3-17 bad [a]nd happy [e]nd(6)
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「気色の悪い目じゃ」
それが「月下虹子」と名乗った時任理愛に向けて放たれた夜那城切歌の言葉だった。
これは時任理愛ではない。これは月下虹子だ。だが切歌がそれを知っているわけがない。それでも瞳の色が明らかに変化していることには気付いている。
銀であったその瞳の色は、今や赤にも黄にも青にも変色する。銀と同様に異質なその眼を前にして切歌は不快な視線を浮かべ、逸らすことなく理愛――いや、虹子を睨む。
「しかし月下、虹子……とはの。どうして時任理愛の身体の中にいるのかは訊かん。中身などどうでもよいのでの」
「ああ、はいはい、ちょっとごめんね」
虹子は切歌の言葉を聞くこともせずにそのまますり抜けていく。そして噴水に近付き、水面に顔を浸けたまま動かない藍園逢離を救出する。
「なんでこいつこんなことしてんの? 死にたがりなら勝手に溺れればいいと思うけどさぁ……まぁ、これで理愛の約束は果たしたからもういいかな」
理愛の約束通り、逢離を助けることは出来た。
だが逢離の生死の確認はしない。この状況から逢離を助け出すということが目的なだけであってそれ以上のことは虹子には関係なかった。そしてそのまま逢離の身体を抱えて歩き出した。
「お主、無視するのかえ?」
「無視も何も、ワタシは関係ないもん。この子助けてそのままドロンさせてもらおうと思ったんだけどダメ?」
「中身は関係ない――そう言ったはずじゃが?」
「もう……やっぱそうなるよねぇ」
虹子はそのまま逢離の身体をさっきまで自分が横たわっていた長椅子の上へ。そして振り向いて切歌と対峙する。
(藍園逢離ねぇ……ワタシが理愛にちょっかい出してた時は同じクラスだった割に何もしてこなかったなぁ。確かにちょくちょく見られてる気はしてたけどさ)
背が高かった女生徒が理愛のクラスにいたのは知っていた。だが虹子が理愛に声を掛け、執拗に追い回していた時、逢離は何一つ行動を示すことはなかった。それもそうだ。その時はまだ逢離は理愛を監視していただけだった。逢離が本格的に理愛に興味を抱いたのは虹子が消失したその後だったから。
(こんなウドの大木のどこがいいのかは理愛の勝手だけど、ともかく理愛の言うとおりにしたんだしこのままどこか遠くに逃げるってのもアリかなー)
約束は果たされ、虹子は自分の目的を果たそうとしていた。自由になる。自分で行動し、自分の意思で前へ進む。それが再び叶うのだ。それなのに、それを遮る敵がいる。そして向けられる敵意。逃げることは出来ない。
「ってか……なんでワタシが戦うことになってんのさ?」
自業自得。自分が蒔いた種。選んだのは虹子だった。
あのまま理愛を行かせていればこんなことにはならなかった。
だが、それではまた自分は理愛の中で閉じ込められたままだ。それだけは耐えられない。自由であることを望む虹子にとって束縛は地獄と同じだ。
そこに理由は無い。目的も無かった。ただ大きく手を広げて、自分の足で地面を踏み締めて、どこでもいい……ただどこまでも歩いて行くことだけが出来れば、なんて――
(望んで、結局失って、壊れて、まだこうして生かされて、ワタシ何やってんだろ?)
虹子は自虐的に笑う。
もう自由なんて、ここにはない。この時間もすぐに消えて失われる。
足掻いただけに過ぎない。最後は同情にも近い感情で理愛は虹子に身体を譲り渡しただけだった。
だから今、こうしてこの地に存在していたとしてもこうして存命していられる時間はすぐに終わってしまうのかもしれない。それでも少しだけでもこの世界の地を歩みたかった。
「ここで殺されると理愛に一生恨まれるくさいんで、それだけは勘弁ならないし、とりあえずかかって来いよ……赤服ロリババア」
虹子は構えない。ただ棒立ちのまま切歌を煽った。切歌の眉が一瞬だけ動いた。静かな怒りがその心を揺るがす。切歌が動く。虹子は未だ動かない。
(ああ、くそっ……ワタシって強かったはずなんだけどなぁ――)
動く必要は無い。
無敵だったのだから。
触れた者が勝手に傷ついて、勝手に壊れていく異能。
しかしそれだけの力を持ってしても虹子は一度敗れている。その敗北が虹子自身の自信を喪失させ、臆病に身体を強張らせている。
「どうしたんじゃ? 急に黙り込んで」
急に様子がおかしくなった虹子を前に切歌は攻撃をすることを止め、目の前でそう問い掛ける。
「あー、やっぱダメだぁ!」
切歌の問いに無視したまま、虹子は叫んだ。
理解る。
使えないのだ。自分自身の強大な力が発動しない。まだ切歌は虹子に触れていない。虹子もまた切歌には触れてはいない。けれど、解ってしまう。
月下虹子の花晶としての能力は完全に使用不可能だった。
何故、使えないのか……阻害されている。
使用したくても、どこかでまるで遮断されるように能力の使用が許可されない。
こんなことは初めてだ。
結晶としての異能はもはや生きる者の機能の一部だ。呼吸するのと同じ。頭で思い浮かべ、身体で感じながら、動かすだけでいい。
だからそれ以上の説明は出来ない。息をするように、それが出来る。他でもない結晶の頂点に立つ存在である花晶ならば尚更だ。
だが、それが出来ない。どうすればよかったのか。何もわからない。よって、ここにいる理愛の身体を借りているだけの虹子はただの小娘でしかない。
「あー、さっきの挑発なかったことにしてくんない?」
虹子は頼み込むように両手を合わせて祈るようにして切歌に言った。だが切歌の視線は冷たいままだ。まるで汚物を見るように嫌悪感を露わにして虹子を睨んでいる。
「お主は時任理愛ではないんじゃろう? だったら時任理愛は何処にいる?」
「ワタシん中」
そうやって自分の胸の中心を親指で押さえた。だが冗談ではない。これは本当のことだ。交換したのだ。自分と理愛の立ち位置を入れ替えた。あの真っ白で真っ黒な不可解な空間に永劫孤独のまま存在しなければならないという心の煉獄に今は理愛がいる。
「と、いうことは別にお前さんを殺しても時任理愛も死ぬってことなんじゃろう?」
「うーん、多分そうなるのかな。器が無ければ水は注げないしね」
水は命。理愛の魂を水に置き換えて、それを注ぐ物がこの身体だとすれば、身体を破壊されてしまえばそのまま水は零れ落ちていくだけだ。注ぐ物を失うということはそのまま死ぬということに違いない。
「なるほどのぉ、だが、私の目的はやっぱり時任理愛なんじゃ。お主を殺してもきっと果たせるんじゃろうけど、それでも復讐を果たせたかどうかとなると、何か違う気がしての」
「何? そんなに理愛のこと嫌い? 殺したいほど憎いとか?」
「その通りじゃ。悪いが無関係のお主にこれ以上話すことはない。さっさと消えて時任理愛を出せ」
「残念、ワタシ一応理愛と約束してるんで。死ぬわけにはいかないんだよ。ただこのままだとヤバいなぁ……」
能力は使えない。全くこんな状態ですら立ち向かってきた理愛とその兄の精神の異常さをまた痛感し、今度は自分がそんな状態になっているという事実をただただ受け止めることしか出来なかった。
どうすればいい。何が出来る。何も出来ない? そんなことは、ない。
思い知らされたはずだ。何も無い、何も出来ない、何一つ力の無い少年に打ち負かされたことを。
「仕方がない……ギリギリまで壊して、本命を引き摺りさせてもらおうかの」
「あんまりワタシのこと舐めないでよねぇ? そういうのなんかムカツクし」
異能の無い小娘だと上目から見下ろされているのが気に食わない。まるで目の前にいるこの少女は自分が理愛と敵対した時の自分自身のような気がして。確かにこんな風に見下していたなと――そして納得する。これは負けたくない、と。
「いや、もういい。終わらせるんでな」
「はぁ? 余裕ですか? まぁ、余裕なんだろうね」
「いや、お主のことは知ってる。月下虹子――時任雪哉に敗れた花晶。能力も無敵だったはずじゃが、まさか負けるとはの」
「ワタシのこと知ったんだ」
「知ってるも何も、見ておったからの。今日という日までずっと、ずっとお主らのことは見ておった。この場合はお主ではなく、時任理愛をじゃがな」
虹子はわざとらしく舌を打った。
全く気が付かなかった。いや、虹子自身を監視していたわけじゃなかったのだから気が付くはずがないのだが。
「話は知ってる。それで、時任理愛を殺すってことも、憎んでることも、それホント?」
「奪われたモノは取り戻せない。なら奪ったモノを縊り殺したい。当然のことじゃが?」
「おーこわっ。それでぶっ殺されるわけだ。やられたらやり返すの精神で殺しに来るわけだ。やってられるか」
付き合いきれない。一方的な殺戮を受け止めるこちらの身にもなって欲しい。こんなイカれた小さな殺戮者と戦いたくはない。これは時任兄妹とはまた違った壊れっぷりだ。
「別にいい。もう終わった――」
そして切歌は天に手を掲げ、ゆっくりとその手を胸へ。
息を吸い込み、次に吐き出したのは「歌」だった。
夕焼けは沈み、空には闇黒が広がっている。夜が始まった。
そしてその夜天の下で、赤き歌謳いが声を上げる。
「この、歌は……?」
虹子は耳を塞いだ。この歌を聴いてはいけない。この歌を覚えてはいけない。
脳内で響きだすその歌は虹子の心を蝕んでいく。
視線が合う。切歌は歌を謳うことを止めた。そして――
「謳え、聴け――」
再び、歌を謳う。
その歌声を聴いた途端、虹子の身体は動かなくなった。違う。頭の中では動けと命令しているはずなのだ。それなのに身体が言うことを聞いてくれないような……起きたまま、立ったまま金縛りなんて笑えない。
「ど、どうなってんの?」
切歌は答えない。ただ歌を謳う。没頭する。世界の中心で彼女は高らかに謳う。狂気を纏ったまま、憎悪を孕んだまま、虹子を時任理愛の身体ごと破壊するかのように、鋭い眼光で射抜かれる。
恐怖、だった――
今まで感じたことの無い感情。
それは三度目の恐怖だ。
一度目はこの世界に生れ落ちた時。結晶の牢獄から抜け出せても、右も左もわからないまま大きくて広い世界でただ呆然と立ち尽くしたことだ。そのままArkに拾われて、言われたとおりに何でもやった。
そのまま二度目の恐怖がやって来たのだが、あれは確か……「あの男」だったな。片腕が結晶だった、あのおぞましい男だった。妹の為だけに動き、妹の為だけに死のうとする、あの狂った男だった。そんな男を前に生まれて初めて怖いという感情を抱いた。
無敵の壁を突き抜けて、拳を頬を殴りつけられた。自信も何もかもをぶち壊されて、気が付けば身体も崩壊して、理愛の中で生かされていた。
そして何とかここまで来れたけど、まさかまたこんな恐ろしい想いをすることになる、なんて――
ピタリ、と……歌は止んだ。
そして切歌はスっと手を懐へ。
「な、なにそれ?」
身体は動かなかったが、声は出せるようだ。
そんなことよりも切歌が懐から取り出した刃渡りは優に三十センチは超えるであろう短剣に目が行ってしまう。
「サバイバルナイフじゃ」
「いや、そうなんだろうけどさぁ……その格好にそれは似つかないよ。あと危ないよ。しまってくれない? それ何に使うのかなぁ?」
「何、簡単なことじゃよ……お主の心の臓腑でも抉り出そうと思っての」
平坦と言い放つ切歌の言葉を聞いた虹子の背筋に悪寒が走った。額から冷たい汗が伝った。今すぐにでもこの場から逃げろと警鐘を鳴らして――
(あれ?)
虹子は不思議に思った。ピクリと指が動いた。動けるのか?
だが身体を大きく動かすことは出来ない。しかし先程のように完全に身体が石のように硬直したわけではない。どういうことだ?
「即死ねるように一撃で終わらせたいんじゃ。抵抗はせんでくれよ?」
「いや、いやいやいや……」
冗談じゃない。
あんな質量の刃を深々と身体に突き刺されてしまえば、簡単に死ねるのではないか?
どこに刺さっても死ねるような気がしてしまう。余りの痛みで勝手にショック死しそうだ。そんなものは嫌だ。虹子の能力は嫌悪によって浮き上がる心の壁だった。
触れるより先にその壁は遮り、そしてその壁で押し返す。そうすることで接触せずに勝利を繰り返してきた。
切歌の持つナイフも、本来ならば何も恐れることはない。勝手に攻撃して、勝手に反撃して勝手に自滅してくれるはずなのだ。だが、今の虹子にはその能力がない。
呆気なく銀の刃が心臓に刺さり、そのまま息絶えることだろう。
しかし虹子には心臓というものはない。だが、心臓の位置にあるのは花晶だ。人の形をした結晶の本体がそこにある。そこに凶刃を突き立てられれば、身体を維持することは出来ない。そして待っているのは結晶としての死である。生きる者と同じように、ただ摂理に逆らうことなく死に絶える。
そして再び歌が始まる。切歌と目が合うだけで、まるで蛇に睨まれた蛙のように身体は動かない。未知の能力を前に対応することも出来ず、そして能力を使用できない苛立ちから……もはや虹子の心は限界だった。
「畜生、畜生、畜生が……いつものワタシはどこいったんだよぉ! いつもどおりワタシの思い通りに話進めよ! どいつもこいつもぉ、ワタシのぉ、邪魔をしやがってぇ!」
絶対の終わりを前に、虹子は叫ぶ。どう足掻いてもこれでは勝てない。
これまでは何もせずに、ただ待つだけでよかった。触れられただけで敵は勝手に滅んで逝った。
(夜那城切歌の能力って何? 種晶にそんなのものがあるっていうの?)
結晶が与える能力の数は星の海ほどに存在する。
相手の動きを封じる能力だってあってもおかしくはない。
だが、いくらなんでもそんな能力は凶悪すぎる。何も出来ずにただ敗北するしかない。
しかし、今は敵の能力を考察する余裕はない。兇刃は確実に虹子に接近する。
(ワタシ……何やってんだろ。カッコつけて、調子乗って、理愛の身体借りて、こんなとこまで来て、結局何もできてないじゃん――)
自分自身がいかに無力かということを思い知らされる。
無能力者ではなかった。それどころか花晶という有能力者の中でも選ばれた最強の一人だったはずだ。
どうして、こんなにも弱くなってしまった?
心が、脆くなってしまった。
ああ、そうだ……そうだった――
「ワタシに、居場所、くれたから……」
小さく呟く。切歌はただ謳い続ける。そしてその刃はもう虹子のすぐ側まで近付いている。
「一方的で、そこにワタシはなかったから……でも、ああ、殺されたくせに、ワタシって単純なんだな」
ふと、脳裏に浮かんだのは銀の少女のことだった。
何も知らず、どこか人とは違うそんな逸脱れた少女は、自分自身のことすらも知らず、そのまま結晶だと。人間ではないと。そんな事実を突きつけられて、それでも兄と歩み、妨害を排除し、生きている。
そんな強い少女の中に自分がいるという。そんな強い少女がこんな自分のことしか考えられない弱い存在に身体まで貸し与えて、大切な者を守ろうとする。
「居過ぎたせいだな。理愛の考えてることは大体わかったし、今だって死にたくないって……声も聞こえる……」
理愛には生きる目的があるから。それは大層なことではない。ただ兄と最後の最期まで生きるという、生存の意思。このまま切歌の兇刃を受けてしまえば、それは達成できない。
「どうにかしろワタシ、ワタシを殺したヤツがワタシに身体を与えてもう一度生かしてくれてんだぞ。諦めろワタシ、ワタシはもう理愛の一部なんだ。さっさと受け入れて、さっさとこの状況なんとかしろよ!」
所詮は子供の駄々と変わりない。死んだのに、もう時間は止まってしまったのに、何もかも終わってしまっているのに、それなのにこうして息をして、景色を見つめることも出来て、手や足を動かせるという事実が、死を否定してしまっていた。
自分はまだ生きているじゃないか。考えることだってできる、なのに、なのに――
それは誰かに与えられたモノであって、もう自分のものではないのだから。それはきっと仮初め。贋物の命はやはりどう足掻いても本物にはなれない。
それでも砕けた結晶を吸ってしまったのは理愛だろう。理愛を呪っても憎んでもそれは仕方がないことだ。あのまま殺してくれていればこんなに思い悩むこともなかっただろう。寧ろそんな感情を抱くこともなく、きっとそのまま地獄に堕ちていただけだ。
「ワタシが理愛の中で見ていたように、きっと理愛も見てるんでしょう? だったらさっさと何とかしてよ! 元のワタシに戻してよぉ!」
胸に手を置いて、そのまま自分の胸倉を掴んで訴えかけるように声を上げた。だが、理愛の声は聞こえない。それもそうだ。夢の中でしか話し合うことなんて出来なかった。これは理愛の身体だというのに、その中にいる理愛は、一体何をしているというのだ?
「わかった、わかったよ、わかりましたよ! ワタシの心が脆いのがいけないんだろう? ワタシの感情が弱いのがダメなんだろう? だったらやってやるっ! ワタシは、ワタシは最強の花晶なんだ。誰もワタシには触れられない。ワタシの壁は絶対無敵ぃ! だからぁ――」
どれだけ喚いても、声を張っても、それでも身体はピクリとも動かない。そして歌を謳い続ける切歌が、終に虹子の目先に立っていた。それは、兇刃がこの無防備な身体に届くという意味だ。
「いつだって――虹壁は全てを遠ざける」
そして、歌が謳い終わるのと同時に虹子の身体に向けてその銀色の光沢を見せる刃は振り下ろされる。
振り下ろされた。それはきっと虹子の胸元に向けて突き立てられた筈だ。
しかし、その次に起こったのは、切歌の振り下ろしたナイフは虹子の肉を突き破らずに、その刀身だけが粉々に砕けて消えたのである。
歌が、止んだ。
突然起こった不可解な現象にさすがの切歌も余裕を持って謳うことは出来なかった。砕け散った刀身、刃の無い柄は既にナイフとしての機能を完全に奪われてしまっている。切歌は苛立ちを隠し切れず、闇雲にそのナイフだったものを地面に叩きつけた。
「わかったことが、三つある――」
無気力なまま虹子は三本の指を立てる。
「その歌は生命を操る。その歌は必ず聴こえる。その歌は目を合わせなければ意味がない……それが、アンタの能力かな?」
歌を聴いただけで身体が突然動かなくなったわけではない。それは切歌と目を合わせた途端に発動した。耳を塞いでも歌は聴こえる。心に直接訴えかけるように……絶対に逃れることは出来ない。
「……月下虹子、お主の力は知っている。」
それもそうだ。藍園逢離に時任理愛を監視させていたと言っていたのだ。時任兄妹と虹子が戦ったあの時もまた監視していた。その時に能力は既に把握している。
触れれば壊れるという出鱈目。
だが能力は使えないと言っていた。あまりにも焦燥してはずだ。しかし突然能力は発動した。切歌の持っていた刃が壊れている。触れれば接触者そのものが壊れるはずだ。しかし壊れたのは武器のみ。
まだ完全に能力が使えるわけではないか、それともなんらかの制限が掛かっているのかまでは切歌は判断できない。しかし危険ということに変わりは無い。触れることはできない。
「じゃあお構いなくこちらから触ってあげようかな? 天国まで吹っ飛ばしてあげるよ?」
「そんな馬鹿げた能力で触れられて堪るものかえ」
「それならワタシをまたその下手糞な歌で操って、藍園逢離みたく噴水に顔を突っ込んで溺死させちゃう? それとも屋上まで歩かせて墜落死させる? 多分どっちでも死ねないと思うけどね」
水中に触れても、地上に落下しても触れればそれが壊れるだけだ。水を弾き返すか、地面に穴を掘るだけだ。物理で殺すことは不可能。
「でももう無理だよね。アンタの能力の攻略法はわかったっぽいんだよねぇ~」
そして虹子は笑った。能力が使える時点で虹子は無敵だ。
「何を愚かな……」
そして切歌は謳う。
「こうやってさぁー」
謳う。
それは心を蝕む歌。
「アンタの能力はいまいちまだわかってないけどさ、目を合わせないとって言って否定しない時点でダメじゃん?」
歌は耳に響く、頭の中で延々と聴こえ続ける。
歌は響く。しかし歌が何だ……そう、虹子は目を瞑ったのだ。
「何を、やっておる?」
さすがに虹子の行為に切歌は謳うことを止めて、問い掛けた。
「目を瞑れば効果無いんでしょ? だったらこうやって目を瞑って、合わせなけりゃ無問題。違う?」
「正解じゃよ。バレとるなら隠しても意味ないしの。その通りじゃ、ワシの能力は目を合わせなければ意味はない……ないが――」
それではどうしようもないではないか、とは言わなかった。
どうせこちらから何をしても虹子を殺すことは出来ない。
核弾頭でも殺せない防御壁を搭載している少女を殺し切ることは不可能だ。だから何もしない――が、一番だ。
「しょうがない、ここは一旦引いて……切刃と合流した方が良さそうじゃの」
切歌から出た言葉を虹子は聞き逃さなかった。
それは切歌の兄の名前だった。
「やっぱアンタの兄貴もってわけね……」
下唇を噛み締める。
どいつもこいつも、と心の中で呟く。
いつだって「兄」だ。虹子にも偽の兄がいた。そして無能力者の兄に敗れた。
そしてまた、こんなところで兄の名が出る。
「行かせないから」
「目を瞑ってどうするんじゃ? 確かにお主をどうこうできんが、私をどうにかすることも出来んじゃろう」
「ぐぬぬ……」
わざとらしく憎らしい顔を浮かべる虹子。
しかしその通りだった。虹子の能力がある限り、物理的に操られても殺せない。
「でもさ……」
不可解なことがある。
「首を絞めるとかあるのになんでそれはしないわけ? さすがにそれだと死ぬと思うんだけどなぁ……」
自害させるならもっと早い方法がある。
それを水に顔を浸けて溺れさせたり、ただ動かなくさせて結局は自分の手で殺すとか、とにかく効率が悪すぎる。
完全に操ることが出来るのならば、勝手に殺せばいいのだ。しかしそれが出来ない理由がある?
切歌は何も言わなかった。そのことに関しては話すことなどないかのように黙殺し、そのまま背中を向けた。しかし虹子は目を瞑っているので虹子の様子はわからない。
「それじゃあの、ワタシの変わりにコイツらに任せることにするかの」
そのまま切歌は後ろへ下がる。
虹子はゆっくり半目だけ開く。ここで切歌と目を合わせるわけにはいかないのだが、足音が遠ざかっていくのはわかった。このままでは状況は変えられない。意を決して瞳を開く。すると、そこには――
「どういうことよ……」
さっきまで無人だった広場に人が溢れ返っていた。
そして広場の向こうから声が聞こえる。
「こいつらも敵ならば殺すかえ? ここにいる人間は全くの無関係なんじゃがな、お主の邪魔をするならば一人残らず肉塊にすればいい」
見渡す限りの人だが、どれもこれも買い物に来ていた客たちだろう。まるで何かに操られているように死屍のようにふらつきながらやって来る。
そんな屍のような人だかりの合間を潜り抜けながら、背中を向けて切歌は口を開く。
「じゃあの、同類――」
切歌の声はもう聞こえない。そして虹子を取り囲むように人たちが呆然と立ち尽くしている。これほど複数の人を操るのも可能なのか。これも切歌の能力によるものなのか?
だが問題ない。虹子は、問題ない。
虹子の能力があれば何の問題もない。それでも、虹子だけだ。
切歌の言った通りに実行すればいいだけのことだ。邪魔をするなら肉の塊に変えてやればいいだけのこと。そして虹子の能力を使えば――……
「……使えば?」
使えばどうなる?
能力を使えばどうにでもなる。しかし触れた相手は、どうなるか?
さっきは能力がまだ上手く使えなかったからこそ切歌のナイフを破壊しただけだ。だが本来の能力の強さは、その接触者を壊すまで吹き飛ばす。
「使えば、いいじゃん。敵、なんでしょ?」
誰に対してそんな問いを投げかけているのか。
自問自答する虹子に答えは返ってこない。今まで、そんなことを思ったことは無い。傷付けられるならその前に壊せばいい。
どうしてこんな感情が生まれる。きっと理愛の中で長く居たせいだ。自分の大切なモノだけを守りたい。偽善かもしれない。無関係の人を傷付けることは、出来ない。
けれど、これ以上はどうしようも出来ない。自分がここにいては誰彼構わず壊してしまう。
「やっぱワタシじゃどうしようもない、ね」
それは諦めではない。
自由であることを諦めたわけではない。存在自体は変貌してしまった。もうこの心も何もかもが別物だということもわかっている。
だけど、それでもこの地に自分の足でもう一度歩くことを、望んでいる。そのためには今、この状況をどうにかしなければいけない。そうしなければ夢を抱くこともできない。
自分ではこれ以上どうにもできない。触れれば壊してしまう。ならば、彼女に……返すしかない。
「見てんでしょ? そろそろいいんじゃない? ワタシが震え上がって、泣きそうになってるのをそこから見て笑ってたんでしょ? もういいんじゃない? ワタシの身体じゃないんだも」
自分の胸に手を当てる。するとどうだろう、あの不気味な微笑みを浮かべる銀の少女の姿が思い浮かぶ。
『いいの?』
「いいの。このままだとワタシ周りの人ら肉にしちゃうよ?」
ふと急激な眠気が虹子を襲った。それと同時に自分が誰かに引っ張られるような錯覚に陥った。自分の身体ではないように……いや、これは自分の身体ではない。そう、この身体は――
そのまま、虹子の視界は黒く染まる。
周囲の人たちはただ無言のままゆっくりと虹子に近付いてくる。
「全く、最初……貴女が花晶の異能を使わなかったのには驚いたわ。このまま死んじゃうのか思ったもの、でもね……」
クスリと口元を歪めて、
「信じていたわ。貴女なら、どうにかしてくれるってね」
笑いながら、淡白にそう言い放ったのは――虹子ではなく、理愛だった。
銀髪も、身体も何もかも変わりはない。だが、両目は銀色に煌いて……に虹色の輝きはもうそこには無かった。
「虹子、貴女は優しすぎるわ。変わり果てて驚いているわ……」
理愛はそのまま椅子の上で眠る逢離にそっと手を触れる。
「息が……」
逢離の呼吸は止まっている。長時間、噴水に顔を浸けられて大量の水を飲んでいる。このままでは、このままでは……
「ただ虹子、出来れば逢離をちゃんと助けて欲しかったわ」
自分自身もそこまで逢離に気が回らなかった。助けることだけしか頭になかった。
切歌の歌によって操られた人たちが一斉に理愛に向かって走り出した。
「わたしの友達が動かないんです、静粛になさい。殺しますよ――」
夥しい殺意を放出させたまま理愛は世界を見渡す。そこには悩むことも迷うこともない真っ直ぐな視線に周囲の木偶と化した人々は操られてるはずだというのに本能が理愛に接近することを躊躇っている。
「虹子がやけに優しくなったことには驚きです。ヒトは変われるんですね、それを彼女に教えてもらった気がします……わたしはやっぱり最低なままですが……」
そのまま身を屈め、逢離の顔に自分の顔をソっと近づける。
「わたしはやっぱり貴女と兄さんと……あと、まぁ、そのなんといいますか……虹子は大事ですから、だから助けたいんです」
自分はついでかと心の中で文句を言う虹子の姿が思い浮かんだがそこは無視をして、ふと逢離の顔を見つめる。
「さっさと戻って来なさい……このまま死なれては、わたしが困るの――」
さっきまで強い意志を見せていた理愛はどこか戸惑いながら、逢離の口にそっと自分の口を重ねた。
だが、それは暦とした蘇生法である人工呼吸だ。生まれて初めてする行為に責任を取らなければならない。これは冗談でもなんでもない。立派な人命救助。
肺に気体を送り込むといっても、正解はわからない。
とにかく力強く送ることはしないほうがいいと思った。
かといって弱すぎれば意味が無い……気がした。
わからない。
正解はどれだ。
もっと正直な話をすれば、大量に飲み込んだ水を吐き出させる行為としてこの選択が正しいのかさえわからない。
漫画やアニメのようにいくとは思えない。奇跡が自分の好きなタイミングで起こるのならそんなものは奇跡ではない。
それでも理愛は願った。おこがましくもただひたすらに逢離の無事を祈る。胸元に手を置き、何度も押し続けた。
「貴女はわたしの友達では、なかったのかしら……」
暗がりの世界から逢離のことは聞いてしまった。
切歌と逢離の会話を夢の世界から聞いていた理愛はもう全て知ってしまった。
それでも、それは過去でしかない。
「過去なんていらない、わたしが欲しいのは現在と未来よ、それを手に入れるには……逢離がいるの、だから――」
もう一度、唇を重ねる。
「戻って、来なさい。貴女を孤独にする前にわたしが引っ張り戻して、やるんだから……」
それはきっと自分自身にも投げ掛けた言葉だった。独りは嫌だ。大切なヒトを喪いたくない。この小さな世界を、どうにかしてでも守り抜きたい。
時間が、過ぎる。
音は聞こえない。
理愛の手が止まる。
この手じゃ、こんな小さな、弱い手じゃ、自分の大事なヒトも守れないのか?
「逢離っ!」
心臓の辺りだったろうか……握った拳で、思いっきり叩いてしまった。
心肺蘇生としての行為ではなく、苛立ちによる暴力だ。それを逢離に浴びせていいのだろうか? 最低の行為だ。
「ごめん、逢離……」
その謝罪はきっと聞こえない。もう、逢離の耳に理愛の叫びは届かない。
そっと手を握った。そっと頬に手を触れた。喪失してしまう。このままでは、理愛の大事なモノが、消えて無くなる。
だが、ピクリと……逢離の指が動いた気がした。
そんなものはきっと自分が描いた幻想だと、勘違いだと思いたくても、それに縋っている理愛がいる。生きている。生きていて欲しい。死なないで――
「がはっ、ごほっ、ゴホッ!」
口元から体内に溜まっていた水を垂らしながら、ゆっくりと逢離は瞳を開く。虚ろげな眼には生気が灯っておらず、光を失ったかのような闇黒がその両目に広がっている。
理愛の身体が震えてた。叶った。自分の思い描いたタイミングで、逢離が戻ってきた。奇跡とはいえない。こんなものは奇跡なんかじゃない。起きないことを奇跡と誰かが言うのなら、これは願望だ。高望みした叶いもしない願いが勝手に叶っただけに過ぎない。
「あ、ああ……り、あ?」
覇気の無い声で逢離は理愛の名前を呼ぶ。
理愛はそっとその手を取り、強く握り締める。
「ええ、わたしよ逢離……おはよう、気分はどうかしら?」
「さ、さいあく……」
「そうね、その通りだわ。貴女、死に掛けてたもの。でもわたしも最悪なのよ、貴女が死んだらどうしようかって不安だったんだから」
歓喜に胸を躍らせ、今にも踊り出したかった。それなのに今の理愛はどこか冷静だった。
「でも、あたし……やっぱり一人の、ほうが……」
それは理愛に対して行っていた裏切りのことだろうか。
今更になって罪の意識が芽生えているというのなら、そんな都合、理愛にとってはどうでもいい話だ。
だから、ぎゅっと強く、強く、手を握る。
そこに優しさなんてものは無かった。理愛の五指の爪が逢離の指先に食い込むほどに強く握り締められる。
圧迫された痛みが逢離を襲う。だが、その痛みは生きている証拠でもある。生きている。痛感する。それは二つの意味。物理的な、精神的な、二つの痛みが同時に襲う。
「だって、理愛ぁ……あたしぃ……あたしは、理愛をぉ……」
「それで独りになりたいの? 嘘を、吐いていたから? だったらそんなのさせない――なりたくても、なれないわ。どこにも行かせない。わたしが、追いかけるもの」
「り、りあぁ……」
そのまま包んでいた手を離し、小さな身体いっぱいに逢離を抱き締める。
ただ抱き締めて、離さない。小さすぎる理愛の身体では許容量を超えた逢離の身体を包み込むことは不可能だった。だから理愛は逢離の顔を見ることはできない。しかし逢離の両目には溢れんばかりの大粒の涙が零れ落ちていることだけはわかった。
「情けない子、可哀想な子、何者かわからない……生き物なのかすらわからないわたしを求めて、そんなわたしは貴女の大切な者を奪っているかもしれないのに、それなのに、わたしを裏切らない優しい子――そんなわたしは貴女ならこの命あげてもいいわ。真実を知った時、貴女はわたしを、好きにしなさい」
「りあ、りあぁ……あたし、あたしはぁ……」
「何をそんなに泣いているの? 「よくも騙したわね、一生許さない」――そう言えば満足かしら? ごめんなさいね、わたし自分が気に入ったものはボロボロになるまで大切にして上げたくなるの。だからこう言うわ。「本当のこと教えてくれて、ありがとう」よ。わかったかしら? 諦めなさい、貴女が壊れるまでずっと一緒に、一緒にいてあげる」
理愛が一瞬だけ兵隊の群れのような人々の向こう側に立つ切歌を見た。一秒にも満たない時間だった。絶対に目を合わせようとはしない。
切歌はその場で動かず、大袈裟に両手を広げ、声を上げる。
「これはこれは、結晶の怪物。よくもまぁ、いけしゃあしゃあと言ってくれるものよ。自分の気に入らないものは殺すのかえ?」
「わたしは、わたしがわからない。貴女の家族を殺したのかもわからないの。だからわたしが何者か、教えてくれませんか?」
「教えてやるとも。お主は結晶。ヒトの皮を被った怪物。おぞましい異能を秘めた化物。それだけで十分じゃろう? 怪物は壊すことだけ考えておれ。大事なモノ? そんなもの破壊者が所持することは許されないっ!」
「そう、じゃあ貴女はわたしのこと……全部は知らないのね」
「知らぬさ。知っていたところで話す気もない。本当のことを言えば知りとうなかったと言うべきかの。殺す相手には、憎悪と怨嗟だけ抱けばいいと思っておる。だから知っておるのは、お主は私たちの家族を殺し、兄を壊し、私たちを狂わせた。敵は殺す、それだけじゃ――」
「貴女のことがどうでもいいわ。でもその前の台詞だけは正論だわ。それ、すごくいいですね。敵には容赦はしない。ましてや略奪した相手なら尚更、ね?」
「怪物の割には話がわかる。さて、おしゃべりはこのぐらいにして、殺し合いをしてくれぬかのぉ?」
「いいわ、かかってきなさい……ああ、でも一つだけ言わせて――」
理愛は一切、切歌とは目を合わせることなく唾を吐き捨てるように負の感情だけを垂れ流したまま、
「わたしは、貴女が大嫌いです」
「私もじゃ、お主は嫌悪の塊じゃ」
一斉に切歌が操る住民達が理愛と逢離に襲い掛かる。まるで人の波だ。肉の海だ。四方八方から迫り来る壁にこんな矮躯では到底立ち向かえない。
どれだけ結晶としての最高の能力を持つ理愛であっても、所詮は数の暴力では成す術もない。
「兄さんがいれば、この状況を何と言うでしょうね?」
「り、理愛ぁ! そんなこと言ってる場合じゃないってぇ!」
「一人残らず殺し尽くす? いいえ、それは敵に対して。これはわたしの敵じゃない。なら――」
心配そうに、不安そうに、どうすることもできないこの状況に絶望したまま逢離は理愛を見詰めていた。衰弱している逢離の身体。このまま走らせるわけにもいかない。
だが、このまま立ち尽くしていれば間違いなく理愛と逢離はこの人で出来た荒波に呑み込まれ圧死するしかない。
やはり、虹子の力でなければどうすることも出来ない。
触れれば跳ね返し、触れたモノは止まるまで壊れ続ける、あの崩壊の壁が。
それがなければ、この肉の波を弾き返すことは出来ない。だが、理愛は使えない。
アレは、虹子の能力だ。
使用したければ虹子と切り替えなければならない。だが、どうしてもそれが出来ない。虹子は理愛の中にいるのだろうが、まるで応答に答えない。電話を繋がってはいるし、受話器も取ってはいるが返答してくれていないようなものだ。
理愛の声は確かに心の中にいる虹子に聞こえているはずなのにそれに対して答えを返す気はない、ということだ。
「全く、あの小娘……わたしにイジワルされたことを根に持っているのね。しょうがないわね……ここはわたしがどうにかします」
理愛は逢離の身体を抱きかかえる。お姫様抱っこだ。しかし如何せん絵にならない。明らかに逢離が理愛を抱きかかえるのならまだわかるが、そんな小さな身体でどうやって自分より大きな相手を抱き上げているのだ。
「り、理愛ぁ……ちょっと、これって……」
「静かになさい。いつも貴女がわたしにすることでしょう? ちょっと立ち位置が入れ替わっているだけじゃない」
「で、でもぉ……」
死に直面しているにも関わらず、逢離は羞恥で顔を染めてしまった。
いつも逢離が理愛に対して意地悪でこうして抱きかかえたりしていたわけだが、いざ自分がされると、いやはやどうして……かなり恥ずかしかった。
「お喋りはそこまでにしてください、舌噛みますよ?」
「――――えっ……?」
重力が、消えた。
理愛は逢離を抱えたまま強く跳んだ。
しかし飛翔したわけではない。ただ大きく、大きく飛び跳ねただけに過ぎない。
だがそれは常人では決して有り得ない高さだった。
一切の道具を用いることなく、ただ自分の身体だけで十数メートルは跳んだことだろう。もっとも屋根に近いところまで跳んでも理愛は澄ました顔のまま広場で群がる人達を見下している。そして、その中には切歌の姿もあった。
「す、すごい……理愛、いまなに、したの?」
「何って……貴女を抱いて、ジャンプしただけですよ。地面から足を離しただけです。どこか変でしたか? 何もおかしなことはしていませんが?」
おかしすぎる。不自然極まりない。
だが理愛は言葉通りのことしかしていない。
何の力も込めず、使わず、ただ逢離の身体を抱き締めて跳躍しただけだ。
それは花晶の基本能力。五感を強化し、肉体すらも強化する。ただ飛び跳ねるだけで高く遠くへ跳ぶことが出来る。能力を使わずとも花晶は十分に非常識なのだ。
「すごい……すごいよ、理愛……」
「凄くなんか、ないです。わたしはこういう生き物なんです。やっぱりおかしいですよね。逢離、おかしいでしょう?」
「……綺麗」
逢離は理愛の話をまるで聞いていなかった。
それどころか逢離が呟いた言葉はあまりにも意味深すぎた。
「何を、言って……」
「理愛って、天使なんじゃないの?」
「ふざけないでください」
「ううん、だって、その……翅が、見えるんだもん。光って、星が集まってる感じ。背中と足から光の翼が見えたんだもん」
「逢離……貴女、死に掛けてから少し頭がおかしくなってしまったんじゃ……」
理愛は馬鹿にすることはせず、本当に心配そうな顔で逢離を見つめてしまう。
「だ、だってホントなんだもん……さっきのもその翅で飛んだんじゃないの?」
「跳びました。鳥のように飛べるわけないでしょう……ただ跳んだんですよ。ジャンプしたって、つい数秒前に言ったんですけど――」
理愛は逢離のふざけた台詞に頭を抱えてしまった。
つい自分の背中を見つめてしまう。しかし天使の翅が生えているわけもなく、理愛はふと鼻で笑ってしまう。
天使なんかじゃない。そんな大層な存在なわけがない。それなのに――
逢離は理愛をジっと見つめている。酷く弱っているのに、その目の輝きだけは未だ健在。いつものように理愛に対して慈愛を込めて見ているのが理愛を困惑させる。
どうしてそんな目で見るのか。
人間ではない、別の何か。それはきっと怪物や化物といった言葉がきっと似合うであろう存在。それなのに逢離は憧れや尊さの感情を浮かべている。
「だったら、ここから飛んでみましょうか? 今すぐにでも兄さんのところへ行きたいですしね」
らしくない――理愛はそう心の中で呟いた。
だが、逢離はまるで新しい玩具を買い与えられた子供のように満面の笑みで、
「うんっ!」
力強く頷くのだ。
理愛なら出来る。理愛が出来ないわけがない。
絶対の信頼を寄せて、ギュっと肩に手を回してくる。
ああ、ダメだ……理愛はそう心の中で呟く。裏切れない。逢離の心を裏切ることができない。だから、理愛はほくそ笑む。何者かさえわからない、こんな不可解な生き物に対してこんなにも温かい視線を送ってくれるこの少女の手を離すなんて出来やしない。
「じゃあ、行きますよ……逢離。わたしから絶対に離れないで――」
「離すわけないもん。理愛、信じてる……」
理愛は空を見上げる。
空は宵によって夜を作り上げている。世界はもう暗闇に包まれている。下を見ればまるで餓鬼のように切歌によって操られた人達が理愛を捕まえようと広場から上へ上へと駆け上って来る。
だが、もう遅い。階段やエレベーターで辿りつけるところに理愛はいない。だって、もう……
(飛べる……わたしは、どこまでだって飛べるっ!)
そう強く胸の内で叫ぶ。
逢離を抱えたまま、理愛は既に高く宙を舞っていた。
屋根が開いてくれていてよかった。そのまま天を突き抜けるほどに高く飛び跳ね……理愛は星の一部となる。
「す、すごい、すごいすごいすごい……理愛、理愛ってやっぱ天使だったんだよ! 絶対そうだよ!」
「もう……そんなこと言わないで……」
欠けた月を背に、理愛は空を飛ぶ。天界から舞い降りた天使ならばどれほど幻想的だったろう。しかし理愛は違う。自分が何者かさえわからないただの白。そんな空白だらけの何も無い少女の形をした何かが、空を飛んでいるなんて不気味でしかない。
そして重力に逆らいきれずにそのまま理愛の身体はビルの屋上へ着地する。飛翔する夢は叶わなかった。だが、とてつもない高さを飛び跳ねることはできた。
それでも身体にはなんの影響も無い。着地と同時に身体が傷つくこともない。それはこの身体が人のモノではないから。結晶で出来たこの身体に限界というものは存在しない。人間ではないから、だからこんな常識外れを容易に行ってしまう。
「そんな顔しないー!」
「いたっ?」
逢離の指が理愛の鼻を突いていた。
きっと今の理愛の表情はいいものではなかったのだろう。
「誰がどう思ったって、あたしは理愛のこと大切だもん。だからさ、ほら……」
指差す方を見れば、そこは人工の光が照らす町が広がっている。つい先程まで殺意に満ち溢れた凄惨な場所にいたとは思えない。寧ろそんな過去を忘れさすほどに理愛の目に映る光景は美しかった。
「あたしはこの町で、理愛と一緒に暮らしたい」
「そう、ですね……」
それは理愛だって同じだった。自分が大切だと思えたものは数少ない。そんな自分が失いたくないと思ったものがある。
だからそれだけは絶対に失いたくない。それはもう自分の一部のようなものだ。欠損すれば正常に機能しなくなってしまう。
そして、その打ちの一つは守ることができた。しかしもう一つ、守らなければいけないものがある。
「先輩、助けに行くんでしょ?」
理愛の心境を逢離が変わって答えていた。
「ええ、そうね……本当にだらしなくて情けない何でも自分一人で片付けようとする勘違いの兄さんを助けに行きましょうか」
「……り、理愛、先輩のこと嫌いなの?」
侮蔑の言葉を並べ立てる理愛の台詞に対してつい逢離は訊いてしまう。
「何を馬鹿なことを――」
理愛は笑う。逢離は傾げる。
「大切な、兄です。だから助けに行くんです」
そしてその言葉と表情を前に逢離は確信する。自分は最初から時任雪哉に敗れていたのだと。どれだけ綺麗な言葉を並べても、きっと逢離は理愛にとっての一番にはなれない。そこにはおぞましいほどに高い壁がある。だから絶対叶わない。
逢離は溜息を吐いた。失恋とも近い感覚。だがそれでいい。それ以上は望まないし、望んではいけない。ならば永遠の二番手で居続けるように、理愛に愛想を尽かれないようにするだけだ。
「理愛っ!」
「ちょ、ちょっと何するんですか……飛ぶっていってもこれ跳んで落ちるの繰り返しなだけなんですからね!」
着地点を間違ってしまえばそのまま地上へ真っ逆さまである。
「いいじゃん、いいじゃんーだって理愛みたいに天使な女の子と仲良しでいられるなんて幸せなんだもんー」
「それ以上ベタベタするのはやめなさい、このまま墜落死させますよ?」
「そ、それはイヤかも……」
逢離は理愛を抱き締める力を少しだけ抜いた。だが全部の力を抜いてしまうと本当に理愛の身体から離れてしまいそのまま地面に真っ逆さま。無惨な姿になってしまうことだろう。
理愛は小さく微笑んだ。冗談である。
そんなことするわけがないのに。そしてそんな理愛の表情を見た逢離は少しだけ頬を膨らませて、
「もう……理愛のバカ――」
「貴女よりはお利口よ、それより離れないでくださいね。しっかり掴んでいてください」
理愛がそう言うと同時に、確実に重力が理愛と逢離の身体を地上に落下させようと墜落していく。
飛翔しているわけではない。大きな翼を羽ばたかせているわけでもない。ただ人よりも高く遠く飛び跳ねただけにすぎない。
「兄さん、待っていてください……」
胸騒ぎがする。嫌な予感しかしない。
墜落したはずの身体は音も立てずにビルの屋上を踏みつけ、再び天空を駆ける。まるで自分の身体ではないようなほどに、理愛の身体は強固で異常じみていた。
花晶は結晶の形を成さない異形である。人の形をしているが、その外見は人に近いだけでしかない。何で出来ているのかさえもわからない、未知が形を成して歩いているだけだ。
だからこそどれだけ高く飛び跳ねたところで、着地した際に足の骨が肉を突き破ることもなければ、粉砕して動けなくなるわけでもない。
まるでそれが普通なのだ。当然のように常識を超越し、超えることが当たり前なのだ。
理愛は逢離を抱えたまま駆ける。
自分が人でないことも、記憶も過去は抜け落ちて解らないことも、今はどうでもよかった。今はただ兄に会いたかった。
きっと姿形など兄の前ではどうでもいい。ただ雪哉はいつだって理愛の味方だから。味方は少しでも多いほうがいい。今だけは過去に向き合う余裕はなかった。それだけ理愛は焦っていた。
何故か雪哉がどこにいるのかがわかる。勝手に身体が動いている。呼ばれていると、言った方がいい。声のする方へ、その声は雪哉の声のような気がした。
「待ってて……」
だから理愛はもう一度そう呟く。
すぐにでも雪哉の安否を確認したい。切歌が虹子にも言っていたが、切歌の兄の名である夜那城切刃の名を呟いていた。それは切歌と同じように生命を殺す事の出来る意思を持った人間なのだろう。出なければ切歌が頼ろうとはしない。
厄介な連中に狙われてしまったのだ。切歌も切刃も目的はきっと理愛だ。だが、雪哉には理愛の力の一部が受け継がれている。もし目的の達成の障害となるのならば、排除するのは当然だろう。
阻止しなければいけない。切刃はきっと雪哉を殺すつもりであろう。
理愛の胸が熱くなる。雪哉は能力を持たない。異能は使えない。その左腕は結晶で出来たただの腕。少し強固で頑丈なだけでしかない。そう、理愛がいなければ能力は使用できない。
だが、理愛は知っている。雪哉は能力を使いたいと、そんな声が聞こえるのだ。戦うための力が必要だと。力を貸して欲しいと……だから許可をする。雪哉がどのような状態で、どういった状況に巻き込まれているのかはわからない。だが、力を貸すことは出来る。
だから理愛は心の中で能力の使用を許可した。どうぞ使ってくださいと、承認する。
こうして雪哉が望む力を、貸し与えることができる。
理愛にはその力がある。無責任だろう。能力だけを与え、戦わせる。自分は背中に隠れるように逃げるだけ。
だけど、その場から逃げるような卑怯なことだけはしない。臆病ではある。しかし、卑怯な手段だけは取りたくない。
だから雪哉の背中を守るようにして、一緒に戦うのだ。理愛自身が雪哉の能力のようなものだ。
声が聞こえる。雪哉が戦っている気がした。そう遠くないどこか、いや、もうすぐそこ、近い。見える。見える。見える。
雪哉が敵と戦っている。助けに行きたい。もっと力を、兄に力を与える為に――
そしてそのまま理愛は逢離を抱え、闇の彼方へと消えていった。
「行って、しもうたな――」
そんな空を駆け抜けるように消えていく理愛を背後から見つめていたのは夜那城切歌だった。すでにショッピングモールを抜け出し、彼女もまたビルの屋上に立ち尽くしていた。
「本来の使い方とはちと違うからのぉ……そう上手くできんもんじゃ。まぁ、いい。さっさと私も切刃と合流せんとな。さすがに時任理愛とその兄が二人一緒になれば切刃一人では厳しかろうて」
切歌は決して時任兄妹のことを侮ってはいなかった。寧ろ覚悟しているほどだ。あれは花晶としては最も危険であるということは知っている。
ましてや雪哉と理愛が一緒になれば、全ての結晶の能力を破壊するという禁忌の使用が可能とされる。如何なる能力であろうとも時任兄妹の前では無意味だ。無敵という能力を持つ月下虹子ですら敗北したのだ。そんな存在に無傷で勝利を勝ち取ることは困難を極める。
「やれやれ……理愛は気がついておらんようじゃが、あれは確かに天使そのものじゃな……」
理愛が空を飛び跳ねる度に落ちていく光の残滓。それはまるで天使の羽根。
そんな姿を見て、切歌は強く舌を打った。
ここで決着をつけることが出来ればどれだけよかったか、だが終わらなかった。それどころか理愛は何一つ失うことなくこの場を乗り切ってしまった。
失敗に関してはどうでもよかった。切歌自身も単体でどうにかできるとは思っていなかったからだ。そんなことよりも、
「本当に、何も覚えておらんのか? いや、それはどうでもいいか。私は、もうそれ以上のことを考えても意味がないしの」
理愛の記憶の欠如に関してはやはり納得がいかないようだった。虐殺のことをしておいて何一つ覚えていないと言い切った理愛。
だが、それは嘘偽りなく、本当に何も知らない解らないといったような表情だった。視線も真っ直ぐだった。誤魔化すように逸らすこともしなかった。
「もう、いいかの……これ以上考えても無意味じゃろうし、切刃と一緒に殺ればいいだけの話か――」
そんな物騒なことを言いながら切歌は胸を張り背筋を伸ばした。
ゆっくりと身体を屈め、跳んだ。理愛のように大きく跳んだのだ。
「終わりに、するかの……」
そして切歌もまた理愛のように闇の中へと消えていった。