なる想いを抱いていようが、そんなものは関係無い。敵同士ならば、何一つ躊躇など要らない。ならば、やるべきことはただ一つ。
「ドウシテ時任雪哉ニ拘ル? オマエモマタ、失ッテシマッタハズダ……ソレノ原因ハアノ男ニモアルダロウ?」
「かもしれない。だけど、感情すらも変貌した君には何を言っても意味がない……だから、君には関係ない話さ」
最早、風貌こそ月下雨弓であっても、それはそんな雨弓の形をした別の存在だった。切刃は雨弓のことは殆ど知らないが、雨弓の行動原理は理解出来る。
何せ雪哉と雨弓の戦いは遠くから見ていたわけで、雨弓もまた妹を喪っているのは既知の範疇だった。
雪哉の前に敗れた月下兄妹だったが、その兄は憎悪を抱えて怪物に成り果てて現世に留まっていたというわけだ。
今や雨弓を動かせているのは時任雪哉への復讐のみだった。これを雪哉の元へ行かせるわけにはいかない。切刃も雨弓の感情は痛いほどに理解できる……切刃もまた姉を喪ったことで、その憎悪一つだけで此処まで来てしまったのだから。
だが、今は違う。
いや、完全に否定できるほど優れた人間ではないのかもしれない。
何処かでまだその感情が息衝いているのが解る。大切な人を奪った存在に対しての感情は負ばかりで、きっと刃を振るう手を止める事は出来ないかもしれない。
けれど、けれど……もう帰って来ないことは解っているから。喪った者が帰って来ることはない。
ずっそ後ろばかり見ていた。過去ばかりに視線を移して、一向に前を見ることが出来なかった。
でも、振り向かせてくれた人がいる。
時任雪哉。
最初の友達。
永劫、未来だけを見据え続けている。
最愛の妹の為だけに、何もかもを呈し続ける者。
一切、過去を見ずに歩くことしかしないこの男に切刃は感心しているのだ。そして今回も、強大な敵に攫われた妹を救う為に立ち向かっている。
何の力も持たぬ、嘘で塗り固めた左腕だけで――雪哉は、立ち向かう。
だから、もう今は雪哉の力になりたいと切刃は思ったのだ。
復讐よりも、ずっと強く芽生えてしまった感情。
誰かの為になんて――そんな偉そうなことは言わない。
だから今は、友達の為に出来ることをしようと切刃は動いた。
「君は僕だ……月下雨弓。雪哉に出逢わなければ、きっと僕は君を同じになっていた」
「何ガ、言イタイ?」
「何が? そうだな……悪いけれど、君を打ち負かそうかなって、そう言いたいわけだよ」
「人ノママ、タダ迷イ続ケル愚者ガ、何モ出来ズニ死ニタイワケカ、人間――」
「人であることを捨てた弱者に……僕の気持ちなんて解るものかよ、人形――」
切刃の語彙が荒くなり、そして動き出す。
先程より遥かに速い。速度が増した切刃の動きに雨弓は反応する。切刃の剣撃は雨弓に届かず、雨弓は空を舞っている。右手の上で収束する風。螺旋を描きながら、球状に造られた風が切刃の目に映った。
「これは、不味いな……」
だが切刃は狼狽えず、顔に手を置いた。
「躱セマイオマエデハ、コレヲ……」
「躱すさ……」
切刃はそのまま世界から消失した。
切刃の消失と同時に雨弓が投擲した風の塊が爆ぜる。壁を吹き飛ばし、ありとあらゆる物質は破壊されていく。
だがそれは物質だけであって、切刃は分断されていない。唐突に姿を消した切刃に雨弓は周囲を見渡したが、視界に切刃の姿は映らない。
切刃もまた世界を跳躍できるというとてつもない異能を持っているが、再び姿を現すまでは視界は完全に遮られているようなものだ。
世界に再現された時、瞬時に目に映るモノから全てを判断しなければいけない。だが、今回は運も味方に付いた――
切刃は雨弓が立っていた真上に跳躍することを選んだ。だが、雨弓がずっと同じ場所に停滞しているかどうか……それは切刃でも読めない。
だが雨弓は動いていなかった。
切刃が転移し、世界にもう一度還って来てもそのまま動かずに立ち尽くしていた。視界に雨弓の頭上が映り、はっきりと好機が見えている。
声も上げず、暗殺者の如く、ただ一刃の先端を雨弓の脳天に突き立てる為に再び世界を飛び越える。
けれど、その刃は――
「なっ――……」
雨弓の脳天を貫くことは無かった。切刃の振るう一撃はまたしても弾き飛ばされ、刀身は粉微塵に砕かれる。
「捉エタゾッ……」
切刃の攻撃を無効にした雨弓は地面に着地したまま硬直して動けない切刃は無慈悲な一撃を返す。
大きく振りかぶって放たれた右正拳。まるで鉄柱で殴られたような衝撃が切刃の顔面を撃ち抜いた。顔が潰れ、そのままグルンと回転したまま吹き飛ばされた。
壁を突き破り、そのまま建物の中で大の字のまま切刃は動かない。動けない。動きたくても、身体は動かない。
目の前がチカチカと、強い光を当てられたようにはっきりと視界が映らない。少しでも気を緩めれば意識が途絶えてしまいそう。
完全に沈黙したまま、切刃は考える。
何をした。何をされた。どうして――
(僕の奇襲か完璧だった、でも、届かなかった……)
視界外、背後、しかも真上。
意識外からの攻撃ならば確実に直撃させれていたはずだ。しかも初動も見えず、ただ唐突に、突然に真上からの一撃だ。心でも読まれていなければ防ぎようがない。
心を読むことが出来るのか?
いや、それは違う。切刃はこれまでも何度か雨弓の攻撃を見えない壁に阻まれて防がれている。
そして雨弓の能力は風を操るという単純なモノ。
その身に風を纏わせて、不可視の障壁を作り出しているのだと考えられる……しかもそれは全身にだ。
まさに完全防御。
鉄の刃すらも防ぐその風壁。
切刃の装備では到底破れない――
(いや、あるか……)
ただ一つを除いて。
(けれど、まだだ……まだ、使えない……使えるような状況でも、状態でもない……)
たった一撃。
雨弓から受けた一撃だけで、切刃の身体は満身創痍だった。
機械の身体である雨弓の拳はまさに鋼鉄そのものだ。鼻の骨は折れているだろうし鼻血も止まらない。脳味噌はシェイクされ、視界も霞み、息も絶え絶えだった。
それでも――
(重くない……痛みだけじゃ、僕は堕ちない――アレの方がもっとずっと凄く重くて、痛かったから――)
ふと浮かんだのは雪哉から受けた拳だった。
ほんの数日前だ……時任雪哉と決着をつけたのは。
雪哉一切の能力を持たず、無能なまま、けれど切刃と戦った。そして最後はお互いにただの殴り合いをした。
フラフラになりながら、力なんてちっとも篭っていない弱い拳だった。それなのに、あの拳で殴られた時は、本当に辛くて、苦しかった。
だから、痛みだけの一撃では切刃は完全に沈黙しない。
この程度の痛みで立つことも出来ないだなんて、それこそ雪哉に怒られてしまう。
切刃は微笑み、鼻を押さえたままゆっくりと立ち上がった。
「オレハ別ニ、オマエヲ殺スツモリハナインダガ……邪魔ヲセズニ、ソノママ眠ッテイレバイイモノヲ」
「悪いね……そうしたいんだけど、それは君を倒してからにする。このまま眠ってしまったら、雪哉に怒られちゃうからね」
折れた湾刀はもう使い物にならない。それでもまだ戦える。何も持たずしても戦うことが出来るのは雪哉が教えてくれている。
「ナゼ、ソウマデシテ時任雪哉ヲ庇ウ? オマエハ何ノタメニ戦ウノダ? 」
「殺意だけで動く人形には解らないさ……さっきも言ったろう? 感情さえも狂ってしまったヒトに僕を理解することは出来ない」
右腕の手首から射出されたワイヤー。その先端には鏃が取り付けられていた。だがそんな小細工を雨弓は軽々と回避する。
そして手の平の上で練り上げた風の球体を切刃に向けて撃ち続ける。しかし回避した切刃のワイヤーの先端は壁に突き刺さり、勢いよく巻き戻すことで雨のように撃たれる風の銃弾の全てを躱していく。
「曲芸師ノヨウナ奴ダ……」
「よく言われる」
再び庭園で対峙する切刃と雨弓。
切刃はずっと違和感を覚えていた。今のワイヤーもそうだ。切刃の違和感は大きくなっていた。
(なんで躱す必要が、あるんだ?)
攻撃を回避するという行動を取る雨弓の行為に疑問を抱いていたのだ。
あれは完全防御。
傷一つつけることの出来ない無敵の壁。刃すらも砕き、その守備力の前に切刃の攻撃など役に立たない。
それなのに雨弓は切刃の攻撃を何度か回避している場面があった。雨弓の能力は無敵なのかもしれない。しかし、最強ではない――切刃はそう思った。
(なら、もう一度だ……)
切刃は念じる。
そして跳躍した。
切刃の飛び越えるその能力は世界から消失することを許され、そしてその瞬間は絶対無敵となる。
何せ攻撃が届かない何処か遠くへ消えるのだ。攻撃を当てることなど不可能だ。
消失した切刃を前に雨弓は驚くことなく、冷静なまま一歩もその場から動かずに立ち尽くした。
そして、突然に現れた切刃。切刃は雨弓の背後に現れたが、雨弓に後一歩届くところでそのまま離れたのだ。
端から見れば意味の無い行為だ。
理解に苦しむ行動に雨弓は首を傾げている。
「何ガ、シタイ?」
「自信があった……だから僕は跳躍んだ。そして解った――君の能力の弱点……攻守共に無敵のように思えた君は、どちらか片方しか使えない」
雨弓は答えない。
だが、切刃にはもう解った。雨弓の能力は風を操り、その風で攻撃と防御を行う異能。だが、攻撃をしようとすれば全身に風の壁を装着することは出来ない。そして風の壁を装着すればその風を使って攻撃をすることは出来ない。
切刃の確定反撃を前に雨弓が風を使わなかったのがその証だ。機械で出来た鋼鉄の一撃は確かに強力だが、切刃はこうして生きている。
致命傷を与えるにはやはり遠い。その一撃で切刃の身体は確かに壊れかけているが、それでもまだ戦える。そして切刃は雨弓の能力の欠点を見出した。
「ソレデ、オマエハ勝テルノカ? オマエノソノ能力デハ、オレヲ倒スコトハ出来ナイゾ?」
「フフッ……僕の考察は当たってるんだね。ならいいさ……君の攻撃を回避し、そこを突くだけだ。確立はゼロじゃないだろう?」
勝機を逃さなければ出来ないことではない。
雨弓の暴力的な攻撃も、絶対に回避出来ないわけではない。そして跳躍の能力がある切刃にとっては雨弓が攻撃するその瞬間が、自身の能力を使う絶好のタイミングである。
問題は、切刃が跳躍を行えば、着地するまでの視界が完全に失われるので動かれてしまえば瞬時に雨弓を見つけ、攻撃を当てなければならないというわけだが。
跳躍し、再び世界に現れた時に視界内にいるとは限らない。
これは言わば博打にも近い。しかしそれしかない。それが一番だ。
切刃はギュっと拳を握る。まだ戦う術はある。雪哉ほどに絶望的ではない。そう、雪哉には戦う武器も能力もあるのだ。
雪哉のように何も持たず、ただその信念のみだけで戦えるほど強くはない。
だから、この程度の絶望で動けなくなるわけがない。圧倒的な敵を前にしても、戦う意思を保ち続ける時任雪哉の存在に、切刃の身体は軽くなる。
(雪哉……君のように、僕も戦う。逃げるものか……僕はまだ、生きてる。生きて、罪は償う――でも、その前に、僕は、君の敵を討つッ!)
切刃が駆ける。
雨弓は既にその手に風の球を創り上げていた。目に映るほどの暴風が雨弓の手の中で創り上げられている。
「ナラ、躱シテミロ……ソシテ、オレヲ倒シテミロッ!」
これで決着だ。
攻撃を躱し、雨弓を捉える事が出来れば切刃の勝ち。それを回避出来なければ雨弓の勝ちとなる。
庭園の植物を薙ぎ倒しながら、雨弓の放った暴風が切刃に襲い掛かる。
しかし切刃は世界から再度、消失し――雨弓の背後を取ろうとした。
だが、雨弓はいない。
視界に映るのは雨弓の竜巻によって荒らされた庭園だけだった。
「いないっ……」
雨弓がいない――切刃の能力の弱点。視界が完全に見失われるという欠点。その欠陥を既に雨弓に見抜かれていた。
雨弓が立っていたところには雨弓の人影が見当たらない。だが見渡す限り雨弓の存在が消えてしまった。
「どこへ……」
その時、背中に衝撃が走った。
焼けるように熱く、余りの痛みに地に膝がついてしまう。そして、気が付けば雨弓が切刃の視界に映っている。
ゆっくりと、まるでスローモーション。
次第に大きくなる雨弓の身体、いや――そう、切刃の膝が、切刃の――
………………時間が止まった。
視界は回転した。
意識が白に染まった。
世界に暗転している。
今夜は、星が綺麗だなと――
そんな風な気がしたのは、きっと夜空の下で仰向けになったまま倒れているからだろう。やけに意識は客観的になってしまって、そしてようやく解った。
(ああ、僕、は――……)
気が付けば切刃は赤い水溜りの上で、その赤は血。切刃の血で溜まった赤い池に切刃の身体が横たわっている。
それを見下ろす雨弓は両腕を組みながら立ち尽くしていた。
「確かにオレノ能力ハ攻撃ニ使エバ、防御ニ使エズ……ソノ逆モマタ然リ。ダガナ、ソレガドウシタ……オレノ身体ガドウナッテイルノカ、オマエハ知ッテイタハズダ」
雨弓の腕が伸びる。
いや、その腕にはワイヤーで繋がれている。雨弓が機械の身体であるのなら、切刃の右腕のようにギミックが搭載されていたことを失念していた。
雨弓は切刃が消えたと同時にその腕を伸ばし、上空に逃げていた。そして切刃が出現したことを確認し、背後からその腕を飛ばし強襲ったのだ。
雨弓の手から伸びるは鋼の刃。切刃の身体を解体するには十分すぎる威力がある。結晶の異能を使用せずとも、その身に秘めた凶器だけで今の弱体した切刃を殺し切るのはとても容易い。
「オマエハヨクヤッタヨ……ダガ、ココマデダ。諦メロ」
それは終わりを告げる言葉。
もう全てが終わる。
何も出来ない。身体が動かない。
(僕、は……まだ……このまま――)
ゆっくりと近付く雨弓を前にどうすることも出来ず切刃は何も出来ずにただ後悔の念を抱えたまま、終わりを迎えそうになっている。
能力を使用し、逃げることも出来る。
けれど今の切刃にはそれを使うことすら出来ない。
能力を使用するために必要な集中力は残っていない。今はただ流れる血と共に体力も奪われ衰弱する一方だった。
もう、このまま終わってしまうのか。
世界から消失する扉を開き、そこへ飛び込めば別の何処かへ飛び移れるだけの能力。そんなもので雨弓の暴力のような嵐に打ち勝つことが出来なかった。
(僕は……)
ただ悔恨に押し潰されそうになりながら、けれどその時、切刃の目に映ったのは小さな結晶だった。
破れた服の隙間から首にかけていた結晶が姿を見せた。
それは形を失ってしまった切歌の残骸。
粉々に砕けてしまった切歌という名の結晶をまるで形見のように首にかけていた。
全てを奪われ、喪い、孤独のまま地獄の釜の底で何もかも忘れて、憎悪だけを抱えて生きていた自分を救ってくれた贋物。
それが人ではなく、結晶から生まれた人外であっても――切刃の心を支えるには十分すぎた。
与えられた結晶から現れた奇跡によって、切刃は存在している。
そしてその支えは確かに消えてしまった。壊れてしまった。もう動かない、喋らない。助けてくれない。
なのに、なのに、どうして――歌が聴こえるのだろう?
木霊するその歌は、切刃の意識を繋ぎ止めている。はっきりと聴こえるその歌を、切刃は一緒になって口ずさむ。
「ツイニ、狂ッタカ? モウイイ……ソロソロ、死ネ」
雨弓の鋼鉄の腕から伸びた刃が切刃に襲い掛かった。
だが、そこで大の字になったまま動かない切刃がいない。
いないのだ。
この世界から再び消失している。
「死ニ損ナイメ……サッサト、諦メテシマエバイイモノヲ」
「諦めた、君に……諦めろだなんて――言う資格は無いよ」
雨弓から少し離れた位置に切刃が出現している。
血を流したまま、けれどしっかりと地を踏み締め、生存している。
このまま死んでしまっても良かった。
もう全て諦めて、時任雪哉に押し付けたって構わない。戦う理由は無い。ただこの敵を雪哉に邂逅させぬ為だけの戦いだ。
切刃が戦う理由は無い。
そうかもしれない、けれど、ここで終わりを選ぶほど弱虫になりたくはない。
約束した。
雪哉ともう一度、一緒に――
『私は、いつでも切刃の側におる……独りじゃない――そうじゃろう?』
脳裏にずっと響く歌声の隙間からふと聞こえた優しい声。
それは、きっと贋物であっても切刃の姉に変わりはない夜那城切歌の声だった。
渡された花晶に強く願った。
もう一度、家族に、姉に逢いたい……そう願った切刃の前に現れた、生き写しとも呼べるほどにそっくりな別物。
心まで同じで、その瓜二つに切刃は甘えた。
何もかもを無くし、失くし、亡くした切刃にとって死んだ筈の切歌との再会は自身の心を保つことが出来た。
それが嘘偽りの存在であっても、贋物で、作り物だったとしても――その幻想を抱えて、切刃は生きることを誓えた。
そして自分の世界を崩壊させた、本当の敵を探し出し必ず殺すと、ただ一つの感情だけ残して機械のように動いていたのに。
それなのに、今の切刃はもうそれが出来ない。
解っていたはずだ。
死んだ者は還って来ない、敵を殺しても戻っては来ない。
そんな当たり前が、憎悪の前では翳んで見えた。
けれど時任雪哉との戦いで切刃の価値観は覆されてしまった。諦めぬその心の前に、全てを手に入れようとするその傲慢さも――時任雪哉の生き方に感動してしまったのだ。
そして切刃は雪哉に賭けたのだ。
彼が全てを終わらせてくれる、と。
だから、こうして雨弓と戦うことを選んだ。もう何も要らない。憎悪は何処かへ消えてしまった。
これで終わる。終わらせる為に此処にいる。
だから、雨弓を雪哉の元へ行かせるわけにはいかない。雪哉の戦いの邪魔になる。だから、ここで雨弓を倒す。
歌が止んだ。声も聞こえない。それが幻聴でも、現実から逃避する為に流れた声だとしても、それでもいい。
もう一度、最期に大切な……大切だった姉の声を聞くことが出来た。だから、もう、大丈夫。
痛みも感じない。血が流れていることだって気にならない。
朽ち果てた身体がどうでもよくて、今はただ目の前の敵に集中している。意識がはっきりしている。もう見逃さない。
不思議な感覚だった。
歪んでいた視界が、今はとても鮮明に映し出されている。雨弓を視界から逃さず、切刃に関わる全ての理が遅延する。
スローモーションのように再生された映像を前に、切刃の身体だけが余りにも早く速く動き始める。
突然の切刃の行動に雨弓が体勢を整えたが、それさえも遅すぎて無様に見えたその様子を切刃は笑いを堪え一直線。
(解った……)
そして弾ける。
(……解ったよ)
そして消える。
だが、
「ナ、ニヲ、シタァ……」
いつの間にか切刃は雨弓の背後に立っていた。そんな雨弓は機械の身体であるというのに、その表情は苦悶を浮かべていた。
雨弓の表情が歪むのも無理はない。気がつけば、瞬きと同時に左腕が食い潰されていたのだ。まるでスプーンでアイスクリームをほじくったように丸く抉られている。
「――『絶対超越』 僕の能力の名前だよ……今までどうしても靄が掛かったみたいに名前が分からなかったのに、最初から忘れてしまってたみたいに、でも、分かったんだ。僕は、この能力の本当の意味も、使い方も、全部、全部だ……」
その表情は恍惚に満ちていた。何処か遠くを見つめては最早、雨弓は視界の外だった。今の台詞だってまるで自分に言い聞かせていただけで、雨弓は眼中に無い。
そんな態度が余計に雨弓の癪に触ったのか、雨弓は地面が突き抜けるほどに力強く踏み抜いていた。
「ソレ、ガ……ドウシタァアアアァァッァアッ!!」
憤怒に身を任せ雨弓は残った右腕を大きく振り払うと、辺り一面を吹き飛ばすほどの暴風が切刃に襲い掛かる。そして砂埃を撒き散らし、切刃はそのまま砂塵と共に消えてしまった。
「フザケ、ヤガッテ……名前ガ、ドウシタ。タダ消エルダケノゴミ能力ノ分際デ、調子ニ乗リヤガッテェ――」
怒り狂う雨弓が跡形も無くなった庭園の真ん中で叫んでいる。
けれど、
「もう、それは効かない。君の風は僕に届かない」
何もかも喰い散らかしたはずの暴風が喰い殺せなかったモノがあった。それは夜那城切刃。その表情はとても清々しく、そして笑っていた。
「ナゼダ、ナゼ……オマエハ、確カニ……」
雨弓の能力をまともに受け、そのまま八つ裂きに裂かれたはずだった。だが、そこにいたのは無傷の雨弓だった。
当然、背中に受けた一撃は癒えることはないが、それでも切刃は痛みを忘れたように苦悶の表情を浮かべていない。
「コレ、ナラドウダァッ!」
再び攻撃。
雨弓の右腕に収束された風がピンポイントで切刃に襲い掛かる。そんな凶弾が切刃に向けて放たれているにも関わらず切刃は雨弓の攻撃を躱そうとしない。それどころか表情一つ変える事無く、そんな雨弓の憤怒を前に立ち向かう。
消失した。
だが、それは切刃が今までのように自身の存在を世界から消去るのではない。消えて無くなったのは、そう――雨弓の撃ち出した暴風だった。
切刃の目先で消えた雨弓の異能。何が起こったのか雨弓にはわからなかった。
「何で疑問に思わなかったのかなって……その穴に、無意識に飛び込んでしまったから、だから僕は気がつかなかったんだろうなぁ」
しかし消えてしまった雨弓の異能が再び世界に現れることはなかった。最初から無かったことにされたように、雨弓の暴風は跡形も無く消えてしまった。
「だから、僕は飛翔することを止めた。穴だけを開けることにした……そうして開いたコンマ数秒の洞穴に、君の風を詰め込んだ」
切刃が一歩、雨弓に近付く。
雨弓は一歩、切刃から離れる。
これは何だ。こいつは何だ。一体、何者なのだ。
雨弓の心は猜疑で一杯だった。
先程までいた筈の夜那城切刃とはまるで別人で、傷だらけの身体で、もう何も出来ないはずの、死体のような姿は何処にもない。
「オマエ、ハ、何者ダ!?」
「僕は、僕さ……そして、君を斃す為に此処にいるだけさ」
別次元の穴を開き、そこへ飛び込むことで別の何処かへ飛び出すというのは……切刃の能力を発展させただけだ。
そう、切刃は能力を巧く使い過ぎたのだ。
その穴はこの世とは違う遠い別の世界へ繋げる穴。
切刃の能力は、その穴を開くだけの力。
一秒未満、切刃の身長程の穴を開き、そこに入ることで……転移することが出来る。だが、その穴を開くことが出来るのは切刃だけだ。
闇黒の世界へ飛び込んでしまえば、切刃以外は脱出出来ない。
そんな余りにも危険な世界へ切刃は何度も飛び込んでいたのだ。無知とは罪で、きっと切刃も知っていればそんな使い方をすることは無かっただろう。
だが、切刃は勘違いをしていたのだ。
この能力はただの移動手段。その程度でしかないと。
けれど、本当の能力は有象無象を強制的に呑み込んでしまう力だった。
「決着を、つけよう――」
そして切刃は知ってしまった。この能力の使い方を、その意味を。戦う為の術を手に入れた。迷いは無い。痛覚すら忘れ去り、切刃は再び雨弓と対峙する。
切刃の気迫に無意識に後ずさってしまった雨弓もまたその場に立ち止まり、残った右腕に風を収束させる。
「ソレガドウシタ……ナラバ、オマエノ異能デ呑ミ込メヌホドノ質量ヲブツケレバイイダケダロウゥッッツッ!!」
そして雨弓が掌の上で創造した暴風が再度切刃に襲い掛かった。だがそれは一つではない。幾度と無く枝分かれし、いつしか数え切れぬ数の鋭い風の刃が切刃を切り刻もうと交差を繰り返しながら射出される。
だが、その狂気を孕んだ刃は切刃の目の前で消失を繰り返す。全ての刃がまるで最初からこの世界になかったかのように、一つ残らず切刃の前で消え去った。
切刃が消失し、再び世界に再現される黒き扉。
その扉の開閉を許可された者――夜那城切刃。
一秒未満という時限がありながらも、切刃にとってはあまりにも十分すぎるその時間。雨弓の攻撃はもう切刃には決して届かない。
そして――
「消エ、タ……?」
雨弓の目の前から消えた切刃。どれだけ見渡しても視界に切刃の姿は映らない。雨弓は自身の能力を防御に回したが……思い出す。
その切刃の開く扉は如何なるモノを呑み込み喰い潰す。
風は容易く呑み込まれた。防御に徹する意味が無い――切刃が自身の能力の名を知るまでは、切刃の攻撃など脅威ではなかった。
しかし片腕を呑み込まれ、雨弓は無意識に切刃の能力に恐怖を抱いていた。雨弓を纏っていた風の壁が消え、手の中で巨大な風の球を作り描く。
「ソウ連続デ能力ハ使エナイノダロウ? ……次デ、最期ダッ!」
雨弓も切刃の能力の弱点には気付いている。
出現時まで目蓋を閉じているのと同じ状態であるということ。奇襲をかけたところで、対象が同じ場所にいるとは限らず、そして――連続で次元を転移することは出来ない。一度能力を使用してしまえば、再度使用する為には時間を要する。
切刃が世界に現れた時、それが決着を決める最期の一撃となる。
「こっちだ……」
だが、切刃が現れたのは雨弓の真正面だった。
あまりにも素直すぎるその行動に雨弓は疑うことなく無言のままその手に持つ風の集合体を切刃に向けて放った。
だが、切刃は消えたのだ。
現れたと同時にまた消失。
有り得ない――切刃の能力は確かに世界を飛び越える力。
だが、連続での使用は不可能だった。嘘を吐いていたのか……だが、切刃は幾度として能力の連続使用はしなかった。出来なかった筈だ。どうしれ――
「消えていない、からさ……」
背後から声。
そして振り替えれば、切刃は鋭い眼光を放ちながら雨弓を睨みつけている。
「消えたように思ったか? 君が滅茶苦茶に攻撃したその風を消したと同時に僕も消えただけだ……全てを呑み込む扉を開く、けれど、僕だけはもう一度この世界に帰って来れる。君とは違う……僕の能力は君の能力を呑み込んで消した、そして同時に僕の存在も消しただけだ」
そして単純に真上から落ちて来たのだ。着地点は雨弓の真正面。
能力の連続使用は確かに不可能だった。どれだけ能力を行使しようとしても、切刃は使えない。だが、わずか十秒前後で能力の使用が可能になる。
ならば雨弓の攻撃を躱し、同時に自身も消え――再度、世界に召喚されても連続で能力を使用しているように見せるにはどうすればいいか。
単純に着地点を雨弓の真上にしたのだ。そうすることで出現から着地するまでに時間を稼ぐことが出来る。
着地、雨弓に発見、そして攻撃……この間にすでに十秒以上は経過していた。
雨弓の攻撃はこうして再び回避され、切刃は消失し、雨弓の背後を取った。
だが雨弓の攻撃を躱したところで、切刃は雨弓を屠る一撃を持っていない。一撃必殺であろう切刃の能力は回避した時点で使用が出来ない。
「オレノ攻撃ヲ……回避シタノハ、驚イタ――マンマト騙サレタ……ダガ、コチラノホウガ疾イッ!!」
十秒未満、雨弓の風は再び収束している。そして密着した状態、回避は不可能。
「いや、僕の方が疾い――」
切刃の義手の手首が畳まれ、そこから真っ黒な砲身が飛び出していた。
「切り札は、最後まで取っておくモノだよ……」
「ヤ、ナァアアアアアアアアァアァギッィイイイイイイイイイイイッ!!」
雨弓の慟哭は切刃には届かない。
そして切刃の腕から飛び出した砲身が大きな火を噴き上げる。
「――これが、僕の最後の一撃だ……」
巨大な炎を上げ、そして雨弓の半身が吹き飛び、物質を壊し尽くし、終に音が止んだ。
切刃の義手に隠していた大砲。
あまりの威力に切刃の義手は大破し、もうその腕が使い物にならなくなっていた。反動があまりにも大きく、その反動は切刃の身体を吹き飛ばし、地面に転がっていた。もう動かない。
雨弓は下半身が消滅し、もうピクリとも動かなかった。
切刃はなんとか意識を保っていたが、もう一歩も動けない。
だが、切刃は勝利した。
雨弓は自身の能力を防御から攻撃へ移行していた……間に合わなかったのだ。切刃の腕の中に砲身が隠されていたことに気付かなかった。
そして切刃の最後の一撃を防ぐことが出来なかった。
「さすがに、もう、動けないね……」
義手は木っ端微塵に砕け散り、流れた血はやはり止まらない。
意識が薄くなっていくのがわかる。
(雪哉……約束、守れ、そうに――)
鉄屑と化した雨弓はそのまま端でピクリとも動かず、そして切刃もまた指先一本すら動かせない状態。
雨弓は憎悪の権化だった。
人ではない、けれど家族であった結晶を殺した雪哉に復讐する為に自分自身の存在すらも歪めて、こうして再び敵として現れた。
それはきっと切刃のもう一つの未来だったのかもしれない。
復讐に全てを捧げてしまっていたのなら、もしかしたら切刃もまた雨弓のように機械の身体と変貌し、憎悪だけを抱えて歩いてしまっていたのかもしれない。
寒い。
身体は冷たくなっていく。もう何も考えられない。
それでも意識が途絶える最後の最期まで、切刃は――雪哉と、逢離のことを――